第5話

 ハニエルは朝の上機嫌な気分のまま仕事に取り掛かると、あっという間にそれを片付けてしまった。元々要領はよく仕事の早い彼であったが、ここ最近は机に座って作業をしていると体調を崩すことが多く、その日の仕事をどうにか片付けるのがやっとであった。

 今日は本当に調子が良かったので、明日の分の仕事まで片付けてしまったほどだ。


「魔力は上がっているのに、体力はめっきりなくなっちゃったからなぁ……」


 しばらく控えていた葉巻に手を伸ばす。体調を崩す前は酒も葉巻も彼の楽しみだった。

 細めの形状のものを手に取ると、慣れた手つきで吸い口を切る。指先に魔力を集中させ、程よい大きさの炎を灯し葉巻に着火した。口の中で刺激的な味が広がっていく。久しぶりの心休まる時間だった。


(それにしても……)


 ハニエルはもう一度指先に炎を灯す。

 詠唱なしで魔術を二度使用したのにも関わらず、彼は疲れを一切感じていなかった。どうやら魔王を封じてから、肉体と精神に大きな負荷が掛かっているものの、魔力の消費に関しては以前よりもタフになっているらしい。

 日頃の疲れは魔術の使用ではなく、魔王との腹の探り合いが原因だった。そうとわかると、途端に馬鹿らしく思えてくる。


「今まで使えなかった魔術も、使えるようになってるのかな」 


 ハニエルは魔術の知識が豊富だ。

 よって、魔力不足で発動こそできないものの、構造だけを理解している魔術は数多い。そのどれもが高度な術式で、理解するのにも高い学力が必要だった。

 勤勉だとよく言われるが、ハニエル自身は好奇心が強いだけだと思っている。


「試してみたいけど、ここじゃ無理だよなぁ」


 ハニエルは元々魔力が高い。そんな彼ですら扱えない魔術となれば、私生活で暇つぶしに試すような代物でないことなど火を見るより明らかだ。

 物騒なことを考えながらハニエルはぼんやりと葉巻を楽しんでいた。味が濃くなってきたので、苦味を抑えるために甘い菓子が欲しくなってきたところだ。たとえばそう、真っ赤なりんごの焼き菓子とか……

 厨房に行こうと席を立つ。すると、部屋を出たところで彼は異変に気が付いた。


「ハニエル様! ハニエル様大変です!」


 廊下の突き当たりで兵士たちがハニエルの名を呼ぶ。呼ぶというよりむしろ、〝叫ぶ〟の方が正しいだろう。

 忙しない様子に何事かと声を掛ければ、息を切らした兵士が早口で話す。


「後宮で、騒ぎが……」


「まさか、母上に何かあったのかい?」


 後宮は女官とハニエルの母、イヴァが普段生活している場所で、ハニエルが生活している本宮とは少し離れた場所にあった。


「イヴァ様はご無事です。ですが——」


 兵士の言葉が詰まる。

 するとその時、風が吹いた。生ぬるい風だ。

 そしてハニエルは風音の中から確かにそれの鳴き声を聞いた。


〝グワァ! グワァーッ!〟


 ハニエルはすぐになにが起きているのかを理解した。そして気付いた時には駆け出していた。

 可能な限り早足で現場に向かう。本当は全速力で後宮に向かいたかったのだが、今の彼は体力が乏しいのでそれはできない。


「危険ですからお戻りください! 魔獣は我々で引き受けますので、後方で指揮をお願いします!」


 引き止める兵の言葉を無視してハニエルは進む。

 風が強い。後宮に近づくにつれ舞い上がる粉塵でまとも

 に目が開けられなかった。


「ずいぶん派手に暴れているね……」


 詠唱が聞こえる。恐らく魔術師たちが応戦しているのだろう。

 化け物の鳴き声が高らかに響き渡った。

 吹き荒ぶ風が弱まり視界が晴れる。するとようやく、それまで大暴れしていた化け物とまともに対峙することが出来た。

 ハニエルが見たのは、純白の羽を持つ勇壮な獣だった。


「風が止んだぞ! 弓兵は前へ!」


 空を舞う巨体目掛け弓矢が一斉に放たれる。だがしかし、風を操る化け物に矢は無力だった。化け物が風を纏うと容易く矢が弾かれる。

 鮮やかな碧の力が化け物から発せられていた。

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