4章

第1話

「懐かしいですね」


 螺旋階段を登った先、目的の最上階へ到着したハニエルとミラージュは、過去の思い出話に花を咲かせていた。思い出話というには少し、気が重たくなるような内容だったが……


「確かにあれは凄惨な内容の儀式でしたが、今思うと必要なものでした。このろくでもない魔王様とお付き合いするには、あれくらいしないと話にもなりませんよ」


 注がれた紅茶を飲みながら、ハニエルはゆったりとした口調で語った。従者が持ってきたのは体が温まるジンジャーティーで、ほっとする甘さが口の中に優しく広がっていく。

 彼の声は穏やかだ。しかし、その言葉は強い。


「父上の事も今はきちんと整理がついています。母上の代わりだって思っていた時期もありましたけどね」


「ハニエル……」


 気弱だったハニエルが変わったのは壊醒が始まった後からだ。内容はジブリールが話していた通りのもので、例に漏れず儀式が終わる頃にはハニエルの人格は激変してしまっていた。


「あなたは気付いているんでしょう?」


 ミラージュが含みを孕んだ声で問う。


「なにをです?」


 ハニエルは一瞬、ミラージュがなにを言っているのかわからなかった。

 傍にあった本の表紙をなぞる。古びた魔術書だった。

 魔術を研究するための塔というだけあって、この部屋には数多くの書物が置かれている。魔術の詠唱文句や魔方陣を記した魔術書もあれば、人の体や精神についてなど、おおよそ直接魔術とは縁が無さそうなものまで、多岐にわたり置かれている。壁一面が本棚といってよいだろう。

 ミラージュはハニエルの指を眺めながら、厚めに口紅の乗った唇をなぞる。


「なにって、ロゼのことよ」


 ロゼ——。ミラージュがそう呟いた瞬間ハニエルの表情が陰りを帯びる。ミラージュはその様子を確認すると、ふっと一息、笑みを浮かべた。


「賢いあなたならとっくに気付いているのでしょう?」


「……」


 ハニエルは答えない。

 彼女の指摘通り、ハニエルは察していた。そしてそれは、ハニエルの父、ジブリールが提案したことなのだろうということも。


〝俺含めて、みんなどこかおかしかった〟


 そんなことをジブリールは話していたが、確かに彼自身もどこか思考が狂っていた。そうでなければ、ロゼはこの世に生まれてすらいなかったはずだ。

 一向に口を開かないハニエルを気遣って、ミラージュが優しく話し掛ける。「どうしたの」と発せられた声は、男性の低い声であるにも関わらず、母親のように温かいものだった。


「意地悪言ってごめんなさいね。ただね、アタシはあなたがこのことで気を揉んでいるんじゃないかって心配なのよ」


「それは大丈夫ですよ」


 思いの外はっきりとした声にミラージュは目を見開く。

 ぱちぱちとまばたきを繰り返すミラージュを見ながらハニエルは話し始めた。


「ロゼの生まれた理由がなんであれ、彼女が僕にとって大切な人に変わりありませんから」


 毅然とした態度でハニエルは言った。

 彼の目は真っすぐにミラージュの双眼を見ている。そこに、かつて泣き虫だった少年の姿はどこにもない。


「本当に強くなっちゃったわね」


 ミラージュは少し寂しそうに言った。

 子離れとはこういうものなのかと、彼女はぼんやり考える。弟子の成長を嬉しく思う一方で、悲しいと思う気持ちがないといえば嘘になる。

 感傷に浸るミラージュに水を差すように、ハニエルは彼女の言葉を否定した。


「いいえ、僕も歴代の王と同じく、なにかがおかしくなっただけですよ。強くなったんじゃない。正しく強く成長したなら、父の考えに怒りを覚えるはずなんです」


 ハニエルは紅茶を一口飲む。ひと呼吸ついたところで、彼は話を続けた。


「僕は父に感謝しています。ロゼを〝手配〟してくれた人ですから」


 ハニエルが笑う。その笑顔は歪で、この上なく怖気が走るものだ。


「師匠はいつからこのことを?」


「あなたが生まれた時から知っていたわ。まったく、ジルは頭が悪いくせにこういう変な知恵が働くから困るわね」


 彼女は困ったように肩をすくめた。旧知の仲であるミラージュは、ジブリールを時折愛称で呼ぶ。先代の王に対して不敬ではあるが、咎めるものは誰もいない。


「ロゼが知ったら大変よ」


「ええ、ですから師匠、くれぐれも彼女にはこの話をしないでください。きっとロゼは自分を責めますから」


 ハニエルの申し出にミラージュはゆっくりと頷く。彼女にとってもロゼは可愛い存在なのだ。むやみに傷つけることはしたくない。

 ——全てはハニエルのために。

 そう言って頑張ってきたロゼの姿を思い出す。ハニエルを守るためだと女の細腕で剣を振るい、傷をつくり、血で汚れた。時には辛い選択を選んだ事も数多くあった。

 そんな彼女を知っているからこそ、余計に可哀想だとミラージュは思う。


「ありがとうございます、師匠」


 申し訳なさそうにハニエルが言う。彼の表情は先ほどとは違い、とても綺麗な笑顔だった。

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