第2話

「あ、お……」


 夢の中で最後に見た色を口走っていた。それは、はっきりと脳裏に焼き付いた色だった。


「一体なんだったんだろう」


 釈然としない様子でハニエルは目を覚ます。いつもと同じようで違う不快感が気持ち悪い。


 途中まではいつも通り、魔王の悪趣味な夢だった。しかし問題は目覚める直前に起こった。

 記憶にあるのは優しい声と眩い碧。明らかに魔王とは違う力の介入があった。今まで一度もそのようなことはなかったのに——

 ベッドから起き上がるとつつつ、と寝汗が頬を伝う。少し疲れが残っていた。


「僕はハニエル。僕は、ハニエル……」


 それは悪夢から目覚めた時に自分を見失わないようにするための自己防衛。

 言い聞かせるようにハニエルは自身の名前を繰り返す。これはここ最近で身に付いてしまった癖だ。彼は魔王と関わってから絶え間なく悪夢に苛まれていた。


 人が寝ている間にみる夢というのは滅茶苦茶なもので、大概の夢は目覚めれば忘れてしまう。

 だがしかし彼は違っていた。ハニエルは自分のみた夢を忘れることはない。忘れようにも忘れられないのだ。


「大丈夫、僕はまだ僕だ」


 深く息を吸い込み気分を落ち着かせる。

 落ち着いたところで窓の外を見てみれば、気持ちの良い青空が広がっていた。執務中、気分を悪くしたハニエルは仮眠をとっている最中だった。

 この後の予定は——そう思ったところで慌てて部屋の時計を見る。書棚の隣に置いてある大きな振り子時計は、午後二時をとうに過ぎていた。


「……まずい。二時から面会予定があったんだ!」


 もう一度時計を見るが、やはり二本の針は面会予定の時刻をとっくに過ぎていた。

 ふらつく体を支えながらハニエルは慌てて身支度を済ませていく。多少の寝癖は否めないが走りながらでも整えることにしよう。


 上着を乱暴に掴み取ったところで足がもつれる。急に動いたせいか、立ち眩みがハニエルを襲った。

 体勢を崩した体はそのまま背後にあった書棚にぶつかり、ハニエルは尻餅をつく形となった。背中を強かに打ちつけたが、あいにく痛みは感じない。

 反動で書棚が揺れている。

 ハニエルが起き上がろうとしたそのとき、書棚の上からなにかが落ちてきた。


「げっ」


 落下してきたのは調度品の大きな壺だった。豪華な装飾が施されたその壺は、頭に直撃したら間違いなく大事になるだろう。

 咄嗟に頭を庇う。しかし壺は彼にぶつかる直前で、まるで壁にでもぶつかったように音を立てて割れてしまった。


「あーそうか。そうだった」


 ハニエルは忘れていた。魔王を左目に封印してから、身の危険が迫ると自らの意思に関係なく結界が出現するようになっていたことを。

 彼は複雑な表情で左目を撫でる。


「こういうときは素直に君にお礼を言っておくよ、助かった。ああ、君は人間に親身にされるのが嫌いだったね。〝ごめんね〟」


 不敵な笑みを浮かべれば癇に障ったのだろう、わずかに左目が疼いた気がした。

 歯牙にも掛けない澄ました顔でハニエルは起き上がる。割れた破片に注意を払いつつ乱れた身なりを整えたところで、部屋の外から誰かが駆けてくる音が聞こえた。


「ハニエル様! ハニエル様どうなされたのですか!」


「ロゼかい? ごめんごめん、ちょっと転んでしまってね」


 扉を開けると部屋の前で待っていた女性、ロゼを招き入れる。ハニエルの緩慢な様子とは対照的に、ロゼは実に機敏な動作で部屋の中へと入っていった。風を切るように、ミルクティ色の長い髪と白いコートが揺れる。

 機能的なコートの下から、見事な双剣が顔を覗かせた。


「なんですかこの破片!?」


 彼女は部屋の惨状を見るなり血相を変えてハニエルに詰め寄る。


「お怪我は!? それに、体調は大丈夫なのですか!?」


 矢継ぎ早に質問を投げてくるロゼにハニエルは少し慌てた様子で半歩退く。彼女の紅玉の瞳は不安と焦りで揺れていた。

 騎士である彼女は主人——ハニエルのことだ——が傷つくのを極端に嫌がる。


「あはは、そんなに心配しないでよ。僕は魔王様のおかげで大事ないからさ」


 そう言って自分が無傷であることをロゼに見せる。確かに彼に外傷はない。 

 彼女はしばし訝しげにハニエルのことを見ていたが、無傷であると確認すると安心したように表情を和らげた。


「お怪我がなくて本当に良かった……」


 花が綻ぶように笑うロゼにハニエルは思わず目を逸らす。彼女の笑顔は彼にとって特別で、どんな宝より価値のあるものだった。


 気まずい沈黙が訪れる。ハニエルの顔はわずかに赤い。

 様子のおかしい彼が気になったのか、ロゼは不思議そうに首を傾げるとハニエルの左右異なる色の瞳を凝視した。さらに距離が縮まる。


「あ……ああそうだ! 面会の予定があったんだ!」


「え? ハニエル様、面会の予定は——」


 ロゼの言葉を最後まで聞くことなく、羞恥に耐えられなくなったハニエルが逃げるように部屋から出ていく。

 その際、騒ぎを聞きつけてやってきた従者がすれ違いざまに、


「やだなぁ、二人ともお熱いですね」


 と冷やかしてきた。従者の呟きがハニエルの耳に届くと、彼の進む速度がより一層と速くなる。


「ハニエル様お待ちください!」


 急ぐハニエルをロゼが呼び止める。彼女の白いブーツが不規則な音を立てると、身を翻したハニエルの上着を掴んだ。

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