1章

第1話

 ぐしゃりと耳にこびりつく音が聞こえた。なにかが飛び散る音と共に真新しい血の鉄臭さが辺りに広がっていく。目の前にある肉の塊は先ほどまで生物だったものだ。

 血溜まりに浸された髪は長く、淡いミルクティ色をしている。白い肌に柔らかな体、そして澄んだ紅玉の瞳は、死の間際まで自分の身になにが起こったのか理解していないように思えた。

 彼女の瞳はある一点を見つめたまま留まっている。

 その視線の先にいたのは、一人の青年だった。


「あのさ……」


 女の死体を見ながら青年——ハニエルは呆れたように呟く。その声はとても呑気で、目の前の光景をさして気にも留めていない様子だった。不思議な虹彩の瞳がひどく辟易した様子で細められる。


 ハニエルの瞳は左右異なる色をしていた。右が黒で左が紫だ。

 彼はその希有な瞳で周囲を見回すと浅く溜め息を吐いた。湿気が酷いのかここは蒸し暑く不快で埃臭い。加えて光がろくに届かずまるで地下牢のようだった。


 彼はこの場所を知っていた。擦れる足枷の金属音、素肌を伝う水滴の冷たさ、壁に染み付いた血の臭い——その全てがあらゆる感覚に焼き付いていた。視覚や聴覚、嗅覚や触覚に至るまで焼き付いた記憶が、ハニエルの感覚を刺激する。


「君も懲りないよね。次はどんなものを見せてくれるのかな?」


 ハニエルが初めてここを訪れたのは十年前。日が沈んで間もない宵のうち、父に連れられ震える足を叱咤しながら足を踏み入れた。恐怖でうまく呼吸ができなかったのを覚えている。


〝俺はお前を——愛している〟


 そう言って抱き締めた父の手は、ハニエルと同じくらいに震えていた。息が苦しくなるほどの抱擁は、ハニエルの脳裏に今でもしっかりと刻まれている。


「居るんだろう? 出てきて僕と話そうよ」


 呼び掛ける彼の視線は何もない空間を捕らえていた。

 目の前はただの石壁だ。しかしハニエルはそこに〝あるもの〟の存在を感じ取っていた。

 挑発するように目を細める。すると、その次の瞬間には彼の左目が潰されていたのだった。


「——っ!!」


 飛びそうになる意識をかろうじて繫ぎ止めるが、激しい痛みに彼は膝を折りうずくまる。

 周囲に飛び散った鮮血は石壁を濡らし、それでも尚滑り気を含んだ血液は、彼の左目から流れ続けては地面へと滴り落ちていった。

 ぬらぬらとした血液がハニエルの黒髪を濡らし、頬に張り付く。


 咄嗟に左目を抑えた手からなにかが零れ落ちる。右目でそれを見ると、そこには見慣れた紫色が転がっていた。

 右目を半月状に歪ませる。闇を称えたその黒い目は、何者かを嘲笑しているようだった。


「はっ」


 吐き捨てるように呟く。ハニエルは、笑っていた。


「君って馬鹿なんじゃないの? 発狂させたいならもっと上手にやりなよ。こんなに痛みを感じるなんて、僕の体じゃありえないよ」


 彼はもう一度目の前の石壁を見る。相変わらずそこにはなにもない。

 左目の激痛は治まっていた。血を拭えば眼窟には固い弾力がある。


 ——これは夢だ。そう意識した瞬間、潰されたはずの左目は、何事もなかったように戻っていた。そしてハニエルは鋭く眼前を射抜く。空気が揺らいだ気がした。


「あー痛かった」


 彼は立ち上がると傍にある女性の死体を見る。

 彼女の死はこれで何回目だったろう。興味本位で数を数え始める。しかし、思いの外その回数は多く、途中で数えるのも馬鹿らしくなり考えることをやめた。夢とはいえ好きな人の死んだ回数を数えるのは気分が良いことではない。


 あるときは痛ぶるように、あるときはなんでもないように呆気なく彼女はハニエルの前で死んでいった。それはもう、何度も何度も。ときには別の男に抱かれている光景を見せつけられたこともあった。

 最初こそ気が動転し我を失いかけもしたが、毎夜そのような夢を見せられては次第に慣れていくものである。


「君、本当に懲りないね。何度彼女を殺しても、何度僕を痛ぶっても、僕は屈しない。だからいい加減服従してよ……魔王サマ」


 ——魔王。

 そう呟いた瞬間、呼び掛けに呼応するように目の前の石壁から黒い靄が立ち込めていく。

 薄暗い空間がたちまち暗闇に包まれていき、辺りは黒一色となった。染料を何重にも重ねて塗り潰したようなその暗さは、全てを飲み込みそして全てを拒絶するように深い。

 どちらが前なのか、どこが地面なのかわからなくなった空間の中で、ハニエルは気怠そうに欠伸をした。


〝生意気な事を言うようになったなァ〟


 地の底から這い出た声が地鳴りのように響く。聞くものを圧倒する威圧感を含んだその声は、なにも知らない人間を震え上がらせる程度にはおぞましいものだった。

 しかしそんな声を聞きながらも、ハニエルは冷静さを欠くことはない。意にも介さない物言いで毅然と話す。


「毎晩こんな夢に付き合わされたんじゃ仕方のないことだよ。だって君、面白くないんだもの」


〝お前が喜ぶものを与えてどうする? 我はお前を殺すことが本懐なのだぞ〟


「本当に僕が死んだら困るのは君の方でしょう? 出来もしない事を軽々しく口にするなんて見苦しいよ」


〝これだから人間は愚かだなァ! 死の概念は一つではない。もう少しまともな頭の持ち主だと思ったが所詮お前も人間よ、ハニエル〟


 少しの沈黙が訪れる。魔王の皮肉にハニエルは一瞬目を丸くすると、鼻で彼のことを笑ってみせた。

 そしてハニエルはこれまでにないほど嬉しそうな笑顔で


「ありがとう。そうだ、僕は人間だよ。だから僕は君の事を受け入れることはないんだ。一生ね」


 と、言った。人間という響きは、ハニエルにとってこのうえもない褒め言葉に過ぎない。


〝ははは! そうだ、そうだったなァ! やはりお前は我に屈するべきなのだ! 人間など、我の前に皆平伏して——〟


 まるでなにかに突き飛ばされように、魔王の会話が不自然に途切れる。

 ここはハニエルの夢だ。魔王を退けられるとしたら彼以外ではまず不可能だろう。しかし、ハニエルにそんなことをした覚えはなかった。

 ならば、この状況は……


〝ハニエル様。もう少し、もう少し耐えてください〟


 突如聞こえたその声は、ハニエルにとって全く聞き覚えのないものだった。落ち着きのある優しい声は恐らく青年のものだろう。


 ——魔王の新しい嫌がらせか? そう勘繰ったものの、ハニエルはどうにもこの声が魔王のものとは思えなかった。


〝待っていてくださいね。僕が必ず——〟


 最後の言葉が聞き取れないまま周囲が白み始める。暗闇が霧散していきまばゆい光が降り注いだ。目覚める間際、ハニエルは強烈な光を目の当たりにする。

 眩むほどの明るさの中で彼が覚えていたのは——

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