いつかのどこかのだれかの話
生温い感触が右半分を覆っている。肉を引き裂く灼熱の痛みと垂れ流される血がひどく煩わしい。
「神よ! 今こそ僕に力を!」
あと少しだった。あと少しで、世界が平和になるのだ。
そのためなら、右目の欠落など瑣末な問題だった。僕の世界が半分失われようと、それで世界が救われるなら——
〝お前は考えたことがあるか?〟
目の前の怪物は先ほど僕から奪い取った体の一部を転がしている。手の上で弄ばれるそれはかつてとても神秘的な色をしていたが、あるべき場所から引き離されたせいか、白く濁った色をこちらに向けていた。
〝思い出せ、そして考えろ。この世界を動かしているのは誰だ?〟
怪物は尚も問う。一抹の不安が過ぎった。考えてはいけないとわかっているのに、憶測が膨らみ最悪の事態を想起させる。
目の前の怪物が笑った。
〝お前が賢い人間で助かったぞ〟
そして怪物は饒舌に語る。語られるその内容は、あまりにも耐え難い真実だった。
「う、そだ……」
奈落へ引きずり下ろされるようだった。
僕はほんの少し前の僕を呪う。どうしてあの場で思考を止めなかったのか悔やんだ。
「うそだ」
信じていたんだ。なにもかもうまくいくと。
「うそだ」
未来を信じて耐えてきたんだ。
「うそだ……っ!!」
全てを否定するように絶叫した。ほくそ笑むように怪物がこちらを見ている。
嘲笑う半月の瞳が憎らしくて、僕は歯を軋ませた。
〝さて、我をどうする?〟
試すような問いかけに僕は過去を振り返った。湧き上がる絶望に、鮮やかだった未来の色が失われていく。
迷えば迷うほどに淀みが溜まっていくようだった。濁流が体中に流れ込み、心が溝に沈んでいく。
口の中で鉄臭さが広がっていった。だが、痛みはもはや感じない。
——そして僕は、狂気が忍び寄る音を聞いた。
「どうするもこうするもないよ。君はこの世界に必要ない、だから僕が君を殺す。永遠に殺し続けてやる」
それは自分の声とは思えないほど低い声だった。怪物から笑みが消える。
その様子が小気味よくて、僕の顔から自然と笑みが零れてきた。
(神よ、どうか僕の身勝手をお許しください)
歩みを進めていく。足取りは重いが歩けないわけじゃない。真隣にある狂気を感じながら僕は自分を信じて進む。
たとえこの選択が誤りだったとしても、それでも僕は僕の行いが間違いではなかったと胸を張って言えるだろう。
「遠い未来のことなんてわからない。だから僕は、今ある幸せを掴み取るために前へ進むよ」
僕は力強く大地を踏み締めると、己の左目に全てを賭けた。
青空を臨めないのなら、はじめから空の青さを知らなければいい。
空の青さを知らなければ、鈍色の空が正しくなる。
世界が晴れることはない。それでもきっと、人は生きていけると信じているよ。
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