第27話

 誠司に何度も頭を下げた。勝手に同棲を始めてしまったこと、この家に他人を住まわせてしまったこと。そして、今まで迷惑をかけたこと。


 誠司はため息を一つついた。


 一口茶をすすり、そこでようやく口を開く。


「一番最後のは、もう仕方がないことだ。どうしようもない。俺だってわかってるんだ。不幸なんてのはどうしようもないことだし、治そうと思って治るものでもない。それに恵さんの件に関してもお前を責めたりはしない。深く沈んだお前の気持ちを、彼女が掬い上げてくれたんだろう」

「ありがとう、兄さん。そう言ってもらえるとありがたいよ」


 光輝の横で、恵は固くなっていた。両腿の上に両拳を乗せ、固い表情で誠司を見ていた。


「それに、この家はもうお前の物だ」

「それは違う! ここは兄さんが帰って来る場所だって言ったじゃないか!」

「いや、そうじゃないんだ。実家として残っていてくれればいい。俺の部屋も片付ける。その、なんだ。俺はあっちで家を建てようと思ってるんだ」

「それって、もしかして」

「そうだ、結婚しようと思ってる。今度改めて連れてくるがな。だからこの家はお前が住め。母さんの部屋でも父さんの部屋でも勝手に使えばいい。こんな言い方しかできないが、恵さんの部屋も必要だろ?」

「でもそれじゃ……」

「両親のことは大事だよ。当然だ。だがな、今生きているのは俺と、お前と、恵さんだ。生きてこの家にいるのはお前と彼女だろ。だったら彼女のためになることをしろ。お前のためになることをしろ。倫理的に問題がなければ俺も文句は言わん」


 寂しい気持ちと嬉しい気持ちが共存していた。兄の居場所を奪い、最愛の女性の居場所を作る。端的に言えば、そういう感覚だった。


「気にするなという方が無理なんだろうな、お前にとっては。だがそれでいい。お前は優しいヤツだ。そのままでいればいい。だから恵さんにお願いがある」

「は、はい!」


 背筋を伸ばし、どもりながらも返事をした。


「コイツを引っ張って欲しい。男としては弱いからな。このままじゃ、コイツは俺の部屋を残しておくだろう。両親の部屋もそのままにするかもしれない。だから尻をたたき、尻に敷いて欲しいんだ」

「でも、弟さんですよ?」

「弟だからだよ。こんな弟と一緒にいてくれる。どうしてだろうな、キミと出会ってから光輝は明るくなったし、それに従って不幸も改善されたように見える。たぶん、キミでなければダメなんだと思う」

「そう言われると照れますね……」

「光輝にとっては幸運の女神、ってとこだな。きっと家の鍵を拾ったのもなにかの縁だろう」

「最初は鍵を拾っただけだったんですけどね。次の日は財布で、その次の日は免許証。こんなにも落とし物をする人がいるんだって思いました。いや、私に拾わせるために落としているのかとも思いましたけど」

「昔からそういうヤツなんだ」

「話してみてもなよなよしてて、自虐的で、もうなんなんだよコイツって思いました。でも、とっても優しかったから。具合いが悪くなれば看病してくれるし、心配もたくさんしてくれるし」

「コイツの良いところを悪いところを全部ひっくるめて面倒見てくれるのはキミだけだと思ってるよ」


 誠司は「さてと」と言いながら立ち上がった。


「俺はそろそろ帰る。結婚式の話とか家の話とかいろいろあるしな。こっちも忙しいんだ」

「うん、わかった。玄関まで送るよ」


 リビングを出て玄関へ向かった。兄の背中をみつめながら、いつの間にか同じ背丈になったんだなと、時間の速さを感じていた。


「それじゃあな。また連絡する」

「お嫁さんも連れてきてね」

「さあ、どうするかな」

「兄さん!」

「嘘だよ。じゃあな、光輝。それと恵さん、愚弟をよろしくお願いします」


 誠司は深々と頭を下げた。


「こ、こちらこそよろしくされます!」


 呼応するかのようにして恵も深く頭を下げた。


 頭を上げた誠司は涼やかな顔をして玄関を出ていった。


 二人も靴をひっかけて玄関に出る。やや時間があって、玄関の前をワンボックスカーが通過した。誠司は最後に手を振っていた。


 光輝は左手で、恵は右手で手を振った。反対の手は、お互いの手でつながれていた。


「さて、じゃあお兄さんが言う通りに模様替えしますか。私お母さんの部屋もーらいっ」

「じゃあボクは父さんの部屋かな」


 恵の後ろを追いかけるようにして家に戻っていった。


 付き合い始めて五ヶ月が経過しようとしていた。しかし同棲をし始めたのは付き合ってすぐの頃だった。恵が住んでいたアパートが、隣人のせいで全焼してしまったからだ。


 光輝の落とし物を拾い続けた恵は、面倒だなと思いながらも光輝のことを気にかけるようになっていった。


 恵と出会ってから運気が上向きになり、光輝の生活がどんどんと安定していった。彼女が幸運の女神だと信じて疑わなかった。


 やがて光輝が恵を食事に誘うことになり、罵られながらもデートの回数が増え、同棲するようになった。


 兄との関係が戻ったのは、光輝の事故が原因だった。一日意識不明になり、いきなり復帰した。光輝は事故に遭う前に恵とケンカをしていた。兄との関係も、恵との関係も、その事故が解決したと言っても過言ではなかった。


 それからなんだかんだと仲良くやってきた。


 恵は数ヶ月前に仕事を辞めていて、ようやく新しい仕事に就いた。旧友の紹介で編集部に入った。忙しいが楽しいと光輝に話していた。


 光輝にも、恵にも両親はいない。恵の両親と祖父母は、彼女が幼い頃に他界していた。親戚中をたらい回しにされた後で、施設に預けられることになった。自分だけで生きていかなければという信念の元、新聞配達やアルバイトなどをしながら、奨学金制度を上手く使って大学まで出てきた。


 光輝は、そんな彼女を尊敬していた。自分には絶対にできないことだ。


 でも彼女の弱さも知っていた。一人でやってきたからこそ、甘え方を知らなかった。頼ることを知らなかった。そんな彼女を、光輝は受け入れた。それでいいよと、それがキミなんだよと。


 逆に、恵は光輝を尊敬していた。様々な不幸を背負いながらも、両親の言うことをキチンと咀嚼し飲み込んで、自分の生き方へと昇華させた。どんなことがあっても、誰に対しても真摯に接することができる。それに、持っている優しさを貫き通す強さがある。


 でも彼の弱さも知っていた。人の顔色を伺いすぎること。強く意見を言えないこと。優しすぎること。そんな彼を、恵は受け入れた。それでいいんだと、それがお前なんだよと。


 似ていないように見えて似た者同士の二人。それはお互いに気づいていて、けれど口には出さない。


 お互いの欠点を補いながら、二人は手を取り歩いていく。ケンカをして、仲直りをして、それを繰り返しながら手を握りあう。どちらともなく手を差し出す。そういう関係だった。


「ねえ光輝」


 恵が急に振り向いた。


「うん? どうしたの?」

「お兄さんが結婚したら、次は私たちの番だね」

「そ、そうだね」

「なんて言えばいいのかな、今から考えておかなきゃ」

「どういうこと? 話がつながらないんだけど」

「私には肉親がいないじゃん? でも光輝にはお兄さんがいるでしょ? そうなると私がお兄さんに言うべきでしょ。「弟さんと結婚します!」ってさ」

「んなバカな」


 そう言いながらも、本当にやりそうだなと微笑んだ。光輝の顔を見て恵も笑った。


 一歩二歩とスキップをして、光輝は恵の前に立つ。


「これからもよろしくね」

「こちらこそ」


 キスをしようと顔を近づける。が、逆にキスされてしまった。


「もう、なんだよ」

「じれったいんだよお前は」


 二人の関係は、きっとこれからも変わらないだろう。問題ばかりの人生を歩いてきた二人は、自分のための幸福を、自分以外の誰かと一緒に手に入れた。


 幸せそうに笑い合う二人の姿を見て、天使が小さくほくそ笑んでいた。

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