第26話

 光輝の自室にあったものを半分ほど物置に入れた。空いたスペースに恵の私物を起いた。


 そしてこれからは二人で仏間で眠ることにした。


 父と母の部屋はこれ以上いじらないようにと決めた。兄から了承が得られるまでは、この家は自分と兄の家だから、という理由だった。


 必要なものを移動させるだけでも、ほぼ一日作業になってしまった。十時前から行動を始めたが、光輝の怪我が治りきっていないのも理由の一つだった。


 前のときと同じだ。洗濯機をかけながら掃除をして、時間が来たら食事をして、洗濯物を干して。その姿は恋人というよりも夫婦に近かった。


 記憶がなくなる最後の日。それなのに、二人は楽しそうに会話をしながら掃除や模様替えに精を出した。


 こうしていなければ気が滅入ってしまうと、二人が同じ思いを抱いていた。


 傷が癒えていない光輝を、恵が何度も気遣った。「大丈夫?」や「休んでいていいぞ」とは一言も言われなかった。恵の気遣いは「言われる前に行動する」というものだったからだ。


 重い物などは事前に片付けておく。両手で持つようなものは極力自分で持った。ビニール袋や紙袋を使って、まとめられるものはまとめておいた。


 恵の気遣い、心遣いを知っている。知っているから、光輝もまた気遣いで返す。


 大きな物は持てないから、小さな物や細かいものは一足先に自分でなんとかする。彼女が使うであろう雑巾は絞っておく。彼女がビニール袋や紙袋を探しているから、見えるところに置いておいた。


 洗濯物を彼女に任せ、昼食や軽食は光輝が作った。


 お互いがお互いを想い合い、時間を慈しむように消費した。


 最初はデートをする予定を立てた。遊園地にしようか、海にでも行こうか。温泉はどうだ、県外にでようか。


 だが、同時に却下した。


 自分たちが今ここにいるのは、この家があったからだ。そういう思考に至った。外に出て遊んだ記憶は少ししかない。けれど、この家で生活した記憶はたくさんある。天使と人間として出会い、会って早々にケンカをして、仲直りをした。


 仕事をしている間に、家に誰かがいることを嬉しく思った。


 家事をしながら、誰かの帰りが待ち遠しいと感じた。


 この家で二人だけで暮らしてきた。その時間が愛おしかった。短い時間だったかもしれないが、二人にとっては大事は思い出だった。


 消えてしまう運命を背負った時間だ。そんな時間だから、そんな場所だから、最後までここに一緒にいたいと願ったのだ。


 気がつけば、窓から茜色が差し込んでいた。


 家から出ると、夕日が眩しかった。


 手で光を遮った。少し湿ったような匂いがする。どこかで雨が降っているのかもしれないと思った。


 屋外の物置に最後の荷物を運び出し、家に入った。リビングに行くと、ダイニングテーブルにオムライスが並んでいた。


「さ、食べるか」


 恵はすでに座っていた。光輝は「そうだね」と言いながらイスに座った。


 いただきますと手を合わせ、二人は同時にスプーンを動かし始めた。


 ふわふわとろとろの半熟卵は若干の甘みがあった。チキンライスは鰹節の匂いがして、けれど塩気はそこまで強くない。丁度いい味だった。


「和風なんだ」と光輝が言う。「こういうのもいいかなって」と恵が返した。


 先のことなど考えないようにと、楽しそうな話題で会話を繋いだ。


「そういえばさ、あの鼻歌って誰の曲?」


「あー、たまにやるやつ。よく知らない」


「自分でやっといて?」


「このみが教えてくれたんだもん。アイツがどこで覚えてきたのかはわからないしね」


 知らないのに、よくわからないのに鼻歌を歌うのか、と思ってしまった。


 けれど、人は好意を抱く人の真似をすると聞いたことがあった。だからスッと胸に落ちたような気がした。


 食事が終わっても二人の顔は明るいままだった。


 風呂に入り、アイスを食べながらバラエティ番組を見て腹を抱えて笑った。


 時間が刻一刻と過ぎていく。八時、九時、十時。


 指を組み、腕を組み、抱き合った。視線が合って、キスをした。


「どう、なっちゃうんだろうね」


 唇を離し、光輝が言った。


「さあ、私にもわからない。人間になった天使の記憶は、一般の天使は覚えていないの。天使の記憶さえも改ざんされるから。人間の記憶が書き換わるっていうのも初めての経験だから、私にはなんとも言えない」

「記憶が書き換わるって言っても、ボクと恵さんが一緒にいることには変わりないんでしょ?」

「たぶんね。でも、出会った場所であったり、天使と人間としての思い出は消えてなくなる。人間同士として出会い、人間同士として恋をした記憶が無理矢理上書きされる。だから、今とは少しだけ関係が違うかもしれない」

「少しくらい変わってもボクは恵さんが好きだよ」

「私も好きだよ。ただ、ちょっと寂しいなとも思う。不幸に打ちひしがれた自虐野郎を私が育てた記憶が消えちゃうわけだし」

「ヒドイ言い方だ」


 そう言って、光輝は笑った。恵の本心であり気遣いだとわかったからだ。


 時計を見やる。あと一分程度で日付を跨ぐだろう。


「死ぬのと、なにが違うんだろうな」


 ふと、恵がそう言った。


 光輝は彼女の頭をそっと撫でて微笑んだ。


「死ぬのと同じかもしれないけど、死ぬのとはやっぱり違うよ。この記憶が消えても、キミがいてボクがいる。心配しなくてもいいと思うんだ」

「心配はしてないさ。お前は強い。きっと、こんな私でも愛してくれると信じてるよ」


 そして、またキスをする。


 秒針が動きを続け、やがて十二時になった。

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