第25話
結局、入院は事故後五日で済んだ。再び二人が出会った日から四日で退院することができた。
同時に、記憶の残り時間は今日を含めて二日に迫っていた。
回復が良好だったのと、光輝の希望が合致した。無駄に入院していてもお金がかかる、という思いもあった。
ギブスはまだしていなければいけないし通院も必要だった。松葉杖も借りた。ただ単純に入院の必要性がなくなった。
帰る途中で新しいスマートフォンを買った。パソコンに保存してあったバックアップデータを入れると、ほぼ前のスマートフォンと同じになった。メモ帳やスケジュールなどは完全には戻らなかったが、それでも定期的にバックアップするという光輝のクセが功を奏した。
恵が夕食を作っている間に自室で電話をかけた。かける相手は決まっていた。
『――もしもし』
冷たく突き放すようなトーンに心臓が跳ね上がった。それでも、伝えなければいけないことがあった。
「もしもし、兄さん」
『なんの用事だ』
「なんの用事もなにもないでしょ。パジャマとか下着とか持ってきてくれたの、兄さんでしょ?」
『それがどうした』
今でもまだ、誠司の心の中で光輝は邪魔な存在なのかもしれない。
「ありがとう。助かったよ」
受話口から「ふう」というため息が聞こえてきた。
『それだけなら切るぞ』
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで兄さんが来てくれたの?」
『お前には身内がいない。連絡が来る相手なんて俺くらいしかないだろ』
「でも、でもさ。兄さんは俺のこと――」
そこから先が出てこなかった。口に出してしまえば、もう二度と関係が戻らないような気がした。今でも二人の関係が修復される兆しは見えない。けれど、自分で言うことで、絶対に修復ができなくなってしまう気がしたのだ。
『最初は迷惑だと思ったさ。でもな、母さんにも父さんにも言われてたんだ。自分たちになにかがあったら、もうアイツにはお前しかいないんだって。だから、持ってったんだ』
誠司がいる場所から光輝が入院していた病院まで、車を全力で飛ばしても三時間はかかる。その距離をいやいやながらも運転してきた。そう考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
『でもな、久しぶりに家に帰って、いろいろ思うことがあったのは事実だ。俺の部屋が出ていったときのままだったからだ。失くなったものも壊された物もない。キレイに掃除もしてあった』
「それは、当然だよ」
だって、アナタはボクの兄さんなんだから。
『当然? なぜだ。なぜ口汚く罵った俺の部屋を掃除するんだ? 俺のことが嫌いになっただろ? 両親が他界した今なら、あの家はお前の自由にできるんだぞ? なぜ俺に気を使う必要があるんだ。家を出て行くときに言ったはずだ。俺はもう、光輝がいる家には戻って来ないと』
見えない手に心臓を鷲掴みにされた気分だった。最初に言われたときはまったくと言っていいほど実感が持てなかった。けれど、遠く離れて数年経ち、兄が言っていたセリフがどれだけ本気だったのかを思いしった。
それ故に、今になってわかる辛さがあった。
「あの家から兄さんが出てていったのはボクのせいだ。兄さんから父さんと母さんと奪ったのもボクだ。そんなボクがさ、兄さんが生まれてからずっと育ててきたこの家を、好き勝手に、自由にできるわけないじゃないか」
『そうやって良いやつ面するの、変わってないんだな』
「なんて言われても構わないよ。仕事で失敗してクビになるかもしれない、辞めざるを得ない状況にまで追い込まれるかもしれない。会社が倒産するかもしれないし、人間関係で心が病んでしまうかもしれない。そんなとき、この家までなくなったら兄さんはどこに行けばいいんだよ」
『俺はそんなに弱くないし、ヘマもしない』
「わからないじゃないか。そんなとき、帰って来られる場所がないのは、やっぱり辛いよ。キツくなったら帰ってくればいいって、そう思ったんだ」
『俺はお前がいる家には――』
「そしたら今度はボクが出ていけばいい。兄さんにとっても、ここは実家なんだから。兄さんばっかり無理する必要は、ないじゃないか」
『お前、なんで……』
受話器の向こうで、ガサガサと物音がした。受話口を塞いでいるのか、くぐもった音しか聞こえない。けれど、兄がどういう表情をしているのかはなんとなくわかった。
くぐもっていはいるが、受話口から嗚咽が聞こえてきた。それが、なによりの証拠だった。
光輝は生まれてからずっと不幸を背負ってきた。だからこそ、幸せになるために努力をしようと思った。何度も心を折りながらも、何度も何度も立ち直ってきた。いつかは自分も普通になれるはずと、立ち直り、歩き続けてきた。
〈優しくあれ。気遣いを忘れるな。自分には誠実であれ、他人には真摯であれ。それが自然とできるようになれば、きっと神様はそんなお前を見ていてくれる。もちろん、父さんも母さんも〉
父が言っていた。その言葉をずっと守ってきた。
〈人を憎んではダメよ。その憎しみはきっと、アナタを蝕んでしまうから。憎しみは憎しみしか生まないから。そういうこともあるよね、人間だもの。そうやってやり過ごしなさい。そうしていれば、きっとアナタは幸せになれるわ〉
母が言っていた。その言葉をずっと忘れなかった。
光輝は、光輝が持つ優しさを貫いた。無自覚、無意識でありながらも、誰かのために、誰かを思って行動しようという気持ちは胸の中で彼の生き様となっていた。
兄である誠司も知っていた。光輝の優しさを、努力を、辛さを。だから、侮辱し、軽蔑したはずの弟の言葉を真摯に受け取った。
すべては光輝が誠実であったから。大人になって世間の波にさらわれても、その清廉潔白さを失わなかったから。
「ボクはなにを言われてもいいよ。仕方がないから。でも、ボクのせいで兄さんがやりたいことをできなかったり、家に戻って来られないのはキツいんだ。ボクはいつだって兄さんを尊敬してるから。兄さんがボクを憎んでも、兄さんが好きだから。もし大変なときは言って欲しいし、頼って欲しいし、帰って来て欲しいんだよ」
声が震えてしまった。
「前よりはずっとよくなったよ。もう数年早ければよかったなって思うけど、過ぎた時間は戻せないから。でも不幸なことはほとんどなくなった。物を失くすことも、怪我をすることもなくなったよ。だからさ、もし兄さんが良ければ、今度帰って来てくれよ。そっちでどんな仕事をしてて、今どんな状況かとか知りたいんだよ」
真新しいスマートフォンを握りしめた。
「頼むよ、兄さん……」
向こうから、息を呑む音が聞こえた。
『嘘かホントか、今度確かめてやる。それじゃあな』
その言葉を最後にして電話は終わった。
スマートフォンの電源ボタンを押して、腕をダランと垂らした。言いたいことは言えた。前よりも関係は進展した。自分の周囲の状況が変わっていくことに感嘆し、歓喜した。
下唇を噛みながら、光輝は涙を流した。
「話は終ったかい、お兄さん」
ドアの方に視線を向けると、恵がドア枠に寄りかかっていた。
「うん、終わったよ。終わった」
「結果はどうだった?」
「良かったよ。たぶん今度帰ってきてくれると思う」
「そっか、良かったな」
「うん、良かった」
近付いてきて、頭を撫でられた。
「よしよし」
「恵さん、俺……」
「いいよ、お姉さんがだっこしてやろう」
「恵さんの方が年下じゃないか」
そう言いながらも、光輝は恵を抱きしめた。
背中に回された腕は細く、手は小さかった。しかしなにか大きな物に抱かれているような気がしていた。温かく、優しかった。
彼女の首元に顔を埋めた。髪の毛から、少しだけ甘い匂いがした。甘いけれどくどくない。とてもいい匂いだった。
背中をゆっくりと撫でられると、気持ちがしだいに落ち着いてきた。
「ごめん、服、汚しちゃう」
「気にすんなって。服なんて汚れたら洗えばいいだろ。そんなん後でもできんだよ。でも今の心境のお前を抱きしめられるのは今しかないんだ。今やれることを今しなくてどうするんだ」
物腰は荒いが、彼女の優しさが垣間見える。天真爛漫に見える。身勝手に見えるし、言葉遣いは乱暴そのもの。けれど、間違いなく優しさに満ちていた。
好きになった人がこの人で良かったと、光輝は改めて思った。
このとき、二人の記憶が保つ時間は残り一日になっていた。
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