第28話 〈永村 このみ〉

「あーあ、本当に人間になっちゃったんですね」


 ソファーに座り、このみがため息をついた。


「記憶の上書きも完了しました。もう二度と、鈴木恵は帰ってきませんよ。寂しいですか?」


 デスクの上で指を組み、エミルが優しく微笑んだ。


「寂しいですよ。私とメグちゃんは姉妹みたいなもので、友人だったんですから」

「でもあまり強くは止めませんでしたね?」

「いえいえ、止めましたよ。止めましたけど、止められなかったんです」

「彼女の気持ちを尊重したから?」

「そう、ですね。人間の中には「恋人はいつでも作れるけど、友人はいつでも作れない」って言う人もいるんですよね。それなのにメグちゃんは男をとったんです。騙されちゃえばいいんです」

「本心では思っていないくせに」

「思いたくても思えないんですよ。やっぱり、メグちゃんの幸せを願ってしまうのです。幸せになって欲しいんです」

「それが本心だと思いますよ。貴女はとても優しい。天使としては優しすぎる」

「メグちゃんほどではないですけどね」

「彼女は貴女以上に優しすぎた。だから支えるものが必要だったのです。きっと天界にいても中級天使止まりだったでしょう。心を痛めてしまって任務を遂行できなかったでしょう」

「そう、かもしれませんね。それはそうと、なんで私はエミル様と会話できてるんでしょうか」


 微笑みが一転し、真面目な視線でエミルを見た。


 このみがここにいるのはエミルに呼び出されたからだった。


 都合がよかった。聞きたいことは山ほどあって、その山の大部分は今回の記憶に関してのことだった。


「私と会話をするのは嫌ですか?」

「そうではなくてですね。他の天使たちはメグちゃんのことを忘れてしまった。それなのに私は覚えてるんですよ。どうして私の記憶だけそのままなんですか?」

「そうですね。簡単に言えば、次の大天使候補に貴女の名前を上げたんです」

「大天使候補って、私まだ中級天使ですよ? 上級天使と支部天使を飛ばして大天使になれと?」

「今回の件で上級天使に昇格です。相当な激務でしょうが一年後には支部天使です。天使が人になる瞬間を見ましたね。天使が人に恋をする瞬間を見ましたね。自分の手から、滑り落ちるようにして消えていく天使を見ましたね。それでも貴女は言いました。「メグちゃんの幸せを願ってしまう」と。心優しい貴女だから、私は貴女を大天使候補に上げました」

「しかし、他の大天使様が許さないのでは?」

「日本は私の管轄です。問題はありませんよ。上級天使にも支部天使にも文句は言わせません。この世界は実力主義。貴女は中級天使としては任務遂行率はトップクラス。人徳もあり、判断もちゃんとできる。なによりもいろいろと経験をした」

「でもそうなるとエミル様はどうなるんですか?」

「私は三年後に超天使になります。これは予定でもなければ候補というわけでもない。確約なのです。ですから大天使候補を育てなければならない。ですが、今の支部天使には大天使になるだけの素質があるとは思えません。仕事一番、自分がよければそれでいい。そういう人たちばかりです。私の前任者が決定した支部天使なので仕方がないのですが。そんな支部天使に育てられてきた上級天使もまた、そういう思考になってしまう」

「私は違う、と」

「ええ。本当ならば鈴木恵も支部天使候補だったのですが、彼女はもう天使ではないので」

「アナタは一体なにをしようとしているんですか?」


 エミルが指を組み直した。


「改革、ですかね」

「改革ですか? 天界を変えるつもりですか?」

「どこまでやれるかはわかりません。志半ばで断念するかもしれない。けれどやれるだけやってみたい。恵さんのような人が上手くやれるような天界、このみさんのような人が上に上がっていくような天界にしたいのです」

「これはまた、壮大な計画ですね……」

「だからこそやりがいがあるとは思いませんか?」


 フフッと、エミルが可愛らしく笑った。


 が、このみは笑う気にはなれなかった。ただただため息を吐き、額に手を当ててうつむくことしかできなかった。


「そんなこと、できるとは思えませんよ」

「壁が高く大きく厚いほど、壊したときの崩れる様は壮大で面白いものですよ」

「面白いって……」

「娯楽がなければ自分で作るしかない。私たちは人間を助けるための機械ではないのです。天使は天使、人は人。でも、習うべきところは習いましょう。私だってお化粧をしてお茶を飲んでケーキを食べてテレビを見たいわ」

「全部自分がやりたいことじゃないですか」


 そんな人だったっけ、とエミルの性格がよくわからなくなる。誰に対しても優しく真面目で平等というイメージが崩れていくようだった。


「貴女は欲しくないの? たくさんの娯楽と天使の笑顔が。ちゃんと話を聞いてくれる上司が。欲しくは、ない?」

「欲しいですよ。全部欲しいです」

「それならやることは一つだと思いますよ。気持ちがあるなら立ち上がらなきゃ。やる気があるなら動き出さなきゃ。なにかを変えようと思うなら、それをアウトプットしなければ。勇気を持ちなさい、永村このみ」


 このみはこのとき、ようやく山田永美流という天使のことを理解できたような気がした。


 天使らしくもあり、それでいてとても人間臭い。野望も野心も持っている。けれどそれは自分のためだけではなく、他人のためでもある。強かで精悍な精神を持っている。


 付いて行くに相応しい天使だと、心の底から思った。


 エミルを拒否したのは本心ではない。天使の一般論を語っただけなのだから。


「わかりましたよ。やります、やるしかないんですよね。もう上級天使みたいですしね」


 横の鏡を見ると、このみのホーリーリングの色が黄色から赤色に変わっている最中だった。


「貴女は同志であり、部下であり、駒なのです」

「怖い指揮官ですね。独裁者にでもなるつもりですか?」

「私が独裁者にならないために、貴女のような部下が必要なのです。ちゃんとした判断ができる、人間と天使の心を持った者がね」

「はあ、キツそうですね、エミル様の直近の部下は」

「大変でしょうね。でも無理をさせるだけでは済ませませんよ。ちゃんと見返りはありますから」

「あんまり期待しないでおきますよ」

「ええ、そうしていてください」


 大天使室で同盟が結ばれた瞬間である。


 天界がつまらないと感じ、天界のシステムを煩わしく思い、天界を完全なる善と認められない二人の同盟だった。


 恵のような優しい者が生きやすいような世界を作りたいと、このみは本気で思っていた。だから引き受けた。


 恵が変わっていくように、自分も前へと進むのだ。自分はここで、自分らしい幸せをつかむのだ。


 このみはこのとき、ようやく野心をむき出しにした。


「私も頑張るよ、メグちゃん」


 もういない友人へ。きっともう出会えない姉妹へ。彼女は笑顔で別れを告げた。

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