第22話 〈伏瀬 光輝〉

 黒い海の中で浮いていた。


 考えるだけの力も、気力もなかった。当然のように黒い海を泳ごうともしなかった。


 どうしてこんなことになったのか。


 そうか、確か女の子を助けたのだ。そこから先は思い出せない。おそらく、女の子を助けたときに車に轢かれたのだろう。


 耳の奥に、車のブレーキ音が思い出された。


 このまま目を閉じて眠ってしまえば、きっと沈んでしまうだろう。でもそれでいい。もう楽になりたいのだ。


 そう思って目蓋を閉じた。


 その目蓋の裏には家族がいた。若かった父と母、それに兄もいた。全員優しかった。愛してくれた。けれど成長するにつれ、両親の顔も、兄の顔も曇るようになった。


 そのすべてが自分のせいだと知っていた。


 なにをしても上手くいかなかった。どう頑張っても上手くできなかった。運動ができない、勉強ができなかったわけじゃない。忘れ物が直らない、失せ物が多い、怪我が多い。それどころか、光輝のせいで怪我をさせてしまったり、人の物を壊してしまうことも多かった。


 賠償金とまではいかないが、訴えられそうになったこともあった。


 父と母は優しかった。疲れた顔はするが、怒られたことなどあまり覚えていない。光輝が何度も忘れ物を確認していたことも、物を失くさないようにと気をつけていたことも知っていたからだ。我が子を信じるという最大の愛情を、光輝の両親は死ぬまで貫き通した。


 それでも兄は許してはくれなかった。


 光輝への愛が注がれれば注がれるほど、兄の誠治は不満を溜めていった。不満が爆発するのに時間はかからなかった。光輝が中学校に上がることには、二人の中は険悪になっていた。正確に言えば、光輝は兄に好かれようと努力し、誠司は弟を邪険に扱った。


 親孝行をする前に両親が逝ってしまった。兄にも嫌われてしまった。


 学生の頃、将来どうなっているのかと考えたことがある。両親は健在で、素敵な女性と出会って、恋をして結婚をして。子供が生まれて、自分の子供を両親が抱いている姿を何度も想像した。横には兄がいて笑っていた。


 そんな将来を想像していたのに。


 知らず知らずのうちに涙が出てきた。


 自分はなにをしているんだ。なんでこんなことになってしまったんだ。愛してくれた両親はもういない。自分が愛した両親はもういない。愛して欲しかった兄も、きっと二度と帰ってきてはくれないだろう。


「くそったれ……!」


 そんな汚い言葉を、生まれて始めて口にした。


 ネガティブな思考に陥っても、ネガティブな発言はしないようにと心がけてきた。口に出してしまえば、それこそ落ちていくだけだと思ったからだ。


 しかし、それもどうでもよくなってしまった。


 結局不幸に殺されたではないか。このまま死んでしまうだろう。自分の不幸のせいで両親が死に、自分も死ぬ。


 不幸体質だって改善されたはずなのに。


 一気に目が覚めた。


「改善された? なんで?」


 なにがあったのだろう。仕事は上手くいくようになったし落とし物もしなくなった。怪我もしなくなったし忘れ物だってしなくなった。


 三週間くらい前だ。それから、不幸なことがなくなった。それどころか幸せだったような気がする。


 なぜ幸せだったんだ。


 両親が死んでから暗くなっていくだけの家が、急に明るくなったような気がする。


「急に? なんでだ?」


 頭を抱える。思い出せ、思い出せと記憶の中を探っていった。


 しかし記憶は戻ってこない。


 確かに誰かが側にいた。けれど白く靄がかっていて、それが誰かがわからない。


 女の人だったような気がする。気がするが、どんな女性だったのか、どういう性格だったのか、背格好は。


 考えれば考えるほどに頭が締め付けられるように痛む。


 女性だったことはわかった。思い出せる。きっと、絶対に思い出せる。


「大切な人なんだ。あの人のおかげで、ボクはこうなれたんだ」


 思い出さなければいけないのだ。そうでなくてはいけないのだ。


「そうじゃなきゃ失礼じゃないか」


 こんな自分と一緒にいてくれたのに。


 思い出そうとすればするほど頭が割れるように痛んだ。ズキズキと、コメカミの辺りに刺すような痛みが走った。


 それでも記憶を掘り進めていく。しかし、まるでスコップの先で金属を叩いているような、そんな感覚しかなかった。それ以上はもう掘り進めない。わかっているのに、やめられないのだ。


 大切な人だからと心が叫ぶ。彼女がいなければ、今の自分はいなかったのだから。


 そのとき、目の前が急に明るくなった。神々しく、温かな光だった。


 光は徐々に収縮し、人の形へと変化していった。


「おやめなさい。それ以上、無理をしてはいけない」


 人型の光はそう言った。声だけでも女性だとわかるが、光は身体の形も鮮明にかたどっていた。緩めの服装、胸元が強調され、長い髪の毛がなびいていた。


「アナタは、いったい?」

「そうですね、天使とでも言っておきましょうか」

「天使ですか?」

「そうです」

「その天使がボクになんのようですか?」

「貴方が無理をなさろうとしていたので止めに来ました」

「記憶を思い出そうとすることが無理なことなんですか?」

「ええ、貴方の中にはそれ以上の記憶がありません。無理に思い出そうとしても頭を痛めるだけですよ」

「それでも思い出さなければいけないんです」

「なぜですか? 苦しいでしょう? 辛いでしょう? そんなことは必要ないのです。ゆっくりとおやすみなさい」


 確かに苦しい。確かに辛い。しかし――。


「それじゃダメなんだ! ボクには必要なんだ!」

「なにが必要なんですか?」

「彼女が必要なんだ!」

「恋、ですか?」

「ああそうだ! 一緒にいて幸せだったんだ! 楽しかったんだ! あの人の笑顔をまた見たいって、そう思ったんだ!」

「その笑顔は思い出せましたか?」

「思い出せないから苦労してるんじゃないか!」

「思い、出したいのですね?」

「そう言ってるじゃないですか」

「それならば、貴方に二つの選択肢を用意いたしましょう」

「選択肢、ですか?」

「ええ。一つは貴方の不幸体質を完全に治すという選択肢。そしてもう一つは、不幸を抱えたまま生きるという選択肢です。後者は交換条件として一週間だけ記憶を元に戻します。ですが、一週間後にはこちらに都合がいい記憶を植え付けさせてもらいます」

「結局今のままでも都合のいい記憶を植え付けられてるんでしょう?」

「そうですね。単純に、一週間の記憶と引き換えにして不幸体質を治すか、治さないかです。記憶が消えるのは一週間後の午後十二時。日付を跨ぐのと同時です」

「その交換条件が出るってことは、ボクの側にいた人はアナタと同じ天使だったってことですか?」

「諸事情により天界に帰りました。天界に帰ったことによって、貴方の記憶から彼女の記憶が消えたのです」


 下を向いて考える。この口ぶりからすると死ぬことはないだろう。どちらにせよ生きられることには変わらない。


 だが、不幸体質は両親を殺した。自分も事故に遭った。そんな不幸をかかえて生きていくのか。


 いや、そうじゃない。


「記憶を、元に戻して欲しい」

「貴方の不幸体質は他人すら殺した。多少改善されたと言っても、普通の人よりは運が悪い。それでも貴方はそちらの選択肢を選ぶのですか? 貴方が追いかけている女性が振り向いてくれる保証もないのに?」

「アナタが言うことは正しい。でも、ボクは自分の気持ちに正直でいたいんだ。この気持だけは忘れちゃいけないって思ったんだ」

「たった一週間ですよ?」

「その一週間でなんとかする。忘れないような努力をする」

「記憶も、記録も、なにもかもすべて改ざんされますよ?」

「それでもなんとかする。そうじゃなきゃ、彼女に二度と会えないから」

「大事なんですね、彼女のことが」

「例え彼女が忘れていても、例え彼女と会えなくても、暗くなっていくだけのボクの人生を変えてくれた人だから」

「良い顔をしますね。よろしい、貴方の願いを叶えましょう。いえ違いますね。貴方と、彼女の願いを叶えましょう」

「彼女の、願い?」


 答えを聴く前に、人型の光はただの光へと戻っていた。光が大きく膨張し、やがて光輝の身体を包んでいく。


「大丈夫。貴方は待っていればいい。必ず、最高の幸運が訪れますよ」


 その光に包まれながら思い出す。少しずつ思い出の中の彼女が鮮明になっていった。


「そうか、ボクと一緒にいてくれたのは……」


 強烈な光に目を閉じた。


「恵さん……!」


 遠のいていく意識の中で、彼女の名前をつぶやいた。


 両親を殺したはずの不幸体質。家族をバラバラにした不幸体質。けれどその体質を治そうとしてくれた女性がいる。体質と女性を天秤にかけることなどできない。


 もう一度会いたい。


 そして言わなければいけないのだ。


 彼女にまだ、お礼を言っていないのだ。

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