第23話

 目蓋を開けた。


 白い光が眩しく、もう一度目を閉じた。


 少しずつ目を慣らして僅かに目蓋を開く。白い天井、白いカーテン。薬臭さも相俟って、ここが病院だとすぐにわかった。


「先生、意識が……!」


 看護師が焦った様子でそう言った。


 そこから、目が回るように景色が変わっていく。脈拍を確認されたり、瞳孔の動きを確認されたり、記憶があるかとか、どうしてここにいるかわかるかなど質問された。


 初老の男性医師がパイプ椅子に座った。そして、その医師からの質問に答えていった。


「ちゃんと自分のこともわかってる。記憶も問題ない。事故に遭ったときの状況だってわかってるんだし、あとは左足の治療だけかな」

「いろいろとありがとうございます」

「いやいや、目が覚めてくれてよかった。頭の方も軽いの脳震盪だろう。長時間眠っていたのは事故のときの衝撃というよりも、他にいろいろと抱えていたからだと見える。随分と疲れていたようだったしね」

「ボク、そんなに疲れてたんですかね……」

「肉体的疲労というよりは精神的疲労が大きかったんだろう。それにあまり寝ていなかったね?」

「眠れなかったんです。眠ろうとしても、なにか思い出さなきゃいけないことがあるんじゃないかって、不安になって」

「今の気分はどうだい? 眠れそうかい?」

「今は大丈夫です。ちゃんと、思い出せましたから」

「そうかそうか、それはよかった。これから病室を移動することになるけど、ちゃんと歩けるかい?」

「たぶん大丈夫だと思います。すっと寝てたからですかね、頭の方もスッキリしてます」


 医師はニッコリと笑い「それじゃあ看護師の指示にしたがってね」と言ってから出ていってしまった。


 車に轢かれた。とは言っても実際は左足だけだった。少女をかばったときに地面に身体と頭を打ち付けたらしかった。打ち付けたといっても強打ではない。若干コブができる程度だったが、少しばかり打ちどころが悪く、それが脳震盪に繋がった。


 左足以外は軽傷で済んだため、すぐに六人部屋へと移された。


 六人部屋、入り口から見て右側の真ん中だった。


 ベッドの前に立つと、上にある戸棚から紙袋が見えた。不思議に思いながらもその紙袋をおろし、中身を見た。


 頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。紙袋の一番上に、メモ用紙で簡単な書き置きがあった。


『着替えは置いておく』


 たったそれだけ。でも、その文字には見覚えがあった。


 角ばっていて、払いが全て直線になってしまう特徴的な字。けれど大きさが整っているのでキレイに見える。忘れることなどできはしない。この字を習って、この字が書きたくて練習を重ねたのだ。


 目頭が熱くなってきた。泣くまいと奥歯を噛みしめるが、次第に涙が溢れてきてしまった。


 名前はない。けれど、この文字はよく知っている。


 大きめな紙袋の中にはパジャマや下着、財布やスマートフォン、小説数冊などが入っていた。


「兄さん……!」


 しかし、どうして兄が着替えを持ってきてくれたのかがわからない。スマートフォンは壊れてしまった。一度家に帰らないと兄とは連絡が取れない。


 身内がいないから仕方なく出向いてくれたのかもしれない。


 そのとき、兄はどういう気持ちでいたのだろう。面倒くさいと思っていたのか、それとも仕方ないと思っていたのか。舌打ちなどはしていなかっただろうか、これが最後だと縁を切る覚悟を決めてしまっただろうか。


 それでも着替えを持ってきてくれたことには変わりなかった。どんな心境であれ、自分のために動いてくれたのだ。


 兄は、誠司は、まだ自分のことを完全に見放してはいないはずだ。


 今はそう思うことにした。あとでちゃんと礼を言おう。今回のお礼と、今までの謝罪をしよう。そう、決めた。


 兄のことは一度置いおこう。それよりも第一に考えねばならないことがあった。


 数週間だけだが、寝食を共にした恵のことだった。


 ちゃんと思い出せる。あの人が言った通りだと拳を握った。思い出せる内に会わなければいけない。会って言うべき言葉がある。確認しなければいけないこともある。


 こんな状況でなければ今すぐにでも家に戻りたい。が、左足がこれではそうもいかない。気持ちばかりが先行し、身体がついていかない状況だった。


 案内してくれた看護師の話によれば、簡単な骨折なので一週間で退院できるとのこと。状況を見て退院を早めることもできる、とも言っていた。


「一週間経ったあとじゃ遅すぎる……」


 気は急いても身体は動かず、気持ちばかりが大きくなっていく。なにかできることはないかと模索するが、けが人の自分にできることなどあるはずがない。ただ怪我を治すことだけだ。


 そこで夢の中の出来事を思い出した。


 夢の中で出会った、光の女性は言った。待っていればいいのだと。幸運が訪れると。


 一方的に信じるべきかと言われると難しい。けれど、彼女が言うことは信じられるような気がしたのだ。


 光の女性は、どこか恵と似た雰囲気があったからだ。彼女もまた恵と同じ天使なのだろう。そうでなければ説明がつかない。自分を納得させるには一番都合がよかった。


「急げば回れ、光陰矢の如し。されど、急いては事を仕損じる」


 目を閉じて、恵の顔を思い出した。


 歯を見せて笑う彼女。戸惑ったときの顔。静やかな寝顔に、苦しそうな寝顔。長い脚、細い腰、大きな胸。邪な気持ちが芽生え始めたところで目を開けた。


「これはいかん、絶対に怒られるやつだ」


 僅かだが気が緩んだ。これでいい。ときには流れに身を任せるのも大事だ。光の女性はきっと、そういうことを言いたかったのだ。


「見つけ出してくれるんでしょ、恵さん」


 光輝は「よしっ」と言ってから紙袋を漁った。中からミステリー小説を取り出した。太ももの上に乗せて一ページ目から読み始めた。


 大丈夫だと自分に言い聞かせた。


 ずっと不幸に悩んでいた。けれど自分にも少なからず幸運がある。彼女に出会えたことが一生涯で最高の幸運だ。


「だから、早く来てくれ」


 この記憶が薄れてしまう前に。早く。


 そう思いながら、光輝は鼻歌を歌った。

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