第21話

 ピリッとした頭痛。それに身体が痛い。


 懐かしい匂いがして、ゆっくりと目を開けた。フローリングの床、それにイスやテーブルの脚が見えた。


 深く息を吐きながら身体を起こした。すぐに、ここが伏瀬家のリビングであるとわかった。


 身体の痛みはフローリングの床に寝ていたからだろう。立ち上がろうとして手をつくと、なにかが指に触れた。顔を向けると、トートバッグが置いてあった。


「こんなバッグ、この家にあったっけな」


 引き寄せて中身を確認した。女性物のバッグだったからだ。


 小さな日記帳が十冊、計十年分。アルバムが一つ。鈴木恵名義の運転免許証、住民票、財布、家の鍵、スマートフォン、通帳とキャッシュカードが入っていた。


「私の日記に、私のアルバム?」


 日記に綴られているのは人間鈴木恵としての十年分。アルバムには小学校、中学校、高校、大学のときの写真。記憶にはない記述、記憶にはない写真ばかりだった。だがどれもこれも、間違いなく恵が写っていた。


「これから私の記憶が書き換わるってことか? 待て待て、そもそも今の私が天使の記憶を持っていること自体がおかしいじゃない……!」


 免許証には普通車両、中型二輪、特殊車両の三つが運転できるようになっていた。これもまた記憶がない。通帳には二千万円入っていた。


 通帳の最後のページから、一枚の手紙が落ちてきた。それを手に取り、恐る恐る開いた。




〈鈴木恵さんへ


 貴女はこれから人として生きなければいけません。

 戸籍や記憶はその通りに書き換わるでしょう。

 通帳に入っているお金は、貴女の働きによって得られたものだと思ってください。

 天使としての記憶が残っているのは今日を含めて六日間。六日後の午後十二時、日付を跨ぐのと同時に消えるでしょう。

 記憶がある間にすべきことがあるのでしょう?

 それならば、貴女はここから歩き出さなければいけない。

 そう、今すぐに。

 行きなさい。大事なものを、ちゃんとその手に掴みに行くのです。

 どうか、お幸せに。


                              山田永美流より〉




「私の記憶があるうちにやっておかなきゃいけないこと……」


 記憶が書き換わるということ。それは、光輝と出会い、光輝と過ごした日々が改ざんされてしまうということ。


 今彼女が抱いている気持ちは、天使である鈴木恵と、任務の対象である伏瀬光輝の思い出から作られた気持ちだ。


 本来ならば人間になった瞬間に記憶が書き換わってもおかしくない。それなのにエミルは記憶を少しの間留めてくれた。


 行かなければ。そう、彼の元へ。


 手紙をバッグに入れようとしたとき、一枚のメモがヒラリと落ちた。


 光輝の居場所が書かれた小さなメモだった。


「なんで病院なの?」


 そう言いながらも、心当たりが一つだけあった。


「もしかしてあの人が言ってたのって……!」


 エミルが「担当天使として、人間を不幸を治せず、その人間を不幸にした」と言っていた。不幸というのが病院と繋がるならば、想像もしたくないような状況にもなりかねない。


 財布と鍵とスマートフォンをポケットに仕舞い、メモ帳を握りしめた。


 転びそうになりながらも立ち上がり、一目散に玄関に向かって駆け出した。


 自分が履けるものはアンクルストラップサンダルしかなかった。走るには不向きだがこの際仕方ない。


 家を出て数歩進み、思い直して戻ってきた。鍵を締め、再度歩き出す。


 歩きから早歩きへ、そして駆け足になった。脚に負担がかかる。靴ずれのような痛みも出てきた。


 大通りにでてタクシーを拾った。メモを渡し、ルートを任せた。この周囲で仕事をしていた恵は地理にも詳しい。が、車に乗ったことはないので交通状況まではわからなかった。


「お願い、急いで欲しいの」


 後部座席から身を乗り出す。


「お嬢ちゃん、どうかしたのか? 行き先が病院ってことは、大事な人がそこにいるのか?」


 運転手が振り向く。スモークがかかった大きめのメガネ。黒と白が混ざった髪の毛とヒゲ。無骨で渋い、初老の運転手だった。


「ええ、とても大切な人なの」

「なるほど。じゃあ、とっておきの道を通るぜ。ちゃんとシートベルト締めときな」

「え、ええ。お願い」


 次の瞬間、車が急発進した。


 後頭部席に押し付けられ、急いでシートベルトを締めた。


「第二種運転免許、ちゃんと持ってるんでしょうね!」

「心配ないさ。こう見えてドライバー歴五年のベテランだ」

「割りと短いじゃない!」

「はっはっはっ、定年からの再就職さ。さあ行くぞお嬢ちゃん」


 そこから先はよく覚えていなかった。右に左にと強引にハンドルを切りながらタクシーが進んで、気がつけば病院についていた。ただ、一度も信号を見なかったことだけは覚えている。


「これ代金ね!」


 五千円を渡してタクシーを飛び降りた。メーターは二千円とちょっとだったが、千円札が一枚もなかったのだ。


「おいお嬢ちゃんこれ!」

「小さいのがないんだってば。お釣りはいいよ、ありがと!」


 急いでもらった恩もある。高上りではあるが、今はお金のことよりも考えなければいけないことがある。


 自動ドアを煩わしく思いながらも病院の中に入った。正面の待合室を突っ切って受付へ。


「ここに伏瀬光輝っていう二十代の男性がいると思うんだけど、どこにいるか教えてもらえない?」

「伏瀬光輝さんですか? 少々お待ち下さい」


 受付の職員が他の職員と連絡を取り合い、光輝の居場所はすぐにわかった。


 西棟の三階、三0七号室の六人部屋だと言われた。


 邪魔にならない程度に、しかしできるかぎり急いだ。エレベーターを待っているような心理状況ではなかった。


 エレベーターの隣の階段を駆け上がった。本当ならばいいこととは言えないが、誰かが降りて来てもいいようにと神経を研ぎすませた。


 三階に到着し、部屋番号を確認しながら進んでいく。


 そして、見つけた。


「三0七号室……!」


 横開きのドアは開けっ放しのままだ。が、入り口の前に立つ勇気が持てない。


 最初に会ってなんと言えばいいのか。そもそも自分の記憶はそのままだが、光輝の記憶まで残っているかはわからない。


 深呼吸をして心を落ち着かせようとした。


 ドンっと、後ろから肩をぶつけられた。その拍子に前に出てしまう。


 まだ気持ちの整理までついていないのに、そう思いながらもドアに寄りかかった。


「恵、さん?」


 顔をあげると、病室にいる四人の患者が全員こちらを見ていた。その一人、右側の列の真ん中に光輝がいた。

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