第20話 〈鈴木 恵〉

 結局、大天使山口エミルには会えなかった。


 秘書に追い返される形にはなったが、やることがあると言って下界に降りていってしまった。今日中には戻るとのことだが、正確な時間まではわからないらしい。


 仕方なく部屋に戻ってきた二人だが、部屋にいたところでやることがない。


 天界には食事がない。排便も必要なければ、天使自体に生理現象がない。その代わりに娯楽が一つもない。部屋にいてやることは、任務に対しての調査や勉強くらいだった。天使同士の話もその類の話が中心になる。下界に一度でも降りた天使ならば下界についての話もできる。が、それも長くは続かない。一応下界の情報収集のためにテレビはあるが、下界の政治や、三面記事に載るような事件などを収集するものでしかない。バラエティ番組などは一切流れないようになっている。


「なあ、このみ」

「どうしたの?」

「エミルさまはなにをしに下界に降りたんだと思う?」

「さあ、さすがに私でもわからないわ。秘書官でもわからないんだから当然だけれど」

「大天使が下界に降りるなんて、よっぽどの用事じゃなきゃあり得ない。下界で一体なにがあるってんだ」


 リモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。


 チャンネルは全部で六つ。教育チャンネル、政治チャンネル、事件チャンネル、スポーツチャンネル、医療チャンネル、地理チャンネルだ。抑揚のない天使のキャスターが、淡々と変化を語るだけ。


「人間が見るテレビに慣れると、天使が見るテレビはなんて味気がないんだ」

「それは同感。でも中級天使、上級天使はもっと退屈だと思うわ。アナタは最近知ったばかりだけど、もっと早くに知り、それでいて長く生きている天使はいっぱいいるんだから」

「天界にもああいう娯楽を設けるべきだと思うんだけど、そういうわけにはいかないの?」

「試みがなかったわけじゃないみたい。でも大天使以上、超天使クラスの天使さまに握りつぶされる。そういう志を持っている天使も、階級が上がれば丸め込まれる。そういうシステムなのよ」

「超天使さま、ね」


 都道府県を治めるのが支部天使、国を統べる天使が大天使、そして大陸を統べるのが超天使。この地球をそのものを統括するのが神天使。大天使であっても、直談判するのは恐れ多いとされている。超天使クラスともなれば、奇跡的に対面できても、恵もこのみも頭さえ上げさせてはもらえないだろう。


 退屈だと思った。


 くだらないと思った。


 なんて醜悪なのかと思った。


 人間に尽くすために生まれたわけではない。人間にあるマイナス要素を取り払うことが仕事なだけだ。それなのに娯楽も許されない。仕事がすべて。仕事が生きがい。


「メグちゃん、人間界の方が面白かった、とか思ったでしょ」


 そう言われ、ドキッとした。


「でもそれが普通よ。人間界を体験した天使はみんなそう言う。みんなそう思う。そう考えて、結局仕事に従事する。私たち天使はそれしかできないから」


 二人してため息を吐いた。人間界を体験したからこそのため息だった。なんと不自由なことか、なんと束縛された世界か。


 なんと、都合のいい世界なのか。


 ドアが四回ノックされた。顔を上げ「どうぞ」と言った。


 入ってきた天使は、頭上に赤い輪を浮かべていた。上級天使だった。ネームプレートには「相沢翔子」と書いてある。


「失礼します。大天使様が及びです。大天使室へどうぞ」

「はい、わかりました」


 ニコリと微笑み、翔子が退室していった。


 そして、また大きなため息を吐いた。


 なにを、どうやって言えばいい。どうすれば説得できるだろうか。きっと大天使様は自分の考えを読んでいるはずだ。どんな顔をしているだろう。怒られてなお、自分の意志を通せるだろうか。


 そうやって考えて、立ち上がる。


「行こう」


 このみの返事を聞く前に部屋を出た。


「ホントに行くのね」

 駆け足でこのみがついてくる。

「別に来なくてもいいよ。私一人でなんとかするし」

「まあね、私がいたところで意味は無いと思う。でもいないよりは心強いでしょ?」

「いや、別に」

「そこはお世辞でも「うん! ありがとうこのみ!」って言うとこよ? もうちょっと勉強してきなさい」

「なんの勉強だよ」

「掛け合い?」

「掛け合いと書いてコントと読むか? もういいからちょっと黙っててくれ。考えがまとまらん」

「わかった」


 大天使室までは歩いて十分程度。その間に考えを整理しなければいけなかった。


 必要なのは自分の意志。天使の事情や人間の事情などは考慮しない。自我を通すための意見と、反論されたときの効果的な返答だ。


 しかし、いくら考えても効果的な返答など思いつかない。大天使になる以上、たくさんの経験をし、知識を蓄え、研鑽を重ねてきたはずだ。大天使とは階級であり、生き方でもあった。浅い人生経験しか持たない自分が、大天使との言い合いで勝てるとは思えなかった。


 あれやこれやと考えている内に、大天使室のドアの前にやってきてしまった。


「ええい、ままよ」


 余計なことを考えるよりも、勢いの方が大事なもある。そうやって自分に言い聞かせた。


 ドアをノックして「鈴木恵です」と言った。ドアの向こうから「入りなさい」と返ってきた。


 ドアノブを握り、捻った。そして大天使室の中へ。


「失礼します」

「そんなにかしこまらなくてもいいわ。そこにお座りなさい」


 ドアを閉め、言われるがままに歩みを進めた。エミルはデスクの向こう側に座っているが、恵とこのみは一番近いソファーに腰掛けた。


 大天使山田永美流。人間にしてみたら四十代前半といった見た目で顔立ちが整っている。特にまつ毛が長く、鼻が高い。茶色がかかった髪の毛は長く、一つに束ねて右の肩からおろしていた。


「貴女から話があると秘書が言っていました」

「はい。お願いがあって参りました」

「永村さんは付き添いで?」

「そういうことになりますね。心細いというので」


 このみの横腹を肘で小突いた。


「なるほど。それでお願いとはなんでしょうか」


 エミルが指を組んだ。微笑んではいるが、それだけで異様なほどの威圧感を感じた。


「共生任務に戻らせていただきたいのです」

「伏瀬光樹の件ですか」

「はい。もう一度彼の元に戻り、彼の不幸体質を治す任務に戻りたいと思いました」

「永村さん、貴女には彼女に説明するようにと言いましたね?」

「永村さんはちゃんと説明してくれました。上級天使クラスでなければ不可能だと、私では力不足だと」

「それでもなお戻りたいと? 今回貴女が倒れた理由が彼にあったとしても?」

「一度受けた任務です。最後まで果たしたいと思うのは、天使として間違っているでしょうか」

「天使として、ですか」


 エミルはゆっくりと目蓋を下ろした。


「正直なところ、任務をやり遂げたいという意志は尊重したいと思っています。伏瀬光輝が保つ不幸体質を天使が吸い取り、天使力で中和する。現状、貴女の天使力が不足しているから中和が追いついていない状態です。天使力がなくなったらこちらに戻り、復活したら下界に降りる。それでもいいと、私は思っています」

「それじゃあ……!」

「ですが、私には別の感情が見えます」


 再び開かれた目蓋。その奥の瞳は、恵のことを窘めるような光があった。


「貴女が真面目なのは認めましょう。けれどそれ以上に感情移入してしまうフシがあります。だからこそ、貴女は皆よりも遅れて昇級した」

「それに関しては、なにも言えません」

「今までもそうでしたね。子供の落とし物も、不必要に手を貸していました。ある女性が男性に振られたときも、過干渉なほど二人をくっつけようとしていた。それだけではありません」

「言葉もありません」

「私は嫌いではないのですが、天使としていいことだとは言えないのです。感情があるからこそ、それを抑えるための思考もまた必要なのです。一度、大天使会などでも話題に上がったのですよ。人間に感情移入しすぎる天使をどう処罰するかという話題がね」

「処罰って……」

「下界には二度と降ろさせず、下級天使のまま一日中肉体労働をさせたりですね。他には、人間にしてしまうとか」


 フフッと、エミルが笑った。


「人間になると、天使だった頃の記憶が消えます。天使の記憶からも、その人物の記憶が消えます。大天使以上は覚えていますがね。下界ではちゃんと戸籍も用意されますが、二度と天使には戻れません。天使の寿命は数千、数万と言われています。人間は頑張っても八十、九十までしか生きられない」

「長く生きるか、短く生きるか」

「そういうことです。ただ、長く生きることが正確だとは言えません。それは人それぞれ価値観がある。人間になるというのも、罰ととるかどうかは本人しだいなのですよ」

「人間に、なるか」


 エミルから視線を外し、自分の手を見た。グーパー、グーパーと何度か手を握った。


 人間であったときと今はあまり変わらない。人間になれば寿命が縮んで、天使の力が使えなくなる。代わりに娯楽がたくさんあって、でも苦労もあって。


「光輝と、一緒にいられる」

「考え直しなさい、メグちゃん」


 このみに手を握られた。


 顔をあげる。今にも泣き出しそうなこのみが、そこにいた。


「ヒドイ顔」

「アナタ、今とんでもないこと考えたでしょ」

「かもしれないね」

「かもしれないじゃないわよ。人間になる? バカなこと言わないで。私はメグちゃんのこと好きだし、一緒にいたいし、忘れたくないの。メグちゃんは私のこと嫌いなの?」

「嫌いなわけあるか。好きだよ。大事だと思ってる。でもさ、私どっかで壊れちゃったみたいなんだよね。友人は大事だよ。そんなのわかってる。でもさ、いろいろ考えちゃったんだ」


 視線を落とし、下唇を噛んだ。


「アイツのこと、ずっと見ていたいと思っちゃったんだ。不器用で真っ直ぐで、めちゃくちゃ不幸だけどなんとか生きてて。最近は明るくなったし、顔色もよくなってきた。アイツの成長を見ていたいし、近くにいたいと思っちゃったんだ」


 ぽつりぽつりと、手の上に雫が落ちていく。


「アイツのこと考えると胸が痛いんだ。悲しそうな顔させたくないんだ。でもこのままじゃアイツは不幸のままで、また悲しい顔ばっかりするんだ」


 自分の顔が醜くなっているのは知っていた。けれど、顔を上げてこのみを見た。


 彼女の顔が、恵と同じくらいクシャクシャになっていた。


「アナタが色恋にうつつを抜かすだなんて、今まで想像もしなかった」

「私も思ってるよ。こういうのは私よりもアンタの方が合ってるし」

「もう、決めちゃったんだ」

「ごめんね、このみ」


 どちらともなく、二人は腕を広げて抱き合った。お互いの涙がお互いの肩を濡らしていく。


「決意は決まりましたか?」


 このみから身体を離した。息を整え「はい」と言った。


「私を、人間にしてください」


 赤くなった目元、瞳の奥には決意の光が満ちていた。


「いいでしょう。我が名は山田永美流。大天使の加護よ、贖罪と断罪の力をこの手に」


 一冊の本がエミルの前に出現した。その本はエミルが触れることなく、パラパラと勝手にめくられて、あるページで停止した。


「鈴木恵の天使として除籍。人としての籍を与える。父はなく、母もない。祖父もなく、祖母もない。身内も友人もなにもない。それでも人間界に降りるのですね?」

「はい」

「承認しました。私は貴女に罰を与えます。担当天使として、人間を不幸を治せず、その人間を不幸にした。その罰は償わねばなりません。人間界で慎ましく暮らしなさい」


 エミルが羽ペンを手に取り、本になにかを書き足していく。


「二度と天使には戻れません。貴女の記憶も、伏瀬光輝の記憶も都合よく改ざんされます。留意しておくように」

「大丈夫です」

「それでは断罪します。鈴木恵を人化の系に処す」


 強烈な光が恵の胸元から放たれた。ホーリーリングに亀裂が入る。そして、割れた。


「お幸せに」とエミルが微笑む。


「また、どこかで」とこのみが満面の笑みを見せた。


「ありがとう」と、恵が泣きながら言った。


 光は徐々に強くなり、そして彼女を包み込む。身体を引き裂くような痛みが全身を駆け抜けていく。目蓋をギュッと閉じた次の瞬間、恵の意識はどこか遠くへ飛んでいった。

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