第17話 〈鈴木 恵〉
家の中で、あの人のすすり泣きが聞こえてきた。右を見て、左を見て、廊下を駆け出した。
突き当たりから手当たり次第にドアを開けていく。一階にはいなかった。
今度は二階に上がって同じことをした。誰もいない。
しかし、すすり泣きは止まなかった。
ふと、後ろを振り向いた。彼が和室に座って泣いていた。仏壇の前で正座をして、こちらに背を向けていた。泣いているはずなのに、その涙を拭おうとしない。握りこぶしを膝の上に置き、なにかをこらえているようだった。
さっきはいなかったのにと和室に入ろうとした。けれど、見えない壁に阻まれた。
ドンドンと叩いても、強く蹴っても、見えない壁は壊れてはくれなかった。それどころか、彼が自分のことにまったく気がついていないようだった。
なぜだ、なぜ気がついてくれないんだ。必死になって壁を叩く。どうしてこんな壁があるんだ、どうして私を拒絶するんだ。
そして最後にこう思った。
どうして、今私は必死になっているのだろうか。どうして彼に見つけて欲しいと思ったのか。私と彼は、後腐れないただの他人だというのに。
私は、仕事のために彼と一緒にいただけなのに。
ハッして目を開けた。白い天井、白い電気。自分が横になっているのだと気がつくのでさえ、少しだけ時間がかかってしまった。
「目が覚めたようね」
声がした方に顔を向けた。ベッドの横にはこのみが座っていた。
ベッドの正面にある姿見を見る。間違いなく、ここにいるのは鈴木恵だ。中級天使の証である、黄色の輪っかが頭上に浮いていた。
殺風景な部屋。今まで自分が暮らしてきた部屋。小さなクローゼット、姿見、ベッド、机と本棚。それとテレビがある、そんな部屋だった。
「ここ、もしかして私の部屋……?」
「そうよ。服装もいつものでしょ?」
「うん、いつもの恥ずかしいブカブカワンピース」
身体の形がわからない白いワンピース。これが天使の正装だった。
「恥ずかしいとか言わないの。たしかに野暮ったいし洒落っ気もないけどさ」
天使はみなこの格好であり、天使が集まっていれば新手のカルト集団に見えなくもない。人間界でいろんなものを見てきたからこそ、恵はそう思うようになっていた。
「このみが私の部屋にいるのはいい。逆に、私が私の部屋にいるのが納得いかない。光輝はどうなった?」
「やっぱりそうなるか。光輝くんは今一人よ。で、アナタが光輝くんの元に行くことは今後一切ない」
一つ、小さなため息をついた。なんとなくわかっていた、という顔だった。
「私が具合悪くなったのって光輝のせい?」
「察しが良いわね。光輝くんの不幸エネルギーはメグちゃんの手に余るものだった。本来上級天使でもなければ対応できないほど強大だった」
「じゃあ今すぐにでも上級天使を向かわせてよ。光輝の不幸エネルギーはまだ完全に浄化できてない」
「上級天使は全員出払ってるわ」
「じゃあ中級天使二人とか、やり方はいろいろあるでしょ」
「人間一人につき天使一人が原則。そうなると上級天使の手が空くまではこのまま放置ね」
ベッドに手をつき、無理矢理上体を起こした。まだ少しだけ身体が重い。。頭もガンガンと痛む。
「それなら私が行く」
「それはダメ。アナタの天使力が高いのは認める。その辺の中級天使くらいはあるから、中級天使くらいの仕事ならできるでしょう。でも今回は別よ。アナタ一人じゃどうすることもできない」
「だからって、一度任された仕事を放棄するなんて天使の名折れじゃない」
「あのね、アナタは共生任務が初めてだからわからないかもしれないけど、こういう事例は珍しくないの。蓋を開けてみたら下級天使や中級天使じゃどうすることもできないっていうのはね。そういう場合は任務から外れるの」
「一足先に中級天使になったからって偉そうに。やるって言ったらやるの。私は一度言ったら曲げないの。それが信条なの」
ベッドから足を下ろして立ち上がろうとした。が、力が入らずにふらついてしまう。
「だからダメだってば。悔しいのはわかるし、不甲斐ない気持ちも理解できる。私にもそういう時期があったから。でもね、飲み込まなきゃいけないの。私たちは遊びでやってるわけじゃない」
「遊びじゃないことくらいわかってる。でも天界には娯楽もないし趣味もクソもない。それなのに仕事にも情熱をかけちゃいけないの? じゃあ、私たちはなんのために仕事をしているの? なんのために任務を受けるの? 私たちは、ただただ言われるがままに人間の世話をしてるだけじゃない。そんなの、辛いだけじゃない」
「確かにね。ここ数年よ、任務をこなして上に行こう、上に行こうっていう考えはね。昔はそんなことなかったみたい。いつからか、そういう風潮ができてしまった」
「外界でもそう。仕事仕事で、なんのために仕事してるかわかんない。でも天界も外界も変わらない。その中でやりたいことを見つけたの。仕事かもしれないけど、アイツの傍にいて楽しかったの。ちゃんと最後までやりたいのよ」
「気持ちは尊重したいけど、それは大天使様が許さないでしょうね」
「それなら直訴しにいくわ」
「アナタ、自分がなに言ってるのかわかってる? エミル様が許すはずがない。だって、アナタを任務から外したのはエミル様なんだから」
「それでも、なにもしないよりはずっとましよ」
このみを押しのけて部屋の外へ。白い外壁に、白いドアがズラッと並ぶ。廊下は永遠に続くような、そんな味気のない場所。ここで生まれ、ここで育った。外界を見てきたからこその感想だった。
「私も行くわよ」
「別にいいよ。必要ない」
「ダメ。一人だとなにするかわからないし」
「勝手にしなよ。でも、止めても無駄だからね」
「わかってるわよ、そんなこと」
白く長い廊下を歩き続けた。
大天使である山田エミルがいるのは廊下の突き当たりだ。通路には小さなドアが通路にずらっと等間隔で並んでいた。二百メートルごとに、外に出るための大きなドアがある。大小どちらのドアにも目もくれず、ただひたすらに前を見ていた。
「ねえ、アナタ気付いてる?」
後ろからこのみが言う。
「なにが?」
振り向くことなくそう返した。
「光輝くんに対してのアナタの気持ちよ」
「気持ち? 気付くもなにもないでしょ? なんとも思ってないんだし」
「思ってないって……。一緒にいたいって思ったんでしょ? 楽しいって思ったんでしょ? それって、恋なんじゃないの?」
「恋? 人間同士のアレ?」
「そうよ。知識としてあるでしょう? アナタの胸の中にある気持ちは、その知識と照らし合わせても恋という言葉がピッタリよ」
「どうでもいいよ。恋とか愛とか、どうでもいいんだ。私はやりたいことをやろうと思ってる。下界にいたせいで根付いた気持ちであっても、私はこの気持ちを大事にしたい」
恵の目は一直線に前だけを見ていた。物理的に、だけではない。自分が進みたい未来を見つめていた。
突き当たりの大きなドアの前に立った。二度、三度と深呼吸をしてから、ドアを四回ノックした。
「下級天使、鈴木恵です。少しお時間よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
中からエミルの声が聞こえてきた。
ドアノブに手をかけてゆっくりとひねる。なにを言おう。どう伝えよう。思考を巡らせても有効な言葉は見つからなかった。それならば、思いの丈をぶちまけるしかない。最後に行き着いたのは、誰が見ても恵らしい方法だった。
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