第16話

 恵の身体が左右に揺れ始める。それを見て、左腕で彼女を支えた。細い腰に腕を回し、自分の方へと引き寄せた。


「大丈夫? 疲れた?」

「いや、そういうわけじゃないさ」


 ハッとして、彼女の額に手を当てた。


 熱い。しかも先日よりもずっと高熱だった。


「恵さん、まだ治ってなかったんじゃない?」

「ほとんど治ってたんだけどね、おかしいな……」


 そんなことを言っている間にも、彼女の身体から力が抜けていく。腰に回している腕にも力がこもる。


 このままではダメだと、腕を首に回して担ぎ上げた。そしてそのまま自宅へ急ぐ。


「少し、休めば――」

「黙って」


 それ以上は言わせたくなかった。だから牽制した。普段の光輝ならばこんなことは言わないだろう。


 口調がキツくなったのには理由があった。一つは「病気が治っていないことを言わなかった」という恵に対しての怒り。そして二つ目は「彼女の容態に気が付かなかった」という自分への怒り。最後に「恵に気を遣わせてしまった」という、これもまた自分への怒りだった。特に最後のが一番胸が痛かった。


 家に入り、急いで母親の部屋へと向かった。タンスを開け、一番上のパジャマを取り出す。迷うことなく、彼女の服を着替えさせた。邪な気持ちなどは微塵も湧いてこなかった。ベッドに寝かせたあとで、先日のように薬と洗面器とタオルを用意した。


 キツく絞った濡れタオルを額に乗せ、彼女の横で正座した。布団に両手を入れ、彼女の手を掴んだ。布団に頭を埋め「ごめん」とつぶやく。


 恵は言った。「変化球の方が思い出っぽいでしょ」と。その言葉を聞いたときに、恵が出かけたがった理由が一つでないことはわかっていた。彼女は自分に思い出を作ってくれようとしていてくれたのだ。不幸体質によって腐っていった、青春という名のかけがえのない時間の代わりを作ろうとしてくれていた。光輝から誘うことはしないだろうという恵の配慮でもあった。


「ボクがもっと早く気付いてれば……」

「気に、すんなって」


 吐息混じりに恵が言った。


「あまり喋らなくていいよ。辛いだろうし」

「いや、言わせろ」


 深呼吸を何度も繰り返し、ツバを呑み込んでから口を開いた。


「私が出かけたかったんだ。ずっと家の中だったから。買い出しもお前に頼んでただろ? 遊びたかったんだよ。だから、気にすんな」

「そんなこと言われても、ボクには無理だよ」

「だよな、知ってた。言うだけ無駄だよな」

「よく、わかってるじゃないか」

「お粥作ってよ。私、お前の手料理とか食べたこと無いんだわ」

「うん、すぐに作って持ってくるよ」


 布団から手を引いた。正確には引こうとして、彼女の手に阻まれた。熱くて小さい手が離してくれない。


「手、離して欲しいんだけど」

「ああ、悪い」


 スルッと、力が抜けていくように恵の手が離れた。


 静かに部屋を出て、急いでキッチンに向かった。長く自炊していただけあってお粥くらいならば簡単に作れる。簡単な味噌汁を作り、添え物に梅干しとしば漬けを小皿に入れた。


 お粥を持って行くと、変わらずに荒い息を繰り返してた。


 サイドテーブルにお盆を乗せ、布団と背中の間に手を入れて身体を起こす。


「自分で食べられる?」

「うん」


 今度はお盆を彼女の太ももに乗せた。スプーンを持ち、ゆっくりとお粥を食べ始めた。


 身体が倒れないようにと、食事が終わるまで身体を支えた。だが、スプーンは四口ほどで動かなくなった。薬と水を飲ませてから寝かせると、数秒と立たずに寝息が聞こえてきた。


 これで一安心だと胸を撫で下ろした。同時に残念な気持ちが、胸にじわりと広がっていく。恵の顔を見ていると、もっと喋って、もっとどこかでかけたかったという気持ちが大きくなっていく。そんな自分がまた情けない。病人を前にしてなにを考えているんだ。


 その思考をかき消すように、母の部屋をあとにした。


 食欲はなかった。お粥を茶碗に盛り、自分も漬物と一緒に胃に詰め込んだ。


 洗い物が終わってソファーに深く腰掛けた。テレビをつけるでもなくうなだれた。そのとき、気配を感じて後ろを振り返った。


「めぐ――」

「メグちゃんじゃないわよ」


 ダイニングのイスに一人の女性が座っていた。恵とはまた違ったタイプの美人だった。けれどなぜか雰囲気はそっくりで、不思議と「彼女がここにいるのが自然である」と納得してしまった。


「驚いてはいるけど不思議がってはいない。なかなか面白いわね、光輝くんって」

「ど、どうも。アナタは?」

「永村このみ、メグちゃんの同僚ってところかな」

「じゃあアナタも天使なんですか?」

「そういうこと。この家ではメグちゃんには何度か会ってるんだけど、今日はアナタに言わなきゃいけないことがあって来たの」

「恵さんの、病気のことですか?」

「察しがいいのね、その通りよ。と言っても、あれは病気じゃない。だからいくら薬を飲んでも意味がない」

「それなら病院に連れてかないと」

「それも無駄。病気じゃないって言ってるでしょう?」


 一呼吸置いてから、このみは足を組み直した。


「そもそもね、アナタはメグちゃんのような中級天使では相手にできないほどの不幸体質だったの。本来ならば上級天使、しかも相当な天使力がなければ完全な浄化はできなかった」

「それって、ボクの不幸体質が強くて、それで恵さんがあんなことになったっていう意味ですか?」

「そうね、ちょっと細かいところまで説明すると、人間と共生してまで直さなきゃいけないモノって、それこそがそもそも特殊なのよ。アナタのような日常的に不幸に襲われる不幸体質とか、またはその逆で人よりも過度に幸運を呼んでしまう幸運体質とか。


あとは創作物でも見られる「末代まで呪ってやるー」みたいなのあるでしょ? ああいう呪詛返りだったり、霊体を呼び寄せてしまう体質であったり。それらが先天的に出てしまった人間は、天使が一緒に暮らしてリセットするの。


天使はその特殊体質を吸い取って濾過するんだけど、吸い取れる上限にも個体差がある。年齢によって上限も上がるけど、メグちゃんはその上限が最初からそこそこあったのね。元から中級天使くらいはあったかな。だからわからなかったんだね。これが初めての共生任務っていうのもあったけど」

「初めて、だったんですか?」

「人間と共生して特殊体質を治すのって、いわば天使が一人前になるための通過儀礼みたいなものなの。それができて一人前。でもメグちゃんは今までその共生任務を任されなかった。それはメグちゃんが情に厚く、感受性に富んでいたから。ああいう性格だから分かりづらいけど、悲しい映画とかですぐ泣いちゃうタイプなの。


メグちゃんの上司はそれを知っているから、共生任務なんかさせたら情が湧いてしまうだろうって。でもやらせないわけにもいかなかった。神様はどうして天使に感情なんか与えたのかしらね。こんな複雑で厄介なモノ、あってもいいことないのに」

「それは、人間も一緒です。人間だって感情なんかなければ、もっと簡単で、悩むこともない。野性的で直情的なら、考えることも、きっと少なくて済んだ」

「お互い様ってことね。メグちゃんが光輝くんの家に来たのは完全にこちらの手違いだった。それは謝るわ。だから、ちょっとしたら新しい天使が来る」

「新しい天使って、じゃあ恵さんはどうなるんですか?」

「もちろん連れて帰るわ。彼女には休息が必要だから」

「そんな!」

「メグちゃんがあんなふうになって、アナタはそれで平気なの? あれはアナタじゃ治せないのよ?」


 荒い吐息でベッドに横たえる、苦しそうな恵の姿を思い出した。うわ言のように「大丈夫」と言って、他人のことばかり気にかけていた。高熱でうなされているのは恵の方だというのに、それでも光輝の心配ばかりしていた。


 もう、なにも言えなかった。


「わかってもらえたならいいの。それじゃあ、メグちゃんは連れていくわね」

「待ってください。最後に少しだけ時間が欲しいです。恵さんとちゃんと――」

「メグちゃんをあんな風にしておいて、アナタにそんなことを言う資格があるとでも?」


 冷たく鋭い視線が突き刺さった。胸が抉られ、四肢が麻痺したように動かなくなった。そして次の瞬間、目の前には誰もいなかった。


 ポタリ、ポタリと音がする。


 床を見た。水滴が、ポタリ、ポタリと落ちていく。


 なぜ自分は泣いているんだろう。悲しいことは確かにあった。けれどなにが悲しかったのかが思い出せない。楽しかったこともあったような気がする。でもなにも思い出せない。


 顔を上げて、キッチンの方を見た。あそこに誰かがいたような気がする。それが誰なのかがわからなくて、光輝は膝から崩れ落ちた。


 自分の中にあった「なにか」が抜け落ちた。悲しく切ないのに理由がわからない。抜け落ちた穴を埋めたのは、行き場をなくした悲壮と哀愁だった。いくら涙を流しても心は晴れず、ただただ自分への怒りが積み重なっていくばかりだった。


 大切なモノを思い出せない、自分への憤怒だった。

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