第15話
目蓋に強烈な光が当たった。いきなり目の前が白くなり、けれどまだ眠っていたいと布団を被った。昨日よりも少しだけ気温が低いように感じた。
「起きろー!」
と、布団を無理矢理剥がされた。
「あと五分……」
「いつの時代だよ。しかもいつもより遅いから。はよ起きろ」
腕を引っ張られて、敷布団から引っ張り出された。目覚まし時計を見ると八時を過ぎていた。
「どうして休日になると遅起きしちゃうんだろ」
「私には経験がないからわからないって。時間を決めれば自動的に起きられるから」
「便利な機能、ボクも欲しい」
「便利かもしれないけど、なんというか人間らしくはないわな」
洋服を投げられた。早く着替えろということだろう。
「着替えたらリビング」
「はい」
恵が出て行ってすぐに着替えた。リビングに行く前に、部屋着を洗面所に持っていった。
「よし、じゃあとりあえず掃除から始めるか」
「掃除って言っても、そんなに気合い入れるようなところってないと思うんだけどな」
「ホコリっていうのは一日で溜まるもんなの。私が一階、アンタが二階。おーけー?」
「了解です」
同棲を始めてからずっとそうだ。基本的に恵には逆らえない。でも二階の掃除は自分でやった方がいいのもわかっている。趣味の部屋にあるプラモデルやモデルガンなどの扱いは、やはり自分の方がよくわかっている。
二階に上がってすぐ、階下で洗濯機が周り始めた。
「ズボラっぽく見えて、実は真逆なんだよなあ」
一階と二階で掃除する場所を振り分けたが、恵は洗濯も一緒に行っている。このままだと洗濯物を干すのも一人でやるはずだろうと考えた。それならば二階の掃除を早く済ませて自分も手伝えばもっと早く終わる。
二階にあるのは三つの部屋とトイレが一つ。光輝の部屋と誠治が使っていた部屋、それと物置になっている部屋。光輝の部屋はまめに掃除をしているし、誠治の部屋は物が置いてない。問題は物置だけだ。
最初にトイレ掃除を終わらせた。こちらも使用頻度が低いので、そもそも目立つような汚れがないかった。
誠治の部屋も綺麗だった。これも恵が日頃から掃除をしているからだろう。ほとんど服が入っていないタンスやクローゼット。難しい心理学の本が並ぶ机。布団が敷かれていないベッド。壁際に並べられた本棚には、少数の漫画と自己啓発本が何冊か入っていた。本棚の横にあるカラーボックスには、趣味であったクラシック音楽のCDが残っている。
元々、兄である誠司には趣味らしい趣味がなかった。音楽を聴くこと、楽器を演奏することくらいだった。小学校のときにピアノを習い、中学校では吹奏楽部に入りトロンボーンを学んだ。高校ではバンドを組んでベースを弾いていた。歌の方も美味かったと、光輝は記憶していた。
両開きの押し入れを開けると、長い間使われていない布団が上段にあった。下段にはエレクトーン、トロンボーン、ベースとアンプが置かれていた。趣味であったはずの音楽は、この家を出るのと同時にやめてしまったのだと初めて知った。
天井からぶら下がる照明の笠などのホコリをハタキで落とす。机やタンスの上と一緒に雑巾で拭いた。フローリングの床に掃除機を掛け、こちらも雑巾がけをした。
兄の部屋を掃除することに関して、特になにも思わなかった。確かにずっと虐げられてきたが、兄の反応が正常であるとわかっていた。責めることも、怒ることもできない。だから、なにも感じないようにと掃除に集中した。
一度バケツの水を取り替えてから、今度は自分の部屋を掃除した。プラモデルやモデルガンのうえのホコリは、ホームセンターで買ってきた使い捨てのエアダスターを吹くだけでいい。ついでにパソコンの中のホコリもエアダスターで吹いた。
ハタキは使わなかった。掃除機と雑巾がけだけで掃除を終わらせた。
腕時計に目をやる。十一時を少し過ぎたところだった。
階段を降りていると恵が洗面所から出てきた。手には洗濯カゴを持っていた。
バケツと掃除機を片付けてから彼女のあとを追った。案の定、全部一人でやるつもりだったらしい。
洗濯物を二人で干し終わると、ちょうど十二時になった。
服のホコリを払い、手を洗った。恵は上機嫌に鼻歌を歌っていた。聞いたことが無いメロディだが妙に心に残った。
「そろそろ出かけようか?」
「そうだな、一通り掃除も終わったし」
一度リビングに戻り、財布をズボンの後ろのポケットに、鍵を上着のポケットに入れた。
「で、どこに連れてってくれるの?」
「電車でちょっと行ったところに大きなショッピングモールがある。アウトレットモールって言い方でもいいかも。いろんな店が並んでるし、あそこなら恵さんが欲しい服もあるんじゃないかな」
「結構行くの?」
「一度もないかな。ボクはほら、アレだったから」
「そう言われるとそうか。昔のアンタが人混みになって飛び込んだら、それこそなにが起きるかわかったもんじゃないし」
「ホントにハッキリ言うね」
リビングを出て玄関へ。恵がアンクルストラップサンダルを履いているのを見て、光輝は疑問を口にした。
「恵さん、その格好で行くの?」
クオーターのスキニーパンツと白いブラウス姿の恵を見てそう言った。
「だから、これしか持ってないんだってば。しかも今日結構暑くない?」
「どっちかというと気温は低いよ? 薄めの上着くらいはあった方がいいと思うけど」
光輝は「そうだ」と言ってから、母の部屋に向かった。クローゼットから一着の上着を手に取り戻った。
「これ、着てきなよ」
渡したのは水色のライトジャケット。生地は薄く、腰の部分が締まっている。
「これ光輝ママの?」
「そう、ボクが女性物持っててもおかしいでしょ? 若い人でも着られそうなのを持ってきた」
「なるほど。パジャマを借りたときにタンスとかクローゼット覗かせてもらったけど、光輝ママって結構オシャレだよね」
「年甲斐もなくね。若い人たちの服装をしたがるんだよ。父さんは「そこが母さんのいいところ」って言ってたけど、子供から見るともうちょっと落ち着いて欲しかったかな」
「私はそれでよかったって思ってるよ。そのおかげで私が着られるような服が残ってたわけだしね」
ジャケットを受け取ってから、表面を何度か撫でた。「よし」と言ってから袖を通す。
「今の、なに?」
「さあ、なんだろうね」
恵は歯を見せて笑った。
腕を抱き込まれ、そのまま外に連れ出されてしまった。
「鍵、まだ鍵閉めてないから」
結局、彼女の行動の意味はわからなかった。歩いている最中も聞いてはみたが、上手くはぐらかされしまった。
腕を組んだまま歩き、電車に乗った。三駅先で降りたが、二人が離れたのは改札を通るときだけだった。
初めてのショッピングモールは新鮮だった。入り口が高い場所にあるので、連なる店が見渡せる。何十という店が並んでおり、数え切れないほどの人が出入りを繰り返していた。入り口にあったパンフレットを広げるが、恵にそれを奪われた。
「おいおい、パンフレット見ないとわかんないだろ」
「なにを言うか。こういうのは手探り感が楽しいんだろ? 一周しようよ。目的がどうとかじゃなくてさ」
「う、うん。そういうのも悪くないかも」
「じゃ、れっつごー!」
腕を強く抱き込まれた。どうしようもなく、胸が高鳴ってしまう。
目を細め大口を開けて笑う彼女はとても生き生きとしていた。女らしさや美しさ、麗しさや清楚さなどとは対極で、けれどそれが彼女の良さだ。他人の目を気にしない、けれど気は遣う。自分本位で行動する、けれど相手の顔色は伺う。不器用に見えて器用。そんな彼女の横顔が、なんだか輝いて見えた。
ブティックがあれば当然入る。それ以外にも雑貨の店、靴屋、帽子やバッグも見て回った。途中でコーヒーショップに寄ったり、名物らしいみたらし団子を買って食べた。横にはクレープやケバブのワゴンもあったが、恵の要望で団子になった。
「なんで団子なの?」
「クレープの方が女子っぽいから聞いたんでしょ? 暗に私をバカにしているね、キミは」
「当たってるけどバカにしているわけじゃないよ」
「逆に訊くけど、こういうところでデートの最中に団子を食べる経験ってどれくらいの人がしてると思う?」
デート、という単語に反応してしまう。気恥ずかしくなり、口元を抑えて横を向いた。
「さ、さあね。こういう場所でデートとかしたことないからわからないや」
「でもアンタが言うように、間食にはクレープ、普通の食事寄りならケバブを選ぶ。でも団子って。団子は選ばなくない?」
「いやいや、恵さんが選んだんだけど?」
「違う違う、だから選んだの。変化球の方が思い出っぽいでしょ?」
ちらっと、視線を戻した。また歯を見せて笑っている。白い歯が眩しかった。なによりも、屈託のない笑顔が眩しかった。
「確かに、恵さんらしくていいと思う」
「なんだ? まさかこの短期間で私の事わかった気になってんのか? なんてふてー野郎だ。私はそんなに安くないぞ」
「いや、そういうつもりで言ったわけでは……」
腕を組み、少しだけ不機嫌そうに彼女が言った。気に障ってしまったかと、慌てて弁解しようとする。けれど、彼女はすぐに笑顔に戻った。
「ははっ、冗談」
「ちょっ……もう、勘弁してよ」
「赤くなったり青くなったり、アンタいい顔するようになったな。出会った頃よりずっと人間らしくなった。これなら私がいなくなっても安心できる」
そう言われて我に返った。
彼女は天使で、自分は人間。仕事の終わりが縁の終わりで、彼女は自分の前からいなくなる。考えないようにしていた現実が、目の前にどっかりと腰を下ろしているのだ。
恵が光輝と一緒に暮らせる時間はほぼ無期限。けれど、いずれいなくなる。
「さ、目的の服はまだ買ってないぞ」
いつもと変わらぬ態度で恵が歩き出した。遠ざかっていく彼女の背中に手を伸ばして、やめた。一度深呼吸をしてから駆け足で追いかけた。
「ねえ、恵さん」
「なんだ、改まって」
「恵さんはもう少しで帰っちゃうんでしょ?」
「そうだな、もう十分お前の不幸は取った。もしかして寂しいのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど。恵さんが天界に戻っちゃったら、ボクの生活も変わっちゃいそうでさ」
「そりゃ変わるでしょうね。光輝の記憶から私は消えるからさ」
言われている意味がよくわからなかった。
「ちょっと待って、もう一回言ってもらえる?」
「は? 光輝の記憶から私は消えるって言ったんだ。そうか、まだ話してなかったな。共生して仕事をした場合、人間から記憶を消さなきゃいけない決まりなんだ。考えてもみろ、なんかの拍子で天使の話なんかしたら周りの人間からバカにされる。信じる人間がいてもらっても困る」
「でも、ボクは誰にも話さないし」
「お前がとか他の人がとか、そういうのは関係ないんだよ。そういう決まりだって言っただろ? 仕方がないことなんだよ。つーことで――」
恵が一歩踏み込んできた。目の前には彼女がいる。近くて、でも遠い。
「今までの分の思い出、作っていこうじゃないか。いやいや、でも私にもできることとできないことがあるからな」
手を取られた。握られた手は柔らかく、少しだけ熱かった。
なんて言えばいいのか。どう声をかければいいのか。自分が言うべき言葉が見つけられず、下唇を噛むことしかできなかった。周囲の喧騒も耳に入らない。ただ、彼女の瞳に釘付けにされていた。
「まだ私はここにいる。今を楽しめよ。そうでなきゃ私が困る。私を困らせたいわけじゃないんだろ?」
「うん」
「おーけー、それが聞ければ十分だよ。行こうか」
手を引っ張られてつんのめりそうになった。そんな姿さえ、彼女は笑って見ていた。だから笑うしかなかった。彼女を困らせたくないから、彼女に笑顔でいて欲しいから、笑って、歩幅を合わせて歩き始めた。
二人で服を選んだ。何回も試着をして、白いワンピースと、紫と青のチューブトップに落ち着いた。ボトムスは紺色のハイウェストスカートとピンクのペプラムスカートにした。今着ている服装にも合うようにした。
店を出ると、恵がトイレに行きたいと言い出した。光輝は缶コーヒーを買ってベンチに座った。
周りを見てもカップルか家族連ればかりが目立つ。傍から見れば自分と恵も同じように見えるのかと、少しばかり気恥ずかしくなった。
「あれ、伏瀬くん?」
名前を呼ばれ、顔を向けた。
ショートボブの女性だった。隣には長身の女性がいて、友人同士で来ているのだろうとすぐにわかった。それだけではない、そのショートボブの女性には見覚えがあった。
高校の同級生だとわかるのに僅かに時間がかかってしまった。そのせいで咄嗟に立ち上がってしまった。
「えっと、篠原さん?」
「ちゃんと私のこと覚えてたんだね、久しぶり。高校以来じゃん」
「うん、久しぶり。そっちは友達?」
「なに言ってるの? 同じクラスだったじゃん。三島だよ、三島景子。確かに高校のときはアレだったな。横にでかかったからな」
「三島さん? あっと、これは、その、綺麗になったね」
「ありがとう。伏瀬も、かっこよくなったね」
「そうかな? ありがとう」
篠原亜美も三島景子も高校三年間同じクラスだった。お喋りが好きな亜美と、逆に口数が少ない景子。クラスの中でもアンバランスなコンビだった。
「いやー、でも伏瀬変わったね。昔はもっとこう、陰気だったのに」
「篠原さんは変わらずにズバッと言うね。でも、ボクってそんなに暗かったかな?」
「なんつーか、必ず前に影があったんだよ。丸まった背中のせいでさ。それがなくなって、すごくかっこよくなった。最初は気付かなかったけどさ、オドオドした感じは変わってなかったから」
亜美が歯を見せて笑った。彼女は元々美人で薄化粧でも映える。ほんの少しだけ、恵が重なって見えた。
ああ、彼女のような元気な人が傍にいてくれたらなと、高校時代に戻った気分だった。
「あーら光輝、こちらはだーれ?」
と、いきなり腕を抱き込まれた。腕にあたるふくよかな感触と甘い匂い。
「どうしたの恵さん、そんなこと普段はしないのに……」
「で、誰?」
ギロリと睨まれ、身体を引いてしまった。トイレに行く前はあんなに上機嫌だったのに、どうして急に機嫌が悪くなったのか。考えながら、恵の問いかけに答えた。
「高校時代のクラスメイトだよ」
「それだけ?」
「それだけだって、なんなんだよ一体……」
「こりゃ彼女さん、お邪魔だったみたいだね。行こうか景子」
最後に「またねー」と言って肩を軽く叩いていった。「うん、また」と、光輝は手を上げた。
「また、じゃねーよ。なにデレデレしてんだよ」
「別にデレデレなんてしてないってば。なんだよ、どうしたんだよ急に」
「なんでもない」
「なんでもない感じじゃないんだけどな」
「いいから、次のお店行くよ!」
恵の胸元に腕を埋めたまま歩くことになった。
動きづらいとは思いながら、内心嬉しくて仕方がなかった。腕を組む相手が女性だからではない。相手が恵だから嬉しいのだ。
恵が怒っていることに関しては気がかりだけれど、こうして一緒にいられることが、今の光輝にとっては大事だった。
端から店を見て回ってきた。最後の店から出てきたとき、すでに夕日が沈みかけていた。空はオレンジ色よりも深く、淡い紫のような、不思議な色合いをしていた。空気は冷たく、湿った匂いがした。
一日の終わりが近付いているのだと実感すると、どうしようもなく胸が締め付けられる。日常を楽しく感じるからこそ感じる切なさだった。
その頃には恵の機嫌は戻っていた。腕は離してくれなかった。が、彼女は嬉しそうに、洋服が入ったビニール袋を前後に揺らしていた。クシャクシャというビニールの音が不思議と心地良かった。
電車に乗っていても恵は嬉しそうだった。逆に、光輝は暗い顔で考え事をし続けていた。
帰路の最中、恵が声を掛けてきても相槌を打つので精一杯だった。なにかを言おうとすればするほど、言葉に詰まって出てこない。
たくさん話をしているせいか、恵は少しだけ息が荒くなっていた。光輝がそれに気がついたのは、自宅まで数十メートルのところだった。
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