第18話 〈伏瀬 光輝〉
胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
不幸体質が解消された。原因はわからないが、最近は不幸な出来事に遭遇しない。心の底から安堵できる日常を送っている。それなのに、どうしてこんなにも気持ちが晴れないのだろうか。
ここ数日、そのことばかりを考えていた。なにが足りないのか、喉元に魚の小骨が引っかかってるような具合の悪さがあった。
そして時折、聞いたことがないはずのメロディーの鼻歌が出る。少ししかわからないし、なんの歌なのかもわからない。けれどなぜか大切なもののような気がしていた。
仕事が終わり、駅に向かって歩き出した。
「おい、伏瀬」
振り向くと浅間が立っていた。
「どうしたんですか課長、そんなに息を切らして」
浅間はジャケットを手に持ち、額には汗を浮かべていた。肩で息をしているところを見ると走ってきたのだろう。
「たまにはどうだ、と思ってな」
右手でおちょこを持つような仕草をし、口元でそれを傾けて見せた。
「えっと、ボクそんなには……」
「ちょっとでいい。せっかくの金曜日なんだ、たまにはいいだろ?」
浅間が飲みに誘ってきたことは、今まで一度もなかった。
不思議に思わなかったわけじゃない。けれど浅間が優しくなるときは、決まって心配してくれているときだとわかっている。
「わかりました。行きましょうか」
「そうこなくちゃな。店は俺のいきつけだ。さあ行こう」
強引に腕を掴まれた。ぐいぐいと引っ張られ、街の中を歩いていった。
この付近の店はよくわからない。どんな店があるのかもよくわからない。今までは下手に寄り道をすれば不幸な目に遭っていたからだ。
夜の街は光輝にとって新鮮だった。誰かと酒を飲みに行ったことも、ショッピングに出かけたこともなかった。もとより友人など、一人もいない。
こうして誰かに手を引かれ、どこかに行くなど一度もなかった。
ズキリと、眉間が痛んだ。正確には眉間のだ。本当に一瞬であったが、妙な頭痛に襲われた。
本当に誰かと一緒に出かけたことがないのか。家族以外の誰かと外食をしたことも、本当に一度もないのか。
あるわけがないのに、どうしてか胸が痛む。
「どうした?」
「なにが、ですか?」
「ちょっと顔色が悪いぞ」
「大丈夫ですよ。問題ありません」
「それならいいんだが」
それから五分ほど歩き、小さな居酒屋に到着した。看板には「居酒屋しょうちゃん」と書いてあった。入り口は片引き戸で、いかにも居酒屋という感じの佇まいだ。
浅間は躊躇なく片引き戸を横にスライドさせた。
「お、たっちゃんじゃねーか。久しぶり」
「おう、しょうちゃん久しぶり。奥、使わせてもらうよ」
「いいぜ、注文はどうする?」
「あーっと、焼き鳥の盛り合わせ、たこ焼き、アスパラのベーコン巻き、近江牛の肩ロースのステーキ。あと仙人殺しと希望泉水一つずつね」
「あいよ!」
禿げ上がった頭に髭面、腫れぼったい一重目蓋に団子っ鼻。居酒屋の名前になっている「しょうちゃん」とは大将のことだった。
奥に進み、個室に入った。一つだけある引き戸の個室。四人が入ればいっぱいになってしまうくらいには狭かった。
「たっちゃんって、課長のことですか?」
「それ以外ないだろ? 浅間龍彦だからな。で、最初はなににする? ここの個室に入ったときにはな、この店の裏メニューを選べるんだ。近江牛は裏メニューだからな」
「さっき言ってた仙人殺しと希望泉水」
「日本酒だよ。仙人殺しはキツイだろうと思ってな、ちょっと弱いやつにしておいた」
「ありがとうございます。全部任せちゃってすみません」
「いいんだ、誘ったのは俺だ。支払いも気にしなくていい」
「いやでもさすがにそれは……」
「上司を立てろよ、こういうのは上の人間がおごるもんだ」
浅間はニカッっと笑いながら親指を立てた。
とてもよくできた上司だと、光輝は心から思っている。けれど飲みに誘うときの仕草もそうだが、浅間はどこかバブリーな雰囲気があった。そこもまた嫌いになれない要素の一つだった。
大将がとっくりとおちょこを二つ、それとお通しを持ってきた。まとめて出てきたそれを、浅間が一つずつ振り分けた。
お通しを少しつまみ、二人はほぼ同時に飲み始めた。
一口呑むと、フルーティな香りがふわっと香る。あまり酒は得意ではないが、日本酒とは思えないほどスッと入ってきた。
「で、どうだ。仕事の方は」
「えっと、仕事は順調だと、思います」
「そうだな、いきなりだがミスも減ったし業績も上がってきてる。上司としては嬉しい限りだ」
「ありがとうございます。それと、心配かけて申し訳ありません」
「あー……いや、うーん」
「大丈夫ですよ、わかってます。課長がボクのことを心配してくれてるのはわかってます。でも、ボクってそんなに頼りないですかね?」
「頼りない、とは少し違うな。なんというか危なっかしいんだ。女にでも振られたか?」
「振られるような女の人なんていませんよ。ボク、友人とかもいないんで」
「一人も? さすがにそれは言い過ぎだろ?」
光輝はおこちょに口を付け、ほんの少しだけ傾けた。
「一人も、です。ボクって昔から運が悪いんです。物をよくなくすし、よく怪我をするし、よく物を壊します。万引き犯にされたり、痴漢だって言われたりもしました。でも正直言って、どうすることもできないんです。何度確認しても仕事を失敗したりしたのも、ボクの運が悪いからです」
「だから友人がいない?」
「はい。小学校高学年になる頃には、ボクの周りには人が寄り付かなくなってました。ボク自信も運が悪いのをわかっていたから「ああ、仕方ないんだな」って思うようになってました。小学校も最初の方は友達もいたんです。でも、誰もいなくなった。教師でさえも近づかなくなりましたしね」
「誰もいなくなったって大げさじゃないか? ご両親んはいるだろう?」
「いえ、三年前に死にました。ボクを病院に送っていった帰りに、身体が原型を留めないほどの交通事故に遭って」
「それは、申し訳ない」
「いいんです、勝手に話したのはボクなんで。兄もいたんですけど、もう家には寄り付きません。ボクに社交性がないからとか、内向的だからとか、そういう理由で友人がいないのならばなんとかなったのかもしれません。でもどうしようもないんです。運の悪さなんて、自分じゃどうしようもない。諦めるしかなかったんです。全部、全部諦めてきたんです」
「なるほど、な。でもその話を聞く限り最近はよくなったのか?」
「不思議なことに、最近急によくなりました。理由はよくわからないんですけど」
「そうか、お前の仕事が上り調子だったのもそのせいか」
「おかげでなんでも上手くいくようになりました。おお神よ、って感じですかね。無神論者ですけど」
「嬉しいか?」
「はい、とっても」
「じゃあなんでそんな顔してんだ」
浅間の真摯な瞳に、光輝はようやく我に返った。
どうやって意識しても表情を変えられない。自分が無表情で、笑顔すら作れなくなっていたことに初めて気づいた。
「なにがあったのか詳しく話せなんて言わない。言えないのかもしれない。でもな、お前は間違いなく悲しんでる。今の状況を辛いと思ってる。だからそんな顔をするんだ。最近のお前はずっとそんな顔をしていた。気付いてなかったか?」
テーブルに肘をつき頭を抱えた。
気付かない、わからない。自分がなぜそうなってしまったのか。どうすればいいのか。全ての原因が、胸にぽっかりと空いた穴のせいなのか。
「いいさ。少しずつ進んでいけばいい。知らぬ存ぜぬで済むほど人生は甘くない。でもお前は違うだろ? 知りたがってるじゃないか。だったら今はその気持を溜めろ。きっとこれから絶対に必要になる」
とっくりが差し出された。おちょこを空けろ、と浅間が無言で圧力をかけてくるようだった。
言葉は優しいが、浅間の行動は圧力だった。四の五の言わずに言うとおりにしろ、人生の先輩からの言葉だ。そう、言いたげだった。
光輝はおちょこを出すと、浅間は無言で酒を注いだ。
料理が運ばれてきた。二人でそれをつつきながらいろんな話をした。けれど仕事のことや、不幸だったの話は出なかった。
どんな女が好きなのか。趣味はなんだ、特技はなんだ。漫画は読むか、ゲームはするか。十八になる娘は金もないのに市立の大学に行きたがる。十五になる息子はバスケ部でエースなんだ。
酒が入った浅間はいつも以上に饒舌だった。相槌を打ち、頷いているだけでも会話が進んでいく。質問にだけ答えるだけでも、浅間は満足そうにしていた。
最後にお茶漬けを食べてから居酒屋をあとにした。浅間はとっくり四つ分、光輝は二つ分飲んだ。
二人の足取りはしっかりとしていて駅につくのに時間はかからなかった。
同時に改札に入る。が、乗る電車が違うのですぐに別れることになった。
「じゃ、俺はこっちだから」
手をひらひらと振り、浅間が背中を見せた。
「はい。今日はありがとうございました」
深く頭を下げた。それを見た浅間は小さく笑い、けれどなにも言わずにホームへと歩いていった。
頭を上げて背中を見送る。
今まで両親以外の誰かを頼ったことがなかった。しかし、家族以外の誰かに、今ようやく頼ろうとしている。自分が少しずつ成長しているのを感じると頬が緩んだ。
ここでも、喉物になにかが引っかかるような感覚があった。それになんだか頭痛もする。
「飲みすぎた、かな」
光輝はそう言ったあとで歩きだした。浅間の背中が見えなくなったからだ。
なにが引っかかっているのだろう。なにかを忘れているのだろうか。いろいろと考えることはあれど、それを考え続けるだけの気力がなかった。
少しだが、胃の中が揺れて気持ちが悪くなってきた。酒にはあまり強くない。改めてそれを実感させられた。
誰かと酒を酌み交わしたことがない光輝の、初めての経験だった。
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