第10話 〈鈴木 恵〉

 締め付けられるような頭痛で目が覚めた。起き上がるのが億劫になるほどの吐き気も付いてくる。


 時計に目をやると、午前十時を過ぎていた。


「やっちゃったかー……」


 額を抑えながら起き上がる。ベッドから脚を下ろしたが立ち上がる気にはなれなかった。気分が悪いのと、昨日の出来事が後ろ髪を引いていた。


 アルコールの怖さというのは知っていた。知識だけだったが、急性アルコール中毒の怖さ、理性を失う怖さ、体調が悪くなる怖さなどだ。


 天界には娯楽がなく、アルコールもタバコも当然ない。アルコールについては天界のテレビで放送されていた。ただ、興味があった。


 お酒を飲み、楽しそうに盛り上がる人間たちの姿を見ていたからだ。


 光輝が仕事に行っている間に購入し、少しだけ、少しだけと飲んでみた。それが今まで経験したことがない愉悦と浮遊感を味あわせた。


 光輝が下戸なのを知っていたため、買ってきたビールはすべて飲まなければと言い訳をした。その結果がこれだ。


「うぷっ」っと、吐き気を模様して口に手を当てる。


「ああ、まだ大丈夫そう……」


 目蓋も気持ちも重かった。しかしこのまま動かない、というわけにもいかなかった。


 意を決して立ち上がる。頭痛も吐き気も酷くなった。


 ふらふらとしながらもキッチンへと向かった。


 グラスに水を目一杯注ぎ、それを一気に飲み干した。


 その場でしゃがみ込み、膝を抱えた。唸ることしかできず、再び自分の行いを悔いた。


「光輝にも迷惑かけちゃったな……」


 それだけではない。怒られて、心配させて、ベッドにも運んでもらった。


 最初は弱々しい、非力な男だと思った。でもこの数日間、特に昨日の一件で彼の男らしさという思いがけない一面を垣間見た。予想以上に胸板が厚く、広い背中は非常に男性らしいものだった。自分よりも太い腕に抱かれるのもまた、今まで経験がなかった。


 天界は女性しかいない。生身の男性に触れたのも、優しくされたのも始めての経験だったのだ。


 二度、三度と深呼吸して立ち上がった。


 シンクの横に書き置きがあった。丁寧で繊細な字は、光輝の性格を表しているようだった。


「二日酔いにきくらしいので起きたら飲んでください、か」


 メモと一緒に薬の袋が置いてあった。一日分、三つの袋が連なっていた。


 光輝が出かける時間には薬局など開いていない。とするならば、これはコンビニで買ってきたものだ。


「もう、アイツはホントに……」


 彼の行動が手に取るようにわかった。


 きっと自分が眠ってからすぐに、彼はコンビニに向かったのだ。この薬と一緒に、朝起きて食べられそうなものも買ってきてくれたのだろう。


 冷蔵庫を開けると、柑橘系のゼリーと滋養強壮剤の瓶が入っていた。


 思わず笑ってしまった。


 行動が予測できたのもそうだが、こんなにも心配させてしまったのかと考えたら、笑いがこみ上げてきてしまった。


 彼に対しての笑いでもあり、自分に対しての嘲笑でもあった。


 ゼリーを食べてから胃薬と滋養強壮剤を飲んだ。


 あまり食欲はなかったが、これならば問題なかった。なによりも好意を無駄にしたくなかったのだ。


 具合は依然変わらない。二日酔いというものの怖さを知り、二度と飲みすぎないぞと自分に言い聞かせた。


「バカにしてたけど、二日酔いってキツイんだな……」


 人間とは不思議なものだなと思いながらも洗濯機を回した。二日酔いで家事が出来ませんでしたなんて恥ずかしくて言えない。


 人間は体も弱く心も弱い。こんな体で何十年も生きるのか。天使よりはずっと短命だが、だからこそ天使から見れば脆弱だった。脆弱なのに、長く生きようと努力するのだ。


 それこそが天使にはない感覚だった。


 寝室に戻り、横になった。目覚まし時計を十二時に設定してベッドサイドテーブルに置いた。


 深く息を吸い、吐いた。


 今は眠ろう。そして、起きたら洗濯物を外に出して掃除をしよう。それが終わったら少し遅めの昼食をとる。テレビを見ながらちょっとだけ休んで、洗濯物を取り込んで、夕食の準備にとりかかろう。


 目蓋の裏でそんな想像をした。


 具合は悪い。ずっと寝ていたい。ではなぜ辛い中でも頑張ろうとするのか。


「ありがと、光輝」


 本人にはきっと言えないだろう。照れが邪魔をして、目を見て礼を言えない気がした。だから今言った。


 この家にいる間、彼の目を見て礼を言える日が来るだろうか。このまま任務が終わってしまうのではないか。


 いや、それまでにはなんとかしなければならない。


 光輝は自分の目を見て礼を言える。とても素直で、とても礼儀正しい。自分は天使だが、彼と同じようにできなければ彼の隣に立つ資格がないのではないか。きっと自分がそう言えば、彼はきっとこう言うだろう。


『恵さんは恵さん。ボクとは違うじゃないか。キミはキミらしくいればいいよ』と。


 語彙や言い回しに差異はあれど、似たようなことを言うに違いなかった。


 だから、彼の気遣いや心配はすべて飲み込む。ちゃんと咀嚼して、消化して、今度はこちらが気持ちを伝えるのだ。


 頭がボーッとしてきた。睡眠の予兆だった。


 眠る前に、ある人物の顔を思い描く。メガネを掛けた、優しい顔をした男性だった。


「こう、き」


 恵は最後にそう呟き、微睡みの中へ落ちていった。

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