第11話 〈伏瀬 光輝〉

 仕事中だが、恵の顔が脳裏をよぎった。あれだけ飲んだのだ、二日酔いくらいにはなっているだろう。心配だが、彼女ならば自分でなんとかしそうだとも思った。


「最近調子良さそうだな」

「はい、すこぶる良いです」

「女でもできたか?」


 そう言われ、なんと答えたらいいのかわからなかった。正解でもあり不正解でもある。片方の眉を下げ、口をへの字に歪めた。


 浅間がニヤニヤしながら背中を叩く。「けっこうけっこう、それでいい」なんて言いながら自分のデスクへと戻っていく。自分がどういう表情をしていたのかはわからなかったが、浅間の反応を見る限りあまりいい表情ではなかったのだろうと思った。


 浅間に対してなんとも言えない表情をすると「けっこうけっこう」と言うからだ。それは同僚を見てきているので知っていた。


 不幸体質が改善され始めて一週間が経過した。恵には「これが普通」なのだと言われた。だが決して幸福なわけでもなければ運がいいわけでもない。普通の人よりもまだ運が悪い。今までが悪すぎただけであって、マイナスがゼロに戻りつつあるだけだとも言われた。光樹としてはプラスなのだが、状況として見た場合はまだマイナスだった。


 それでよかった。誰かに迷惑をかけることもない。落ち込むことも、余計な悩みを抱えることもない。仕事をしていても「その仕事を進めること」に集中できる。過去の自分を洗い流されたみたいだと、清々しい気持ちで生活できていた。


「お先に失礼します」と言ってオフィスを出た。予想以上に仕事が早く終わったので、定時で上がらせてもらった。自分の生活が劇的に変わったのも恵のおかげだ。わずかながらでも彼女になにかお礼をしなければと思った。


 階段を降りて、けれど駅には直行しなかった。少し離れた場所にある、有名なケーキ屋に足を向けた。


 恵は自称天使ではあるが、その味覚や好みは非常に人間臭い。自分用に買っていたプリンやシュークリームなどを勝手に食べたりするところからも、彼女が甘いものが好きなのだとわかった。


 不幸体質の改善から、天使だと納得しようとする自分がいた。しかしそんな人間臭い部分から、天使だという部分を否定したい自分もいる。


 ケーキ屋に入ると客は一人もいなかった。店内は茶色と白を基調とした内装だった。内装そのものはシックであるが、ピンクなどをテーブルクロスで使っているところがおしゃれだなと思った。


 客がいないことを内心「よかった」と思ったが、ショーケースを見て、客がいない理由がすぐにわかった。


 ケーキがほとんどなかった。ほとんどいうのも違う。ショーケースの中にはモンブランが一つだけ。三つ四つ買って帰りたかったのだが、こうなれば仕方ない。


 落胆しながらもレジの前に立った。


「お客様」


 急に声を掛けられた。レジに立っている女性従業員だ。髪の毛は茶色がかったショートカットで、マスクをしているから顔はわからない。が、目元はぱっちりしている。空色のブラウスに青と白のストライプのエプロン。きっとこの店の正装なのだろう。


「は、はい。ボクですか?」

「ええ。お買い求めの商品がありませんでしたか?」

「ここに来るのが初めてなもので、なにがあるのか……。でもこの感じだと一つしかありませんね」


 女性は考えるような素振りをしたあとで両手のひらを合わた。「ちょっと待っててくださいね」と、急いで裏手に行ってしまった。小走りではなく早歩きなのは、食品を扱う店だからという配慮なのだろう。


 時計を見て、スマフォを見て、店内を見て。何度かそれを繰り返して数分後、奥から先程の店員が戻ってきた。


「お待たせいたしました。こちらの中でなにか買われますか?」


 金属製のお盆の上には五つのケーキが乗っていた。


「これは?」

「実は予約が入っていたのですが、そのお客様からキャンセルがありまして。余り物のような感じにはなってしまうのですが……」

「いいんですか? それなら、その五つ全部買わせてもらいます」

「ありがとうございます。それではお包みいたしますね」


 イチゴのショートケーキ。三種ベリーのタルト。ベイクドチーズケーキ。抹茶プリンケーキ。チョコケーキ。甘党でない光樹の目にも美味しそうに見えた。空腹であることも影響しているだろうが、それでもここが人気店であることには納得した。


 ケーキが入った箱を受け取って店を後にした。これで少しでも感謝の気持ちが伝わればいいなと心が踊った。


「ただいま」


 家のドアを開けると、カレーの匂いが鼻を刺激し、腹の虫が「くー」と鳴いた。


 リビングに入ると恵がソファーに寝そべっていた。近付くと、彼女の肩や胸が静かに上下運動を繰り返している。顔を覗き込むと、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。元より顔立ちが整っているため、寝顔もとても美しい。


 顔が少しずつ熱くなっていくのを感じ、咄嗟に右手で口元を抑えた。


「なに考えてるんだ、ボクは」


 何度か首を横に振り、近くにあったタオルケットを恵に掛けた。ケーキの箱をテーブルに置いてリビングを出た。


 着替えを済ませてもう一度戻ってきたが、それでも恵は目を覚まさない。


 リビングを出て仏間へ。両開きの仏壇を開けると、笑顔の両親が光樹を迎えてくれた。もう写真でしか見ることができない、大好きな両親の笑顔だ。


 正面に立ち、そして腰を下ろした。


「今まで、ありがとね」


 二人が死去してからというもの、両親の仏壇に声を掛けたことなど一度もなかった。事故の負い目が邪魔をして、両親に対して声を掛けられなかった。


 マッチを擦り、蝋燭に火を付けた。線香を取り出して数秒炙る。炎が移らないタイプの線香なので手で煽って消す必要もない。線香を刺し、手を合わせた。


「なんだろうね。父さんと母さん以外はみんなボクから離れていって、だからああいうふうに怒ってくれる人っていなかったんだ。みんな呆れたように「もういい」ってどっか行っちゃうから。だから、嬉しかったんだ」


 出会ってから時間は経っていないが、彼女のいろんな表情が思い出される。もちろん呆れ顔だってされた。でもそれ以上に笑顔の方が多かった。怒った顔や驚いた顔も珍しくない。喜怒哀楽がはっきりしていて、自分とは真逆の人間性を持っている。けれど感情だけで話を進めない。芯が一本通っているような、そんな誠実さを感じていた。


 真面目な部分が見えてしまうと、あの天真爛漫な部分が仮面なのではとさえ思ってしまう。真面目に見られたくないからああいう言い方をするのではないかと。


 考えれば考えるほど彼女のことがわからなくなる。知っていくほどに深みにハマっていくような感覚があった。


「まだちゃんと整理はついてないんだ。でも、恵さんがきっかけをくれたから。ボクは前に進めるんだと思う。兄さんのことはどうしようもないけど、できるだけ関係を修復していきたい。きっと父さんも母さんもこのままでいいとは思ってないんだろ? ボクはボクのペースで頑張ってみる。だから見守っててください」


 目を閉じて深呼吸を一つ。「よしっ」と言って太ももを叩いた。


 向こうに行っても心配させてしまうかもしれない。「自分は大丈夫なんだ」とちゃんと報告して安心してもらおうと考えた。この言葉が届くかどうかなんてわからないけれど、一つの区切りをつけるという意味でも必要な行為だった。


 リビングに戻ると、恵はまだソファーで眠っていた。


「いつもありがとう」


 恵を見る光樹の目は、親兄弟を見るような優しい目をしていた。


 今度はキッチンへと行き、夕食の用意をし始める。夕食自体は恵が用意しておいてくれたので、あとは盛り付けをして運ぶだけだ。


 大した仕事ではないが、なにかの癖なのか、自然と腕まくりをしていた。


 お皿の半分にご飯をよそい、空いた半分にカレーを流し込む。福神漬けを冷蔵庫から出して端っこに乗せた。レタスとトマトのサラダがすでに盛り付けられているので、それらも一緒にテーブルに運んだ。最後にコップに水を入れ、カレー皿の横に置いた。


「恵さん、ご飯の用意できたよ」


 ソファーに向かって声を掛けた。しかし、彼女が起きてくる様子はない。


「恵、恵さん、恵ちゃん」


 仕方ないと近付いていく。テレビを付けてから、彼女の肩を何度か揺らした。


「恵さま?」

「う……うん?」

「あ、そこは反応するんだ」


 目を何度かこすり、光輝の顔を見て「あっ」と小さく漏らした。


「おかえり。あー、私寝ちゃってたか」

「うん、気持ちよさそうに眠ってた。体調はよくなった?」

「もう心配ないさ。それよりも食事の用意しなくちゃ」

「大丈夫だよ。盛り付けは終わってる。寝起きだけど食べられる?」

「おお、ありがとうな。食べるよ」


 恵は「んー」と身体を伸ばしてから立ち上がった。その場で軽く柔軟をしてからテーブルへと向かった。


「いただきます」と、いつものように同時に言った。


 ご飯とカレーをすくって口に運ぶ。率直に言うと、今まで食べていたカレーよりは甘口だった。カレーは辛くなくてはカレーじゃない。父がそういう人だったので、光樹は昔から辛いカレーばかりを食べてきた。


 しかし、不思議と口には合った。美味しいと、素直にそう思えた。


「なに笑ってんの? そんなに美味しかった?」

「すごく美味しいよ」

「そっかそっか、私が甘口好きだからさー、口に合わなかったらどうしようかと思ったよ」

「辛いのも甘いのも好きだから大丈夫だよ。壊滅的に不味くなければ好き嫌いしないから」

「それは暗に「私の料理は美味くも不味くもない」って言いたいの?」

「どうしてそうなるのかな……」

「なんだろう、なんでもいいって言われると、こう、なんとも言えない気持ちになる。わかる?」

「わからないかな」

「だろうと思ったよ」


 そう言いながら、恵がカレーとご飯をかき混ぜた。白が溶けて茶色が薄まる。


「恵さんってそっちの食べ方なんだね」

「そっち?」

「納豆とかってご飯と混ぜちゃうタイプでしょ?」

「よくわかったね。こっちの方が味がよく混ざるじゃん。まあ、見た目が良くないのは承知してるけどね。ひと目がある場所ではやらないようにしてるんだ。個室とか、プライベート空間じゃなきゃやらないかな」

「なるほど」


 急いで水を飲んだ。水と同時に言葉を飲み込む。


 ここをプライベートな場所だと思ってくれてるんだね。


 言えるわけがなかった。言ってしまえば、肯定か否定が帰ってくる。彼女は仕事でここにいるのだ。自宅のような感覚とは少し違うだろう。だから肯定よりも否定の方が確率が高い。それはたぶん、精神衛生上よくない。


 この気持ちはなんだろう。どうして飲み込んでしまったのだろう。冗談交じりで言葉を紡ぎ、ただの雑談で笑って流せばよかったのに、考え始めてしまえば余計な思考が混じってしまう。


 顔を上げると、恵がカレーを頬張っていた。


  そんなにたくさん口に入れて、目の前にあるカレーは逃げたりしないのに。美人なのに、リスの頬袋みたいにして食べたら台無しじゃないか。


 そんな言葉は、光樹の中で溶けて、消えた。一生言えないだろう。言えない言葉が多すぎて、彼女とどう接したらいいのか、そのうちわからなくなりそうだ。と、そう思いながらもスプーンでカレーをすくった。


 口に入れたカレーの味が、先程よりもなぜか甘く感じた。


「そういえば美味しいって噂のケーキ買ってきたんだ。ご飯食べ終わったら食べようよ」

「お、気が利くな。じゃあカレーは腹八分目でやめとけよ」

「最悪は恵さんだけ食べてくれてもいいけどね」

「バカ言うなよ。お前が買ってきたもんを私が一人で食べろって? 美味しいって噂なんだろ? だったら二人で食べた方がいいに決まってるじゃん」


 言い方は悪いが、やはり彼女は心優しい女性だった。


 これも、今は口には出さない。


 もう少し仲良くなって、もう少し気軽にものを言えるようになってから言おう。


 光輝は心の中でそう思った。その日がくればいいなと、密かに心待ちにしていた。


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