第9話
今日も一日頑張った。仕事も楽しいと感じるようになった。家に帰るのもまた、今までよりずっと楽しみになった。
「ただいまー」
疲れて重くなった身体でリビングのドアを開けた。
「おっかえりー!」
黒い塊が胸の中に飛び込んできた。サラサラの毛玉。シャンプーのいい匂いがした。
背中に回された腕が、少しだけ力を込めてきた。
「おつかれさまー」
毛玉が顔を上げた。真っ赤な顔をした恵だった。シャンプーの香りをかき消すほどに、アルコールの匂いがする。
「た、ただいま」
部屋を見渡すと、リビングのテーブルに缶ビールが何本も並べられていた。その数十本だが、全てのプルタブが開けられていた。
「もしかして恵さん、あれ全部飲んだの?」
「あれってなにー?」
「ビールだよビール。ボクが下戸だからお酒は買ってなかったはずなんだけどな……」
「ずっと飲んでみたかったから買ってきたの」
「十本も?」
「ニ十本!」
「全部飲むつもり? 耐性があるかもわからないのにすごいことするね」
「天使は大丈夫なのよ。アルコールに対してもそうだけど、アレルギーとか一切ないから!」
へらへらと笑う彼女にどうしようもなく腹が立った。
「アレルギーはなくても急性アルコール中毒とかになったらどうするのさ」
肩を掴み、身体を引き剥がす。上体を屈めて目線を合わせた。
とろんとした目蓋。潤んだ瞳。上気した頬。美しく艶やかなのに、今はそんなことはどうでもよかった。
「急にアルコールをたくさん飲むと倒れちゃうんだよ。下手したら死んじゃうかもしれないんだ」
「大丈夫だってば。天使なんだから」
「天使だからとかそういうことじゃないんだ。心配なんだよ。無茶なことしないでくれよ」
自分の手が強く肩を掴んでいることに気付き、慌てて手を離した。恵の表情は変わらず、間違っているのはこちらなのではないかとさえ思ってしまった。
「ごめん」と言って、風呂場に向かって足を踏み出した。
そのとき、背中に衝撃があった。緩く、衝撃というには弱かった。胸元に回された腕は細く、指もまた細い。背中に当たる柔らかな感触が今の状況を理解させた。
「ごめんね。心配させちゃったね」
「いや、ボクの方こそごめん。恵さんは人間の文化に疎いんだって忘れてた」
「それでも心配してくれたんでしょ?」
「うん、恵さんが倒れちゃったらどうしようって思った」
「そか、ありがとね」
きゅっと、強く抱きしめられた。温かく、心地がよかった。
「お酒飲むのも構わないよ。でも、一気にたくさんは飲まないでね」
「うん、気をつける」
「それならいいんだ」
「光輝はさ、なんで私のこと心配してくれたの?」
「そりゃ心配するよ。急性アルコール中毒で死んじゃう人も多いんだから」
「私が死ぬのは、イヤ」
「当たり前じゃないか。恵さんがいなくなるのは、ヤダよ」
「そう言ってくれるの、安心するな。なんだか本当に自分が必要とされてるみたい」
「必要だよ」
「わかってるよ。お前の不幸体質を改善できるのは天使しかいないからね」
「そう、だね」
言葉に詰まった。
恵の言い方は「天使ならば誰でもいい」という言い方だ。そこが引っかかった。
光輝にとって、恵は天使でありながら家族のような感覚があるからだ。近くにいて、ケンカができて、ときに厳しくときに優しい。母のようで、姉のようだと感じていた。
「でもね、ボクのところに来たのが恵さんで良かったって思ってるよ」
顔を上げ、意を決してそう言った。
が、彼女からの返事はなかった。
「恵さん?」
後ろを振り向こうとして身体を捻った。すると、彼女の身体がズルリと、光輝の背中から落ちた。
「ちょっと!」
咄嗟に左手で二の腕を掴み、右腕を脇の下に入れた。必然として身体が密着し、顔が熱くなっていく。
耳元で寝息が聞こえてきた。速くなっていく胸の鼓動を感じながら生唾を飲み込んだ。
体温が熱い。上気した肌が艶めかしい。アルコール混じりの吐息に頭がクラクラする。
「ここで寝ちゃうか」
ため息を吐き、一旦恵を寝かせた。
恵が薄着のため、どこをどう持っていいかわからない。彼女の身体を見下ろし、五分ほど凝視した。
そしてまたため息を吐いた。
お姫様抱っこなどをするだけの力はない。できるに越したことはないが、現実的に考えて不可能だった。
両脇の下に腕を入れ、引きずるようにして母の部屋へと向かった。傍目から見れば滑稽であるとわかっている。けれどこれしか方法が思いつかなかった。
ベッドに寝かせてタオルケットをかけた。
気持ちよさそうに眠る彼女の頬を撫でた。心なしか彼女が笑顔になったような気がした。
「今日の夕食は一人か」
一人での食事には慣れたはずだった。それがたった数日でほだされてしまった。完全に信じきれているわけではないが、彼女の天真爛漫さや明るさがありがたいのは事実だった。
光輝自身が人との接点を保たなかったから、人に対しての接し方がよくわからなかった。それを恵が少しずつ解きほぐしていた。
「おやすみ、恵さん」
ドアを閉める前にそう言った。
今日のことを思い出して恥ずかしがる恵を想像し、照れる姿を少しだけ見たくなった。だが、逆に今日の出来事を忘れていてくれるといいとも思った。もしも彼女が覚えていて、その上であっけらかんとしていた場合、下手に意識した自分が恥ずかしくなってしまうからだ。
どっちが本心かは、光輝にもわからなかった。
リビングに戻るとき、どちらでもいいという気持ちになった。どちらであっても、彼女と楽しく会話できるのは事実だから。
食事はすでに並べられていた。ハンバーグ、レタスとトマトのキュウリのサラダ。コンソメスープに白米。
イスに座って手を合わせた。お手製のハンバーグを口に入れ、一人で「美味しい」と言いながら箸を進めた。楽しそうに料理をする彼女の姿を思い浮かべ、光輝は一人でほくそ笑むのだった。
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