第8話 〈伏瀬 光輝〉
どうしてこうなったのかと思いながらも、鼻歌交じりで歩く恵の後ろ姿を見ていた。
一週間に一度あるノー残業デーを終えて帰宅した。そこで待っていたのは恵からのお誘いだった。
誘いと言っても色気があるものではなかった。
ただただ散歩に付き合って欲しい、というものだった。
理由はよくわからなかった。が、いつもよりも疲れておらず、散歩くらいならばと一緒に家を出た。
「悪いな、帰宅して間もないのに」
「別に気にしてないよ。でもどうして急に散歩なんか?」
「基本的にあんまり外に出ないからね、私」
「出ればいいのに」
「たまには出る。食材を買いに行ったりするからな」
「なる、ほど?」
思わず首を傾げてしまった。
そうなると、今散歩する必要性がわからなかった。
「なんで不思議そうなんだ?」
住宅街を歩き続けた。大通りとは真逆の方向ではあり、この先には特になにもない。住宅街が続き、神社があったり、学校があったり、その程度だった。ずっと歩き続ければ山もあるが、そこまで行くには徒歩だと一時間くらいはかかるだろう。
春先の夜はまだ寒い。薄手のコートを来ているが、風が吹くと身震いしてしまう。
「そりゃ、今日、この時間に散歩する理由がわからないからね」
「確かに一理ある。まあ、友人に言われたからっていうのが一番大きい理由かな」
「友達とかいたんだね」
「お前と一緒にすんなよぼっち」
「そういうことって普通本人には言わないよね」
「本当のことだ。気兼ねするような仲でもないし」
「まだ気兼ねするような仲だと思うんだけど、ボクの気のせいなのかな……」
「顔合わせれば皆兄弟ってな」
「恵さんは女性なのでは?」
「突っ込みどころはそこじゃないだろ」
数メートルおきに置かれた街灯と民家から溢れる光が、二人の歩く道を照らしていた。
いつの間にか、恵が隣を歩いていた。鼻歌も止まっていて、首を動かしながら夜の住宅街を興味深そうに見ていた。
「楽しい?」
「それなりに」
「わざわざ住宅街を散歩するっていう感覚はよくわからないけど、恵さんが楽しいならそれでいいや」
「なんだそれ。付き合わされて、そんな感想しか出てこないのか」
「別に付き合わされたとは思ってないさ。たまにはいいかなって、そう思っただけだよ」
「超絶お人好しマンだな」
「そんなことないよ。ボクはボクの考えがあって、それに基づいて動いてるだけだもの。ちょっと人とは違うかもしれないけどね」
「ちょっとだったらいいんだけどな」
「なんでちょいちょい侮辱するようなことを言うのかな……」
「言ってもお前が怒らないってわかってるからだ。言っても不機嫌にならないラインは保とうと思ってるからだ。それじゃ、ダメか?」
横を見ると、彼女はニヤリと笑っていた。
少しキツめの目元。眼光は鋭いが、これがどうしてとても優しい光に見えた。口角が上がった口元は、暗がりであっても色気があった。
「別に、それでいいよ」
「そうか、じゃあこれからもこのスタンスでいこうかな」
「まあ、ちゃんと考えてくれてるなら。そうだ恵さん、寒くない?」
「私は特に問題ないかな。お前は寒くないのか?」
「一応コート来てるからね」
「ふーん、どれどれ」
と、彼女は立ち止まり、急に手を握ってきた。温かく、柔らかい。なによりも小さかった。
「な、なに、を……」
顔から火が出そうだった。身体の芯から熱くなるようだった。なによりも、触れた手から伝わる体温が熱かった。
「冷たいじゃんか。なにが寒くないだよ、嘘つきめ」
右手を両手で覆われる。温かさは変わらないのに、胸に宿る熱は温度を増したような気がした。
温めるためだろうか、こねるように右手を揉まれた。
いい匂いがする。髪の毛の匂いだろうけれど、このまま恵の頭に顔を埋めそうになってしまった。
女性とこういう経験をしたことがない。だからだろう。自分よりも慎重が低い、可愛らしい女性が、目の前で自分の手を弄んでいる。恥ずかしい気持ちだけではなく、嬉しさや新鮮さもあった。
「ん? なんか顔赤くないか?」
「そ、そうかな? 気のせいじゃないかな?」
「ははーん、お前もしかして、照れちゃってるのか? このこの、童貞めっ」
「おふざけじゃなくて普通にバカにしてるよねそれ」
「こういうのも愛嬌ってことで」
手が、離れた。
彼女が後ろを向く。
それがなんだか寂しく思って、僅かに手を伸ばした。
「さあ帰るか。今日は焼き魚と煮魚だぞ」
「それのメインディッシュは今日と明日に振り分けるべきだったんじゃないかな……」
「文句言うなよ。味は保証するぞ」
「味がいいのは知ってるよ」
「そうか、ならいい」
彼女が尻の後ろで指を組んだ。その後姿を見ながら帰途についた。
図々しいと思う。強引だとおも思う。それはきっと彼女のやり方なのだとも思った。
上手く関係を築いていく上で、彼女が取った手段なのだと。だからこちらも容赦しなくてもいい。ちゃんと考え、相手に対して気が遣えるのならばいいはずだ。
徐々にだが彼女との接し方を変えてもいいかもしれない。近付いてみてもいいかもしれない。
そうやって考えながら歩く道は、今まで歩いてきた道とは少しだけ違って感じた。前にいる女性のせいだが、悪い気はしなかった。
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