第6話 〈伏瀬 光輝〉

 今日も順調に仕事が進んだ。残業もそこそこにオフィスを出た。


 普段ならば家路を急ぐところだが、今日は足が重くて仕方がない。ため息もたくさん出た。


 恵に辛くあたってしまったことを心の底から後悔している。歩いていても、電車の中でも、気がつけばため息ばかり吐いていた。


 電車の窓から外を見た。見慣れた景色なだけに、どうしても景色を見ることだけに集中できない。


 目を閉じると恵の顔が浮かんでくる。テーブルに料理を並べているときはきょとんとした顔だった。部屋に迎えに来て、帰っていくときは笑顔だった。そして、怒鳴ってしまったときは驚いていた。それから今日の朝出ていくまで、彼女はずっと悲しそうな顔をしていた。らしくない、眉根が下がった悲しそうな顔だった。


 まだ出会って一日だというのに、まるで彼女のことがわかっているように感じていた。決してわかりやすい性格というわけでもない。光輝は彼女の性格を決めつけているに過ぎなかった。


「なんであんなこと……」


 抑えきれなかった。カーっとなって、つい怒鳴ってしまった。


 電車が駅につき、ホームへと出た。降りる人が少ないせいか、のったりと歩いても文句を言われなかった。前向きにいこうとは考えているが身体は正直だ。帰って謝ろうと思いながらも足は重いままだった。


 家の前で深呼吸をした。セリフは考えてある。「昨日はごめん」で問題はないはずだとドアノブに手をかけた。ゆっくりと回して家の中に入る。昨日と変わらず、リビングから明かりが漏れていた。


「ただいま」と言いながらリビングに入った。


「おかえり、今日は肉だぞ。嬉しいだろ?」と返ってきた。


「う、うん。そうだね、肉は好きだよ」

「だろ? さっさと着替えてきなよ」


 そう言われて寝室に向かった。首をかしげながらも着替えを済ませる。光輝の中で腑に落ちない部分があった。


 肩透かしというよりも面食らうという表現の方が正しいな、となぜか分析を始めていた。


 出会ってから二日や三日、その間で見てきた彼女は感情的に見えた。家庭的ではあるが、こちらが怒れば逆に怒り返してくる。そういうタイプに見えていた。帰るのが億劫だった理由もそこにある。家に帰って「昨日はよくも怒鳴ってくれたな!」なんて言われるのが嫌だったのだ。


 怒られるのは慣れている。ただ、家で怒られたことは全然なかった。両親は寛大だったし、兄は自分のことは諦めていた。兄が自分を嫌っていることは知っていたが、兄からは「どうしようもないヤツ」と見下されていたからだ。見下されたことを知っていたからだ。


 両親が死んだとき、兄が自分にかけた言葉が思い出される。


『お前に迷惑をかけられるのはこりごりだ』


 リピートされる声は鮮明だった。リフレインされる記憶は明瞭だった。抑揚はなく、怒るというよりも諦めの方が大きかったと記憶している。


 こちらに背を向けた兄の怒気は弱く、その背中は「近寄るな」と言っているように見えた。


 それから兄が家に帰ってくることはなくなった。元々帰省する回数が少なかった兄だったが、両親が死んでからは一度も戻っていない。戻ってくるつもりもないのだろう。


 自分のせいで両親が死に、自分のせいで兄は実家に帰って来なくなった。その事実は今でも胸を締め上げている。


 リビングに入ってイスに座った。テーブルにはすでに夕食が用意されていた。少し薄めではあるがステーキだった。ライスだけじゃなく前菜やスープもちゃんと用意されている。


 いただきますと、二人揃って手を合わせてからナイフとフォークを手に取った。


 しかし、そこから先に進めなかった。目の前の恵はもくもくと食事をしているが、光樹は肉にナイフを入れることさえもしない。


 そんな姿を見て、恵も手を止めた。


「どうした? 食べたくないか?」


 仕事が上手くいき、昨日今日だけでもたくさんの仕事を抱えるようになった。業務が忙しくなればそれだけ頭を使い、身体を動かす。空腹であることは間違いない。それなのに、手がまったく動かない。


「お腹は減ってるよ。でも、よくわからないんだ」

「なにがわからない?」

「キミのことがわからないんだ。ボクはキミによくわからない怒りをぶつけたんだよ? なんで変わらないの? なんで食事を用意してくれるの? ボクには、わからないんだ……」


 目を伏せ、食べかけの彼女のステーキを見ながらそう言った。視線を合わせて話をする勇気がなかった。


 カチャリと、恵がナイフとフォークを置いた。手をテーブルの上に置き、軽く握り込んでいた。


「変わって欲しかったか?」

「ボクの前ではいろんな人が変わっていくんだ。ボクが変えてしまうんだ。きっとその人の意思に関係なくて、ボクのせいで、なにもかも変わっちゃうんだよ」

「お前だって望んでないだろ」

「ボクが望んでなくても――」


 急に、視界に手が割り込んできた。胸元を掴み上げられて、そこでようやく目と目が合った。


「言いたいことがあるんならな、まずは人の目を見て話をしろよ!」


 その言葉に身震いを一つ。言葉だけじゃない。眉間にシワを寄せた彼女の怒りの眼差しに気圧された。


「お前は誰と話をしてんだよ! 私と会話をしてんだろ! 会って話をするから会話なんだよ! 目も合わせないで、ちゃんとした会話って言えんのかよ! 遮蔽物があるわけでもない、声だけしか届けられないってわけでもない。お前は目の前の私と会話してんだろうが!」

「そんなこと、言われても」


 ぐいっと引き寄せられると、恵の瞳に自分の姿が映り込む。


「今までどうだったかなんて、正直私にはわかんねーよ。私はお前じゃないんだから。情報としては取り込めても、そいつの気持ちになんてなれないんだよ。「その人の気持ちになりなさい」って言うヤツもいるけど、そいつの気持ちになれるわけがないんだよ。だから考えるんだ。そいつの気持ちになれなくても、そいつがなにを思ってなにを考えてるのかを考えるんだよ。それが人と人との関係を作るんだ。それが人って歯車の潤滑油になるんだろ。だから私も考えるんだよ」

「なにを、考えたの?」


 手を話されて、もう一度イスに座った。それは恵も一緒だった。


「たくさんの人にバカにされて、忌避されて、それでもお前はここまで育った。すごいことだと思うよ。優しすぎるくらい優しい男になった。たださ、優しすぎたんだ」

「ボクは優しくなんてない。自分のことしか考えてない。だからキミのことを怒鳴りつけたんだ」

「自分のことを考えてない人なんていないんだ。だからそれでいいんだよ。踏み込まれたくないとこに土足で踏み込まれたら怒っていいんだ。それに対して嫌悪感を抱く必要はない。だから落ち込まなくてもいい。お前は十分反省したんだろ?」

「反省はしたよ」

「私も反省したよ。だからさ、今まで通りでいいじゃんか。それにさっき言ったよな、お前のこと考えたって」

「う、うん。どんなこと考えたの?」

「お前が怒った理由だよ。最初はわからなかった。単純に仏壇を触られたくなかったのかなって思ったよ。でも、たぶん違うんだろ?」

「ボクにはよくわからない。でも、嫌だなって思った。一気に頭に血が登って、今まで感じたことがないような気持ちになった」

「お前が今まで受けてきたイジメとか、そういうのを洗い直した。両親の死とか、兄弟のこととかも調べ直した。お前にとっちゃムカつくとか、プライバシーがどうのとかあるかもしれないけどそれは置いておいてくれ」

「それも仕事だし、仕方ないと思う」

「ありがとう。んで思ったのさ。ここからは私の考えでしかないから聞き流してもらってもいい」


 彼女を目を閉じてから小さく息を吸い込んだ。


「お前は不安なんだ。不安でたまらないんだ。両親が自分を恨んで死んでいったんじゃないかって。両親はお前を否定しなかった、拒絶しなかった。そんな両親が最期になにを思っていたのか。本当はずっと自分を憎らしく思っていたのかもって、そうやって自分を追い込んでいるんだ。少なくとも私はそう思った。お前が受けてきた不幸という仕打ちを考えると不思議じゃない」


 思わずツバを飲み込んだ。


 確かに、両親が死んだときに悩んだことがある。一日二日、一週間二週間。二ヶ月あたりで考えるのをやめた。考えても答えは出てこないし、両親が自分を愛してくれていたことには違いない。


 そこで本当にそうなのかとまた考え始めてしまった。


 だから影に潜む自分の気持ちに蓋をした。解決もしてない、納得もしてない気持ちに背を向けた。心の中で漫然と漂う影は、いつでも心臓を掴んでいた。


 掴んでいるのは悪魔の手のようで、じわりじわりと光樹の心を蝕んでいた。心が黒くなっていくのでさえ目を閉じて見ないふりをした。


 悪魔の手が心臓を掴んで離さない。誰かに泣き言を言いたくとも友人も両親も兄弟もいない。ずっと、自分だけで消化してきた。消化してきたつもりでいた。


「思ったんだろ? 兄貴から向けられる敵意が正常なんだって。自分のような人間がいて、その人間のせいで人が死んだのだとすれば、向けられるのは敵意や殺意以外のなにものでもないんだって。お前の考えは間違いじゃない。そいつの近くにいて不幸ばっかり遭うんなら「こいつとは一緒にいたくない」ってなるよ。でもお前は優しいんだ。その優しさが人を救うこともある。その優しさに惚れるヤツもいる。自分たちが育ててきた子供がこんなに優しく育ったんだって、思う人も絶対いるだろ」

「それって」

「お前の両親のことだよ」


 顎が震えて歯がカチカチと鳴った。目頭が熱くなって、気がつけば一筋の涙が流れていた。


「私の話をどう思うかはお前次第さ。でも、お前の両親はお前を疎まなかっただろ。本当に嫌なら少しでも嫌な顔をしちまうのが人間なんだよ。そんな顔を見たことないだろ。お前の両親は間違いなくお前を愛してたんだよ。だから、もう悩むな。兄貴のことは仕方なかったと受け止めろ。簡単なことじゃないくらい私もわかってる。少しずつでいい。不幸体質も治り始めてる。自分に自信を持って、胸を張って歩けるようになりな。それまでずっと傍にいてやるよ」


 目の前の女性が笑っていることに気がついた。


 その瞬間、視界がぼやけて嗚咽が漏れた。


「なんでだろ。昨日今日会ったばかりのはずなのに、なんで、こんな……!」

「本当はこういうの良くないんだよ。悪徳宗教みたいだろ? 人の心の弱いとこぶっ刺して「キミはこうなんだ!」って。でもさ、今のお前には必要だと思ったから、こういう手段を取らせてもらった。全面的に肯定してくれなくてもいいよ。ほんの少しばかりの自信になってくれればそれでおーけー。さっ、食事の続きをしようじゃないか。今日いっぱい泣いて、明日からまた頑張ろう」


 嗚咽で上手く返事ができず、首を縦に振ることしかできなかった。肩が上下に揺れて、ナイフもフォークも上手く持てない。


「返事は?」


 こうやって無理矢理返事をさせようとするところも彼女らしさかと、思わず笑みがこぼれてしまう。


「わか、った」

「それでいいよ」

「あり、が、とう」


 彼女は顔を赤くし、人差し指で頬を掻いた。「よせよ、恥ずかしい」なんて言いながら、視線を外してどこか遠くを見ているようだった。


 深呼吸を数回してから食事に戻る。薄めの肉は噛み切りづらく、けれどとても美味しいと感じた。少しだけ塩気が強かったが、誰かと一緒にする食事がこんなにも美味しいのだと、光樹はそのときにようやく思い出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る