第4話

 家の鍵を取り出し、もう一度カバンにしまった。


 ドアノブを触る。ピリっとした冷たさを感じながらも握った。ドアノブを捻った。やはり開いている。


 ドアを開けると、廊下とリビングに明かりがついていた。靴を脱いで家に上がった。コートをかけてから一直線にリビングに向かった。


「おう、おかえりー」


 ちょうど、テーブルの上に皿を置いているところだった。エプロン姿の恵を見て、なんとも言えない気持ちがこみ上げてきた。もとより美しい容姿なのだ、女性に免疫がない光樹には衝撃的だった。


「なに、してるの?」

「料理してた。ちゃんと二人分作ったんだぞ? 文句ないだろ」


 エプロンを外す姿にも引き込まれる。少しずつ顔が熱くなっていくのを感じてリビングを飛び出した。寝室、もとい和室に向かった。


「どうかしてる」


 部屋に電気をつけることなくネクタイを緩めた。カバンを床に起き、ジャケットを脱いだ。


 いくら免疫がないからって、昨日今日知り合ったばかりの人を前になにを考えているんだろうか。美人でスタイルがよければなんでもいいのか。追い立てるように、自分の気持ちを叱責した。


「ボクは最低だ……」

「なにが最低なのかわからんが、飯が冷めるからさっさと食べようぜ」

「うおっ」

「なにその反応。さすがの天使様も傷つくが」


 入り口にもたれ掛かる恵がいた。腕を組み、若干不機嫌そうだ。


「ごめん、急に現れたもんだから」

「私は幽霊か。ちゃんと足音もしてたぞ。それだけなにか考え事してたってことか。そういうのも人間には必要だし、別に否定するわけじゃないんだけどさ。今はご飯食べちゃってよ」

「うん、ありがとう。着替えてから行くよ」


 恵は微笑んで「ああ、待ってるよ」と言ってリビングへと戻っていった。


 一つため息をつき、着替えを再開するのだった。


 スウェットに着替えて和室を出た時、嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔を刺激した。ハッとして廊下を駆けていく。リビングの向かいの部屋に電気がついている。急いで飛び込むと、仏壇の前で手を合わせる恵の後ろ姿があった。


 仏壇の中には両親の写真。線香の匂いが部屋に充満している。


 一瞬で頭に血が上った。光輝自信、こんな感覚は初めてだった。初めての経験だったからこそ自制ができなかった。


「なにしてんだよ」


 絞り出すように出た言葉はあまりにもか細く、しかしそれが恵に伝わっているかどうかなど考えていられない。


「ん? おう来たか」


 そう言いながら振り向いた恵は、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔が鬱陶しく、神経を逆撫でするようだった。


 気持ちが制御しきれない。目の前にある光景が現実ではないかのような、そんな気さえしていた。


「なにしてんだって訊いてるんだよ!」


 叫んだ。口を閉じるとガチガチと歯が当たる。自分の顎が震えているのはわかっている。けれど止められない。


「ちょ、ちょっとどうしたの? ご両親にお線香でもと思ったんだけど、ダメだった?」

「なんで勝手にそういうことするの? 一言あってもいいだろ?」

「あ、え、うん。ごめん、そうだな。火を扱うわけだし、ここはお前の家だし、一言断るのが筋だったな。申し訳ない」


 深く、深く頭が下がっていく。土下座ではない。座った状態で、背中を丸めて頭を下げているのだ。土下座ではないからこその誠意だとでも言わんばかりだった。


 息が上がっているのを自覚し、二度三度と深呼吸をした。スーッと、頭から熱気が抜けていくような感覚があった。


「頭を上げてくれ。ボクも言い過ぎた。うん、ありがとう、父さんと母さんも喜ぶよ」

「次からは気をつける。本当にごめんなさい」

「いいから、頭を上げてくれ。で、線香が消えたら仏壇も閉じておいてもらえる? ちゃんと戻してくれれば文句も言わないから」


 顔を上げると、先程とは違う、凛とした女性の顔があった。こんな顔もできるのかと関心するばかりだった。


「言うとおりにしよう」

「じゃあ、ご飯にしようか」

「わかった」


 恵が立ち上がり、それを確認して光樹も部屋を出た。


「それと」と、光樹が部屋を出たところで言う。眉間にシワを寄せて「なに?」と言いたげな恵に続ける。


「もう、二度と線香は上げないで」


 彼女にそれだけを言った。リビングのドアを開けて中に入った。テーブルの上には作りたての夕食が並べられていた。他人が作った食事など久しく口にしていないなと考えていた。


 イスに座ると、なんだか脱力しそうになった。きっと久しぶりに大声を出したからだろうと決めつけた。


 肉じゃが、ホッケ、水菜のおひたし、味噌汁、白米。自分が作ったものでないと特に美味しそうに見えてくる。


 対面に恵が座り、二人揃って手を合わせた。


「「いただきます」」


 リビングには、つい十分前にはなかった堅い空気が敷き詰められていた。会話はない、目も合わせない、響いているのはバラエティー番組から流れてくる芸能人の声だけだった。


 居心地の悪さは感じていた。それが自分のせいであることもわかっている。だからこそどうしたらいいかわからない。他人を極力避けて、避けられて生きてきたから、対処の仕方を知らないのだ。


 口にしたじゃがいもは熱く、けれどとても美味しかった。この空気がもっと柔らかければ、笑顔でお喋りなんかできたなら、きっともっと美味しく感じるのだろう。


 指に力を込めた。箸が軋んだ。力を緩める。運が良くなっても、すべてが上手くいくわけではないのだと、光樹はこのとき初めて知った。

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