第3話
いつものように、けたたましく鳴る六つの目覚まし時計を一つずつ止めていった。頭を掻きながら上半身を起こしてドアの上にある壁掛け時計を見る。時刻は五時五十分。ベッドから降りて私服に着替えるのに五分もかからなかった。
眠りが浅く、どんな目覚ましでも起きられるのが自慢でもある。が、そのせいで熟睡できず常に寝不足だ。
昔は二階に部屋があった。いや、今でも二階の突き当りは光輝の部屋だ。でも今はこの家全てが光樹の部屋みたいなものだった。そして二階にあった自室は趣味の部屋となり、父が使っていた和室を寝室にしている。古い本が沢山置いてあり、物を置く隙間があまりない。それでも父の部屋を使うのは、この部屋の匂いが好きだからだ。古臭い書物の匂いを嗅ぐと心が落ち着く。
さっと着替えを済ませた。左手にスーツのジャケットを持って廊下に出た。
廊下に出るとリビングからニュースキャスターの声が聞こえてきた。誰がテレビを見ているのかはわかっている。
リビングに入るとコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。同時に目に入ってきたのは、ソファーに横になってテレビを見ている女性の姿。そう、鈴木恵と名乗った女性だ。
「起きたか、朝食は作っといてやったぞ」
ダイニングキッチンのテーブルの上には、焼き立てのトーストと目玉焼き、ブラックコーヒーにヨーグルト。バターといちごジャムも冷蔵庫から出してあった。
「ありがとう。恵さんはなにか食べた?」
家庭的な部分に面食らった部分もあるが、なんとか平静を保ちながらもイスに座った。
「同じものをもらったよ。ありがとうな」
「あ、ああ……」
どう返せばいいかわからなかった。確かに自分の家で、自分で買ってきた食糧だ。居候もさせているし礼を言われてもおかしくない。でも昨日の様子からみるにもっと横暴だと思っていた。横柄で粗暴だと思っていた。だから、昨日とのギャップに頭がついていかないというのが本音だ。
「それとベッドもありがと。ホントによかったの? お母さんの部屋使わせてもらっちゃって」
「ソファーで眠らせるわけにもいかないし。どうせ誰も使ってないから気にしないで」
「家主がそう言うんなら遠慮なく使わせてもらうけど、気に食わなくなったらいつでも言ってよ」
「じゃあ、嫌だと思ったら言うよ」
「おっけー、それでいこう。で、質問なんだけどさ、なんでこんな中途半端な時間に起きてくんの? 五時半とか六時じゃダメなわけ?」
「いろんな時間に起きて試してみたんだ。統計的にいくと、この時間に起きて会社にいくのが電車が一番空いてるから。できるだけ寝ていたいし、でもこれ以上遅くなると混んじゃうから」
「あー……大変なんだな、不幸体質は」
諦めたような声に、少しだけ申し訳ない気持ちになった。次の瞬間には「なんでボクがこんな気持ちにならなきゃいけないんだ」と思いながらコーヒーをすすった。
トーストをかじり、目玉焼きを口に含む。それらを食べ終わり、最後にヨーグルトの容器を空にした。
「あの」と、光樹が恐る恐る声をかけた。「ん?」と天使が振り向く。
「鈴木恵って言う名前、偽名だったりするんですか?」
素朴な疑問だった。それもそのはずである。天使というには古風で、普通の人間と同じような名前だからだ。
「偽名じゃねーよ、本名だよ。みんな同じように日本っぽい名前だよ、夢壊すみたいで悪いな」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。でもこう、やっぱり天使っぽくはないですよね。名前も、今の状況も」
「確かにな。天使つっても、人間とはあまり変わらない。仕事をして生活する。ただそれだけ。ただそうだな、人間に比べると人工は少ないな。だから人手が足りなくなることもある。安易に天使の数を増やすこともできないらしいからなんとも言えない」
「天使の世界もいろいろあるんですね」
「天使っていうのは各国にいる。人々の生と死を司る存在であり、人々を監視する役目がある。私は日本人を見守る天使なの。だから名前も日本人っぽくなってるし日本語も話せるってわけ。でも天使はマルチリンガルだから、私が海外に行っても通用する。人手が足りなくなったときに出張することだってある。そういうのも人間とそう変わらんだろ?」
「なるほど、確かに。名前とか仕事先とかは誰が決めるの?」
「日本でいくと大天使の山口エミル様よ。永遠のエイに、美しいのミに、流れるのルでエミル。今年で確か三百五十七歳だったかな」
永美流でエミル。なにが永遠に美しく流れるのか、主語はどこだろうと光輝は思った。
「ちなみに恵さんは?」
「女に年を聞くなよ。二十五だよ」
「あ、答えてはくれるんですね」
「神天使様が地球を治め、大陸ごとを超天使様が治める。各部署というか各国を大天使様が治める。で、日本で言うところの都道府県ごとに支部天使様が治める。私は平天使だから一番下だな」
「平社員と一緒なのかな。でも天使ってどうやって生まれるの?」
「神天使様が生むんだよ」
「神天使様にも伴侶がいるんだね」
「いや、人間とは違って天使に生殖器はない。それにそもそも人間でいう男がいない」
「女性しかいないんですか。それはそれで凄いような」
「まあ神天使様の趣味ってやつかな。男型の天使も作れることは作れるらしいぞ」
「なんかいろいろとガバガバな感じが」
「ちなみに人間とは違うから、子供は口から生む」
「それ生むっていうか吐くの間違いでは」
「わかってないなお前は、私たちは人間とは違うの。だからこれでいいの。納得はしなくていい、でも理解はしなさい。天使という存在がここにいる以上、これからアンタの常識を覆すような出来事も多くなる、かもしれないから」
「それはまた難しいことを……」
「慣れていけばいいさ。さて、そろそろ出勤しなきゃいけないんだろ? 行ってこいよ。この家は私が守ってやる」
「え? 仕事しないの?」
「私の今の仕事はアンタのマイナス要素を取り除くこと。でも簡単にはできないからアンタと一緒にいる。つまり、こうやって話をすること、傍にいることが私の仕事。私と一緒にいることでアンタの不幸がちょっとずつ浄化される。私の天使力で不幸力を吸い取って中和するの。私は衣食住が保証される。ウィンウィン」
「ボクもそういう仕事したいな……」
「うるせー、イージーモードだとか思ってないでさっさと行け。お前の居住区域に私がいる限り不幸は軽減され続ける。その代わり、天使としての能力を不幸体質軽減に全部つぎ込む。だから天使としての力は使えない」
そう言ったあとでテレビに視線を戻した。手で「しっしっ」と俺を追い払っているようだった。
どっちが家主かわからない。そう思いつつもカバンを手に取ってリビングを出た。家を玄関にかけてあったコートを羽織り仕事に向かった。家を出る時に腕時計を見る。六時十分だった。
住宅街なので通勤時や登校時間になれば人は多い。立地条件も良く駅に近いのでなおさらだ。しかし光樹が家を出る時間は早い。この時間から家を出るのは犬の散歩やジョギングをする人、あとは職場や学校が遠い人くらいなものだ。
光樹の家から駅までは徒歩五分、その間にスーパーもある。会社までは電車で二駅、時間にしてみれば三十分もない。始業時間は八時なので、このまま行けば七時過ぎには会社につくだろう。
人がまばらな駅で電車を待ち、いつも人が少なめな最後尾の車両に乗った。電車の中もまた人は少なかった。
近くの座席に座った。バッグの中から文庫本を取り出し、栞を挟んであるページを開いた。
通勤時はいつも本を読む。ジャンルなどは気にせず、その時に興味が惹かれた本を買って、バッグに入れておく。その本が読み終わったらまた別の本を入れておく。部屋の隅で積んである本は多いため、最近は買わないように努めていた。
学生の頃から読書家であった。一文一文を読み、自分の中で心の中で呟き、咀嚼しながら次の文に移行する。そのため文章を読む速度は遅めだ。自分でもわかっている。たくさんの本を読んでいる人と同じ数の本を読むことはできない。でもこれでいい。これが自分のペースなのだ、と言い聞かせていた。
ゲームや読書が数少ない趣味だった。どこかに行ったりすると良くないことが起きるからだ。小説や自己啓発本を読むのも好きだが漫画を読むのも趣味のうちだ。空いている部屋は光樹が買った本で満たされているが、その半分は漫画である。
休日の過ごし方は、ゲームをする、読書をする、パソコンでネットをする、プラモデルと作る。それくらいなものだ。運動不足にならないようにと、朝早い時間にランニングすることもあった。大体二週間に一度くらいのペースだ。ランニングをして、帰ってきたら腕立て伏せや腹筋などをして、シャワーを浴びてから少し休む。学生時代からその生活はほとんど変わっていない。
十ページほど読み進めたところで目的の駅についた。本をしまい、電車を出た。
会社もまた駅に近い。こちらも徒歩五分といったところだ。
コート姿の男女が増えてきた。触らぬ神に祟りなしと、できるだけ他人を避けて会社に向かった。
ビルに入って三階へ。宮間商事が彼の会社だ。本社は他県にあるのだが、営業所としてこのビルの三階に入っている。
オフィスに入ると、すでに課長がパソコンの前で仕事をしていた。課長以上は残業がつかない。そのため、早く仕事を終えて早めに帰りたいというのが仕事にも表れていた。
浅間準一。四十過ぎで三年前に課長になった。少しばかり顔の彫りが深く、けれど本人いわく生粋の日本人らしい。この会社でもちゃんと話をしてくれる数少ない人間だった。
「おはようございます」
頭を下げて言った。
「ああ、おはよう」
浅間はそう言いながらコーヒーを一口飲んだ。このやり取りもまたいつも通りだった。もしも課長が浅間でなかったら、光樹は駅から会社へは直行しなかっただろう。
自分の席に座りパソコンを立ち上げた。昨日のミスを修正する手立てを探すためと、自分の仕事を少しだけでも進めようとしたのだ。
発注数の確認、部品の品番を確認、図面や仕様書を開いて単価や必要使用数などを一から確認し直していった。
「伏瀬」
低く堅い声が飛んできた。
「は、はい!」
浅間を見た。右手を上げて「こっちに来い」と手招きしていた。
マウスから手を離して、小さく一度深呼吸してから立ち上がった。
焦ることはないと、ゆったりとした動作で向かった。動き自体は落ち着いているように見えるが、背中や脇や手のひらは嫌な汗で湿っていた。
「なんでしょうか」
デスクの前に立ち、右手でスラックスをぎゅっと握った。
「昨日のあれな、あんまり気にすんな」
「……え?」
「だから、あれくらいのミスでヘコむな。次気をつければいい。お前のことだ、何回も確認はしたんだろう。確認した後で誰かに呼ばれ、立ち上がる時に余計なキーを押した。それか誰かに改ざんされた。そう考えるのが妥当だろう」
「そうかも、しれません」
「部長はえらい剣幕で叱っていたが、あの人は単純に気が短いだけなんだ。お前が細心の注意を払って仕事をしているのは俺が保証する。その上であのミスだ、なにかあったと見るのが普通だろう」
「でも、自分のミスであることには変わりありません」
「それはそれ、これはこれだ。お前の仕事でミスが見つかった、それはお前のミスだ。でも俺はお前の良さをわかっている、つもりだ。だからなにかがあったのだろうと思った。それだけだ。これからもその調子で頼む。昨日のはもう処理してあるから別の仕事から入れ。ミスは少なくな」
浅間が口角を上げて笑った。強面という表現がピッタリな上司だが、無邪気に笑っておちゃらけることも少なくなかった。
「ありがとう、ございます……!」
深く頭を下げ、自分の席に戻った。涙が出そうになるのを、唇を噛んで必死に堪えた。いい上司に巡り合った。ちゃんと見ていてくれたのかと嬉しく思っていた。嬉し涙というものを、始めて経験した。
その日はいつもと少しだけ違っていた。やればやるほど仕事が進む。ミスなど一切ない。今までとやっていることは変わらないはずだが、トントン拍子で仕事が上手くいくのだ。
一つの書類を上げるのも二度三度と確認し、その上でもう一度最終確認をした。新規のメール作成も、他部署や下請け会社に対しての返信に対しても丁寧に確認した。同僚から流れてきた仕事も細かくチェックしてから自分の仕事に入る。いつもと同じ、いつものような仕事。しかし、いつもと違う。
自分のミスがなくなると他人のミスがよく見える。たくさん失敗してきたからこそ、同僚のミスもカバーできる。
一日だけで、光樹は他人から頼られることの嬉しさを実感した。他人のミスを修正したり、できうる限りの助言をした。それが信頼へと繋がっているのだとわかっているからだ。
二時間の残業のあとでバッグを肩に掛けた。駆け抜けていくようにして過ぎた一日。妙な達成感と責任感、なによりもやる気が満ちていく。
オフィスを出る際に課長のデスクを見た。「お疲れ様です」と、少し大きめに挨拶をする。課長は微笑み「ご苦労さま、明日も頼む」と手を上げた。弛緩していく頬を隠すように、足早にオフィスを出た。
今日の仕事内容を思い出すだけで顔がニヤけてしまう。今までは人の足を引っ張ることしかできなかった。誰かに助けてもらうことでしか仕事ができなかった。そう思っていた。けれど違う。よくよく実感してしまった。自分が今までやってきたことが間違っていなかったことに。
会社から家までの間、半ば惚けるようにして移動を続けていた。信頼される余韻だけではない、こうなった原因を探し、見つけたからだ。
鈴木恵。天使と名乗った謎の女性。自分の不幸体質を治してくれるという彼女の存在が、もしかしたら自分を助けてくれたのではないか。いや、もしかしたらではない。
昨日、恵を連れて帰ると買い物袋が盗まれていなかった。朝起きた時に、六つある目覚ましが一つも壊れていなかった。家から会社までの間に事故らしきものもなかった。仕事も上手くいった。こんな日は今までなかった。生まれてからずっと、こんな日を経験したことがなかった。
ウキウキとした気分が身体の外へと溢れてしまう。知らずの内にスキップを踏み、それに気付いて足を止めた。深呼吸をしたあとで、穏やかな歩調で歩き始めた。それでも顔がニヤけてしまう。ボクだってやればできるんだ。そんなことを思いながら帰路を急ぐ。理由は一つ、ある人物に礼を言わねばならないからだ。
まだ恵のおかげだと決まったわけではない。それは光樹もわかっている。しかし、今までに味わったことがないこの高揚感を噛みしめると、本当に彼女のおかげなのではないかと思ってしまうのだ。
光樹は不幸な目に遭い続けながらも人も、誰かを、なにかを信じることをやめなかった。素直で、とても優しかった。
ある人が、光輝のことをこう評価したことがあった。
「鈍くさいし、妙に運悪いし、冴えないし。でも、すげー良いやつだってのはよくわかった」
他にもその人だけではない。たくさんの人から「いい人」や「優しい人」と評価されてきた。それが本心からの評価であれば嬉しいなと、そう思いながら生きてきた。
他人をあまり信用してこなかった光輝だが、褒められることは嬉しかった。だから今でも覚えていた。
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