第2話

『一、天使をパートナーとして認めること。しかし同意なき性交渉は認められない。

 ニ、三度の食事、二度のおやつを与えること。

 三、一日五百円の小遣いを与えること。

 四、ベッドが一つしかない時は天使に譲ること。

 五、天使を常に連れ歩くこと。(風呂トイレ就寝は別でOK)

 六、ワガママを言って天使を困らせないこと。

 七、任務遂行の間、天使の居候を承諾すること。』





 と書いてあった。


「いろいろとあり得ないでしょ! まともなの最初と最後だけですよこれ!」

「どこがおかしいんだ? 私のことを一人の人間として認めろと言っているだけだ」

「いやいやいや! 人間じゃなくてダメ人間として認めろって言ってるようなもんじゃないですか! それに任務の期間も書いてないし!」


 空中から契約書や万年筆を取り出したことを考えると、少しならば人外のなにかと認めてもいい。しかし彼女が天使である、自分の不幸体質を矯正するために来たとは考えられなかった。


「天界から持ってこられるお金が決まっててな、居候でもしないとやってられないんだ。それに私と一緒にいれば不幸じゃなくなる。むしろこの不幸体質を天使力で吸い取るのが目的だから、居候をしないと意味がない。期間は特にないんだな、お前の不幸体質が通常に戻るまでだな」


 ほぼ無期限、と言われているようなものだった。


「恵さん的にはいつまでいるつもりなんですか?」

「だから、お前の不幸体質が改善されるまでだってば。まあ一ヶ月は最低でも必要だな」

「最長だと?」

「こういう任務で一年とかは結構あるらしいし、最悪の場合は五年とか十年とか」

「さすがにそれはちょっと……」

「でもお前、このままだと彼女もできなければ仕事も辞めなきゃいけなくなるかもしれないんだぞ?」


 そう言われるとなにも言えなくなってしまう。暗に時間を犠牲にしなければいけないということであり、その犠牲にした時間がなければ先に進めないということでもあった。


「とりあえずそれは置いておきましょう。それが本当だとして一緒に暮らすのはいいです。でもおやつだとかベッドを譲れとか完全にそっち側のワガママじゃないですか!」

「ベッドは別に何個もあれば譲らなくてもいいんだってば。やすい代償だろ。それでお前の体質が治るなら」

「そもそも治るって保証がないじゃないですか」

「じゃあ聞くが、隠してあった買い物袋、普段ならどこかの浮浪者に盗まれていてもおかしくないんじゃないか?」

「それは、そうですが」


 実際そういったことは何回かあった。電話に出るためにカバンを地面に置いて、その瞬間に置き引きにあったりもした。ロッカーに荷物を入れておいたら、鍵が壊されて中身だけ抜かれていたこともあった。


「今現在、私と出会ってから特に不幸な目に遭ってないよな?」

「まだ出会って間もないからですよ。不幸な出来事が起きてないだけです」

「頑なだな。なよなよしてる優柔不断なヒョロ男かと思ったけどそうでもないみたいだ」

「相変わらずヒドイ評価ですね」

「実際そう思ったんだから仕方ない。でもな光樹、私は行く宛がないんだ。そんな女を放り出すのか?」


 天使は立ち上がった。後ろ側のポケットから財布を取り出し、それを投げてよこした。


「財布を預ける。ちなみに他にはなにも持っていない。身体検査をしてもらっても構わない」


 両手を上げ、バンザイとも降伏ともとれるポーズをする彼女。しかし眼光は鋭く、まるでこちらを試すような眼差しだった。


 そして、ニヤリと笑う。


 財布を開けた瞬間、ちょっと待てよとその手を止めた。


「ボクの名前、なんで知ってるんですか?」

「ストーカーとかじゃないぞ。学校なんかが一緒だったわけでもない。伏瀬光樹、二十九歳、好きな料理はオムライス、嫌いな食べ物はセロリだけど食べられないものはない。最も幸運だったことにアレルギーも今のところなし。運動は苦手でもなければ得意でもない。特技は編み物とタイピング。大学には二回落ち、大学でも二度留年。今はフリーだけど過去にいた恋人は一人。両親は五年前に他界。一軒家に一人暮らし。出そうと思えばまだ出てくるけど、これ以上の個人情報が必要か?」


 喉が鳴る。


「そんなの、興信所ででも調べてもらえばわかることじゃ――」

「じゃあ小学校の頃にいじめられていた記憶でも掘り返すか? どんなイジメを受けていたのか、それも一個一個答えられるぞ」


 ツバを飲み込み、目を閉じた。


「いえ、結構です」


 下を向き、下唇を噛んだ。思い出したくない記憶だからだ。あの頃には戻りたくない。二度とごめんだと本気で思っているからだ。


「認めなくてもいい。ただ、私がお前の個人情報を持っていることは忘れない方がいい」

「そんな脅しみたいなこと言って、それこそ天使がやることじゃない」

「純白の翼をつけた清き乙女って? そりゃ幻想だ。あれは鳩とか白鳥の翼だろうに。まあなんだ、人が作った理想があるから、私たち天使はこういう活動ができるわけだけどな。で、財布の中は見なくていいのか?」


 促され、仕方なく財布の中を物色する。


 現金は五万円、小銭は無し。クレジットカードもなければ免許証もない。店でもらえるようなポイントカードも、レンタルビデオ屋の会員証なんかもない。


「お金しか入ってないじゃないか」

「五万しかもらわなかった。特に私は居候する場所があったし、個人情報も必要ない。そういうことだろうよ」


 真実には値しない。こんなものどうとでもなる。自分の個人情報だっていくらでも調べられるし、イジメだって典型的なものを列挙していけば当たるに決まってる。


 だが、信じてみたいという気持ちもあった。不幸な体質に苦しめられてきたからこそ、なんとかしてくれるのならばと考えてしまった。


 額に汗が滲んできた。鼓膜と心臓がくっついてしまったのではと思うほど、それくらい心臓の音がうるさかった。


「大丈夫だよ」


 顔を上げると、そこには天使の笑顔があった。人を見下すような、弄ぶような笑みではない。目尻を下げた柔和な笑みだった。


「信じろっていうのは難しいだろうさ。でも私は本気でお前の体質を治そうと思ってるんだよ。童貞の相手はゴメンだが、任務はきっちりこなしたい。明日から休日だろ? だったら私を縛り上げて、お前は一日家にいればいい。食事とトイレだけなんとかしてくれればそれでいいさ。できれば身体を拭いてくれるとありがたいけどな」

「それ、本気で言ってます?」

「誓ってもいい。だから私と一緒にいろ」


 真摯な瞳に射抜かれて、少しずつ心が溶かされていく。今まで不真面目な態度だったというのに、どうしてこんな気持ちになるのかと不思議に思う。しかし今自分の中にある「この女性を信じたい」という気持ちが事実である以上、彼女が言うように縛り上げてでも一緒にいるべきなのかもしれない。


「本来ならな、安易に人を信じるなと言いたいんだ。それはお前の悪い癖だし、そのせいで被った被害もあるだろう。だが、そんな出来事がたくさんあってもお前はひねくれなかった。お人好しなのは良いことでもあり悪いことでもある。まあ、私はそういうところ、嫌いじゃないぞ」


 へらへらとしながら彼女が言う。


「ボクがボクでいられたのは両親がいたからだ。自分に誠実であれ、他人に真摯であれ。優しさは自分を救うための貯金だ。しかし優しさは装うものではない。だから、アナタはそのままでいなさい。それが両親の言葉だから。そういう言葉をかけられて育ってきたんだ」


「それだけじゃない。きっとお前の人間性なんだろうな。だからほら、これを書いてくれ。私の生活のためでもあるからなこれは」


 確かに彼女のことは信じたいが、この契約書にサインをすることには抵抗がある。このサインが悪事に使われるのかもしれない。今までの不幸を考えれば当然だ。逆に今まで借金を背負わなかったことこそが幸運なのだから。


「それを言われると、ちょっと」

「早く書けほら。いっちょまえに戸惑ってんじゃないよ」

「いやでもですね」

「優しく言ってる間に、な?」

「その言い方ってあんまり良くないやつでは?」

「優しく言ってる間につってんだろ?」

「はいっ」


 両肩を掴まれ、思わず返事をしてしまった。気圧されたと言ってもいい。


 結局その場でサインをすることになった。サインをした契約書はすぐに消えてしまった。まるで空気に溶けてくようでもあり、燃えカスが天に上るようでもあった。


「うし、これで契約完了だ。今日から馬車馬のように使ってやるから覚悟しろよ」


 最初に出会った時と同じだった。口角を上げた笑いと見下したような視線。


 思わず頭を抱えてしまいそうになる。本当にこれでよかったのか、と。


「そう暗い顔すんなよ。ちゃんと仕事はするからさ。あの契約書は本物だし、逆に仕事しないと私のお給料も下がっちゃうからさ。まあそのお給料ってのは、人間と違って単純に天使の格を上げるためのものでしかないんだけどさ」


 背中をバシバシと叩かれるも、反応する気も起きなかった。


 本当にこれでよかったのか。咀嚼はできるが飲み込めない。疑問がノドにつかえたまま、背中を叩かれても食堂を通ることはなかった。


 天使と名乗る不思議な女性との共同生活が始まってしまった。わかることと言えばそれくらいで、これからどうなるかなど予想もできなかった。


「よろしくな、伏瀬光輝。私の名前は鈴木恵だ」

「はい、よろしくお願いします、恵さん」


 差し出された手を握った。小さく、細く、柔らかかった。その温かさは、光輝の心を少しだけ安心させた。

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