第1話 〈伏瀬 光輝〉
今日も失敗してしまったと、光樹は肩を落として帰り道を歩いていた。今日は金曜日。明日から休みだというのに心は晴れなかった。
大学を卒業し、今の会社に入社して三年。同期はみな業績を上げ、上司に好かれ、順調に昇格や昇給を始めている。順当に給料を上げ、会社からの信頼を得ている。
そんな同期を見て焦る気持ちはあった。けれどどうやっても上手くいかず、失敗ばかりが足を引っ張る。いや、仕事場で足を引っ張っているのは光樹自身だった。
失敗など、したくてしているわけではない。確認はちゃんとするし、リスクヘッジは誰よりも慎重に行ってきた。そこには自信があるし、ちゃんとミスを減らす努力はしてきた。
そう、努力だけはずっとしてきた。生まれてからずっと、自分に生まれつきある不幸を知ってからそうしてきたはずだった。
下請け先への部品の発注を任された。自分の不運を理解しているからこそ何度も確認した。それなのに、ゼロが二つも多くなってしまった。幸いだったのは単価が安かったこと。それでも係長や部長からの雷に、このまま心臓が止まるのではとさえ思った。怒られることには慣れているが、他人に迷惑をかけてしまったという自責の念にはいつまで経っても慣れなかった。
ノミの心臓、臆病者、ビビリ。学生の頃から言われ続けてきた。口癖は「ごめんなさい」「すいませんでした」だった。
同じく「ボクじゃない」「全部ボクに押し付けないで」というのもよく口にしていた。だから、卑怯者や言い訳大王という名前も一部では流行っていた。誰かから聞いたわけではなかった。学校にいれば嫌でも耳に入ってきてしまうのだ。
小学校、中学校でも不運がつきまとった。ガラスを割っても光樹のせい。なにかが盗まれると光樹のカバンの中に入っていた。しかしなにもしていない。心根が優しく臆病者だからだ。しかしそんなことが続けば問題児だと後ろ指を差される。当然のように友達もいなくなった。同級生も教師も、光樹のことを厭わしく思った。
高校に入ればなにかが変わる。そう思っていた。でも現実は厳しかった。自分も、周囲もなにも変わらなかった。変わるような予兆もなかった。
身に覚えがない罪を被らされたことも一度や二度ではない。不良たちが吸ったタバコを見て見ぬふりできず注意した。殴られ、蹴られ、あまつさえそのタバコを吸ったのが光樹ということになってしまった。やはりそういった事情が重なり、学校内での心証はかなり低くなっていった。
『アイツに関わると大変な目にあう』
そんな噂もまた孤立する材料としては充分だった。
膝を抱えながら「死にたい」と口にするようになった。布団を目深に被り、ベッドの中で毎日泣いた。どうして自分ばっかりがこんな目に遭うのだろうかと、両親を恨んだことさえあった。
だが両親には「生きていればいいことがある。今は耐えなさい」と言われた。両親のことは好きだった。憎しみはあったが、それ以上に尊敬や愛情があった。
光樹はめげなかった。泣いた後でちゃんと立ち上がった。きっと大学に入れば変わるのだと必死に勉強した。部活もしない、青春なんてものは夢のまた夢だった。
大学に入るために二浪した。学力が伴わなかったわけじゃない。二回ともインフルエンザで家から出ることさえもできなかった。三回目は普通の風邪だった。が三十九度を超える高熱は光輝の頭を蕩けさせた。強い解熱剤を飲んで無理矢理受験した。点数はギリギリだったがなんとか合格した。
大学では二年から三年に上がるときに一度留年。三年から四年に上がる際に一度留年。合計二回留年した。不運に不運が重なり、講義に出られない時間が多かった。書いたはずの論文が忽然と消えたこともあった。
そんな彼だが、恋人がいたこともある。大学で告白されて一回だけ付き合った。が、一ヶ月も保たなかった。彼女は「もう我慢できない」と、光樹の元を離れていった。それもまた、彼が生まれながらに持った不運のせいだった。
食事に行けば毎回虫が入っている。遊びにいけばアイスやジュースを持った子供に体当たりされる。町を歩けばペンキや汚水などを頭から被る。光樹が一緒にいるときにだけ起きる事象だからこそ、彼女は彼の元から去っていった。
一時期は胸が高鳴り、これからたくさんの思い出を作っていくのだろうと期待に胸を膨らませていた。それが一ヶ月で終わってしまった。運に見放される辛さには慣れたつもりだった。それでも、人に見放されるのは慣れなかった。
ため息をつきながら夜の街を歩く。商店街にならぶ商品は冬物から春物へと変わっていた。食品も衣服も季節の移り変わりを物語っていた。日に日に気温が上がっている。ジャケットの下にベストを着なくてもいいほどだ。
歩きながらまたため息をついた。
ため息は止まらない。どうして失敗してしまったのか、自分のなにがいけなかったのかと、自分の行いを振り返りながらスーパーに入った。
冷蔵庫の中にはなにも入っていない。基本的に自炊をする光樹にとっては死活問題だった。出かける回数を減らすために、一回の買い物を多くする。それでも消費されていくものだから、買い足さないわけにもいかなかった。
カートにカゴを乗せてスーパーの中を歩く。半額になっている合い挽きのひき肉やバラ肉、ネギ、キャベツ、ほうれん草、レタス、キュウリ、トマトなどをカゴに入れた。肉や米は冷凍すれば長く保つ。
食パンとシナモンシュガー、それに蜂蜜も。甘党である光樹は、腹が減ったときにトーストを焼いてバター、シナモンシュガー、蜂蜜をかけて食べる。カロリーや糖分は高いが、太らない体質であることが幸いだった。
他には朝食用の菓子パンにインスタントコーヒー、スポーツドリンクや牛乳なんかををカゴに入れる。キャッシャーを通し、ゆっくりとした足取りでスーパーを出た。
大きなビニール袋を二つぶら下げて歩く。重いことは重いのだが、家が近いので奥歯を噛んで耐えた。
商店街から少し離れて住宅街へ。何度か角を曲がり、角にある一軒家の前でビニール袋を置いた。カバンの中から鍵を出そうとする。が、見つからない。
カバンの中はもちろん、カバンの外のポケットもまさぐった。コートの外、内側のポケットからティッシュやガムなどを出して確認した。ズボンのポケットにも手を突っ込んだ。
だが、キーケースの感触も金属の感触もなかった。
キーケースにはチェーンをつけていたはずなのに、いつの間にか切れていた。
「もうホント……」
どこに忘れてきたのかと、自分の行動を振り返った。
会社を出たときにはあった。電車に乗るときと降りるときにもあった。スーパーで財布を出したときも確認したはずだ。財布も鍵もスマフォも、なくさないようにと逐一確認するようにしている。それでもなくなってしまう。
「なんでこうなっちゃうんだ……」
頭をガリガリと掻いてから、一度だけ深呼吸をした。
一度メガネを外し、鼻根を揉み込んだ。この眼鏡も二十個目かとため息を吐いた。
庭の方に周り、道から見えないところにビニール袋を隠した。カバンを肩にかけ直し、もう一度家を離れた。
暗くなり始めていたため、少し急ぎ足で道を戻る。地面に落ちていないかと下を見て歩く。
しまったと、前を見た。
そのときちょうど目の前を車が通った。心臓が口から飛び出るかと思った。しかし、こういう危険は今に始まったことではない。幸いにも交通事故に発展したことはないが、危ない場面には何度も遭遇してきた。なにかに集中するとそれしか見えなくなってしまうというのもある。自分のことをわかっているからこそ、ときに思い出して前を向くようにしていた。
ため息を一つ。左右を確認してから道路を渡った。
一軒家が連なる住宅街を歩く。暗く心もとない。しかし鍵を見つけなければ家に入れない。自分の不幸を自覚しているからこそ、鍵を落としたままにできないのだ。このまま放置すれば空き巣に入られること間違いなしと考えている。
道路を隅々まで見て確認した。黄色い人工皮のキーケースなのですぐ見つかると思った。が、どこにもなかった。
胸の奥底で、黒い感情が沸々と湧いてくる。諦めていたはずなのに、不幸に遭う度に「どうして自分だけなんだ」と考えてしまう。「どうして自分だけなんだ」と境遇を呪わざるを得ない。
自分の出生を、自分の人生を否定したくなる。
住宅街の中にある小さな公園にさしかかった。そこで、思わず立ち止まった。
「なんでなんだよ……」
拳を作り力を込めた。痛いほどに奥歯を噛みしめる。
「なんで、ボクなんだ」
目蓋を強く閉じた。思わず涙が出そうになった。このまま諦めて家に帰っても家は開かない。見つけなければなにもできないのだ。
「なんで、なんでなんだよ……」
血が出そうなほどに、手のひらに爪を突き立てた。そうでもしなければやっていられなかった。
「そりゃそういう星の下に生まれたからだ」
凛とした女性の声が聞こえてきた。聞こえてきたというよりも、飛んできたという表現の方が正しかった。完全に、自分に向けられた言葉だからだ。
公園の方からだと、顔を上げて右を向いた。
「誰……?」
暗がりから誰かが歩いてくる。街灯の角度のせいでつま先から頭まで、とまではいかない。歩みを進めるたびにその姿が少しずつ見えてくる。
吸い込まれるようにして、光輝は公園の中に入っていった。
外灯に照らされてその姿が露わになっていく。
新品同様の白いアンクルストラップサンダル。
スラリと伸びた長い脚。
薄い水色のクオータースキニーパンツ。
袖や襟に赤と黒のチェックが入った白い長袖のブラウス。
最後に顔が見えた。髪の毛はボブカットで、内側に少しばかりのシャギーがかかる。顔立ちは可愛いというよりも美しい。鋭いが賢そうな目元。鼻梁が整っていて上向きの鼻。肉薄だが妙に色っぽい唇。顎は細く顔は小さかった。
彼女は光樹から一メートルほど離れた位置で止まった。片方の口角を上げ、ポケットからなにかを出した。
「そ、それもしかして!」
黄色い人工皮のキーケース。大きく、鍵がすっぽりと入る形状だ。鍵を入れてチャックを締めると、完全に鍵が隠れるようになっている。
「想像通り、これはアナタのキーケース。返して欲しい?」
「返して欲しいです! お願いします!」
一歩前に出て懇願した。失くした物が見つかるケースは稀だったからというのもあった。
彼女は長いため息を吐いた。
「元々自分の物なのにどうしてそう自信がないの? どうして返せくらい言えないの?」
「そんなこと言われても性格だから――」
「うるせーんだよモヤシ野郎! そんなんだからいつまで経っても不幸が治らなくて私がクソキモ童貞なんかの相手せにゃならんのだろうが!」
思い切り鍵を投げつけられた。咄嗟の判断だったが、両手で受け止めることができた。
「クソキモ童貞……ヒドイ……」
「事実だろ。なんで私が担当することになったんだか……」
シャツの襟元を掴まれ、次の瞬間には彼女の顔が眼前まで迫っていた。瞳に映る自分の顔が見えるくらいには近い。
思わず赤面した。ここまで近い距離に女性がいることなど経験がなかったからだ。そうなる前に別れてしまったからだ。
「私は天使だ。お前の不幸を治すためにやってきた。同時にその気持ちの悪い性格も矯正する。さっさと家に帰るぞ」
「天使って、いきなりなにを言い出してるんですか」
なにかの宗教なのかと本気で考えてしまった。あまりにも自信満々で、さも当然のように言い放ったからだ。
「お前、今頭おかしい奴だと思っただろ? 別に考えを読んだわけじゃない、顔にそう書いてある」
自分の顔に手を当てた。
「そ、そうですか」
「お前がどう思ってるかはこの際どうでもいい。ただし、私が近くにいることでお前の不幸が緩和されることだけは覚えておいた方がいい。詳しい話は家でしてやる。さ、行くぞ」
と、彼女は一人で歩き出してしまう。光輝を追い越して公園の外へ。彼女の後ろ姿はファッションモデルのそれで、つい見惚れてしまった。くびれからヒップのラインがとても魅力的に見えた。
「どこに行くつもりですか?」
「お前の家だよ、それ以外にないだろ?」
「ボクの家を知ってると」
「そりゃ調査してあるからな。おっと、警察に電話しようなんて考えるなよ? つってもできないと思うけどな」
ニヤニヤと笑う彼女を不審に思いながら、ポケットの中からスマートフォンを取り出した。壊れているわけではない。いろいろと操作してみるが変わった部分も見当たらない。圏外であること以外は普通だった。
「まあ圏外にすることくらいはできるぞ。壊したりはできないけどな」
「天使の特技にしちゃ地味ですね」
「お前、おどおどしてる割にはだいぶ突っ込んでくるな。とにかく行くぞ。心配するな」
「心配しないなんて無理でしょ。自分のことを怪しい人間じゃないって言う人ほど信用ならないと思うんですけど……」
「いいから来るんだよ。家の鍵、勝手に開けちゃうぞ」
「それは、困ります」
「なら行くぞ」
「は、はい……」
元より目つきが悪いため睨まれると逆らえない。光輝は光輝で凄まれると謝ってしまう。二人の性格が噛み合い、完全な主従関係ができつつあった。
よろめきながらも彼女の後ろをついて歩く。自分の家に帰るだけだというのに、知らない人の背中を追いかけるという不思議な気分を味わっていた。
「ボクはアナタのことをなんて呼べばいいんですかね」
「そうだな。普通に天使ちゃんでいいんじゃないか?」
「わかりました、天使さん」
「お前ホントムカつくな。いいよ、恵さんとでも呼んでおけ」
「恵っていう名前なんですか?」
「鈴木恵だ。でも今はお前の家に行くことが先決。口よりも脚を動かしなさい」
その会話を最後に、結局二人は会話をかわさなかった。
家に入り電気をつける。天使は茶の間にドカッと座り込んで「茶を出せ」と語調を強めた。光樹は当然「なんでボクが」と言うが、睨めつけられて従うしかなかった。
コーヒーを淹れて天使の前に置いた。知らない女の人、接点が持てないほどに美人な天使に懐疑心しか持てなかった。
天使はブラックコーヒーを一口飲み、カップをそっと置いた。
「説明はさっきした通りだ。お前の不幸体質改善のために天界から派遣されてきた。だからそういう顔をするな」
「そういう顔ってどういう顔です?」
「胡散臭い物を見る目だよ。同時に信じられないという顔だ」
天使が指を鳴らすと、空中に一枚の祇と万年筆が出現した。万年筆を難なくキャッチ。ひらりひらりと落ちてくる紙を指先で掴むと、テーブルの上に置いた。
「い、今の」
「マジックじゃないぞ。これは契約書だ。私と寝食を共にする誓約書。お前がこれを書いてくれないと私はここにいられない。まずは内容を読め」
契約書と書かれた紙を端から読み進める。
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