第四章⑩
「え?」
俺が何を言ったのか、一瞬理解できなかったのだろう。山本は困惑しながらも、俺に尋ねた。
「な、なら、何でニートを辞めたんですか?」
「……親が、交通事故で、死んだんだ」
「え……?」
俺が何を言っているのか理解したのだろう。だが、それでも理解したくないと、山本の顔が言っている。
だから、俺は無理やりにでも山本に理解させる。
「二人とも、死んだ。父さんも。母さんも……。脛をかじって、親の金を使って、ニートを続けられる時間が、俺は、もう、無くなっちまったんだよ……」
「そ、そんな……」
驚愕の表情を浮かべた山本を、俺は力ない笑みを浮かべて見ていた。
何をそんなに驚いているんだ。俺は既に、お前に言ったじゃないか。
「言っただろ? 俺は、未来のお前、だって……」
両親が死んだ後、ニートだった俺を引き取ろうとう親戚は、誰もいなかった。
生んだんだから、お前らが責任持って育てろといえる人は、もういない。俺は一人っ子で、兄弟もいない。天涯孤独の身となった
そして自分の両親にそんな言葉を吐き捨てられる穀潰しを、一体誰が引き取るというのだろうか?
両親の葬式が終わる前から始まった、俺の押し付け合いをする声を聞きながら、俺は呆然としながらも、自分が逃げ込んだ楽園からも追い出されたのだと悟った。
逃げ込んでいたあの場所すら、俺を裏切ったのだ。
そんな中、ある男が俺を引き取るという話になった。男は農家を継いだはいいが、嫁もおらず、人手が足りないというのだ。他の親戚は一にも二にもなく賛同した。
それを聞いて、俺は気付かれないように式を抜け出した。俺を引き取りたいと言っていた男が、男色だと親が亡くなる前から聞いていたからだ。そしてそのことを、他の親戚も知っていた。
そして俺は、警察署に逃げ込んだ。両親の事故を担当していた、交通課がある警察署だった。
俺にとって不幸中の幸いは、丁度その年に特別国家公務員法の前身となる、低所得者自立支援法が施行されていたことと、俺がその法律の適応、応募条件を満たしていたこと。そして、それを交通課の人が教えてくれたことだった。
特別国家公務員法のような強制力もなかったその法律を、当時あのニート生活がいつまでも続くと勘違いし、働く気がまったくなかった俺は知らなかったのだ。
そして親を亡くした五年前のあの日。
どうしようもなく、無理にでも自分で働いて、生きなければならなくなったあの日。
中学二年生から一年間引きこもり、十五歳となっていた俺は、低所得者自立支援法に応募し、当時最少年齢の特別国家公務員、特別国家自衛官となったのだ。
入隊当初は零等士から始まり、次の特別国家自衛官の階級である四等士、三等士、そして四曹士と、俺は五年間で階級を上げてきた。つまり、零等士、四等士、三等士、四曹士という階級は、正規の自衛隊の階級には存在しないことになる。特別国家自衛官のために新たに作られた階級なのだ。
だからこそ、俺のニート狩り部隊、第八特別国家公務員法周知・送迎隊は特殊なのだ。
立浪不動四等士。
アンリ・ゴメス三等士。
そして俺と同じ階級の、福留螢樹四曹士。
俺の部隊に所属している隊員は、全員低所得者自立支援法に応募した、元ニートなのだ。
そして特別国家自衛官だけで構成されているニート狩り部隊は、俺の部隊しか存在しない。他はすべて正規の自衛隊員で構成されている。
これが、脱走兵の第一号となった井上一樹の捜索に俺の部隊が適任とされた理由だ。同じ穴の狢。ニートには元ニートというわけだ。ひょっとしたら、上の人間は俺たちが裏切る可能性があるか試していたのかもしれないが。
俺の第八特別国家公務員法周知・送迎隊が問題児扱いされているのも、元ニートだらけで構成されているからだ。
特別国家自衛官になれば、好きな職に就けるチャンスがもらえる。だが、俺たちはここに好きで残った。螢樹だけは最後の従事期間として俺の部隊に配属されているが、このまま行けば正規の自衛隊員になる予定となっている。ニート狩りの風当たりを良くするため、元ニートから自衛隊に編入した初めての女性隊員として広告塔になってもらいたいという、上の考えが透けて見える。
三人がニートになった理由も様々だ。
螢樹は過去に中絶を行い、子供が埋めない体になっている。その相手は、当時付き合っていた彼氏。螢樹の妊娠を知り、姿をくらませた。後に彼氏が隠れオタクだったことが発覚する。
不動は元SEで、ライバル会社へ不正アクセスを行い会社をクビになった。不正アクセスを行った理由は、当時の上司に頼まれたから。上司は妻子もちで、不動とは不倫関係にあった。
アンリは自分の両親に裏切られ、日本に亡命してきた。在露アメリカ合衆国大使である両親のいざこざに巻き込まれ人質になった時、親が犯人側の要求を飲まなかったため薬漬けにされた上、レイプされた。アンリは最後まで、両親が助けてくれると信じていた。
彼女たちと俺が始めて出合った時、全員世界を、他人を、そして何より自分自身を呪う目を、俺と同じ目をしていた。
自己嫌悪をしている相手の前に自分と同じような人間が現れたら、当然反発する。
自分が自分自身を完全に否定しきることは難しい。自己の完全否定を行えば、自分という存在が消えてしまう。それならそれで、彼女たちは自分自身が消えることを受け入れたかもしれない。
だが自分自身を消し去る前に、世界で一番嫌っている自分(俺)が目の前に現れた。彼女たちの自分自身を否定する代替品が、俺だった。それは、俺にとっても同じだった。
俺たちは自分自身を否定するように互いを嫌い、傷つけあうためだけに互いを求め合った。
それでも、どうにか彼女たちは、俺は、『仲間』は歩き始めた。異性の話題を、俺を使いながら冗談として話せるようになるところまで、肩を互いに貸し合いながら生きている。
だが、それを山本に話したところで、彼の心は動かない。それはあくまで自分以外の人の話で、彼には関係ないことだからだ。同じニート同士でも、彼にとっては、『暗闇』と同じだ。
だが俺は、それでも言う。
親が死に、どうしようもなくなってしまった、山本の未来の姿である、俺は言う。
「頼むから、働いてくれよ、山本。そこに道は、もう、ないんだよ……」
どうしても働けないのなら、生活保護を受ければいい。本当に必要な人は、特別国家自衛官の従事期間が終われば生活保護の審査も通りやすくなっている。
特別国家公務員法は、元々少子化対策の法律だ。国としては、早くから子供を作り、育ててもらいたいという狙いがある。だからこの法案の適応年齢、ニートと呼ばれている間に、ニートたちに社会復帰してもらいたいのだ。それは、日本という国がこの年齢に注力し、社会復帰をサポートするということだ。
逆を言えば、それを過ぎれば、国は何もしてくれなくなるということだ。国に、見捨てられるのだ。
だから俺は、今年三十四歳になる脱走兵の顔だけは覚えていた。特別国家公務員法が適応される、最後の歳だから。
それが過ぎた後の、ニートを、引きこもりが続けれなくなる、誰からも見捨てられたその瞬間を知ってしまったから。
でも。
「でも、お前は、まだ大丈夫だ」
「な、何が大丈夫だって言うんだ!」
「お前には、まだ親がいる」
「っ……!」
「お前は、一人じゃない」
だからまだ、大丈夫なんだ!
「お前はまだ、誰かと一緒にいていいんだ」
「は、働かなくたって、外に出なくたって、ネットを使えば、だだだ誰かとつながれる! 一緒にいられるんだっ!」
「でも、それじゃ寒いだろ……?」
「さ、寒い?」
「熱。伝わって、こなかっただろ?」
「何を言って……」
「引きこもっている時、寒さを感じなかったか? 誰かの暖かさが、温もりが欲しくなった時はなかったか?」
「それはっ……」
「……俺は、寒かったよ」
俺がニートだった時、引きこもっている時、突然全裸で真冬の海に放り出されたような、そんな痛みを持った寒さを感じる時があった。
部屋の気温は別に高くない。引きこもっているのだ。夏はクーラーが、冬は暖房が効いて部屋の温度は常に快適。
それなのにもかかわらず、震えが止まらなくなる時がある。
漠然とした不安が、突如として俺を襲うのだ。この先の、自分の未来という『暗闇』が、俺を襲うのだ。
いじめられ、そして自分の部屋へと逃げ込んだ俺は、自分がダメ人間だと理解していた。このまま何もしなければまずいことになると分かっているのにもかかわらず、何も行動しないのだ。俺は、自分で自分のことを諦めていた。
だから、常にこう考えて、くさいものに蓋をしようとしていた。
もう自分は、どうしようもなく終わっている。
俺は自分の未来を、諦めている。
こんなどうしようもない自分は、もう死んでいくだけなんだと理解している。
理解しているのに。
ゆっくり終わりに近づいている恐怖が、蓋の隙間から零れだした腐臭が、俺の心臓を、掴んで離さない。
脈を打つ度、心臓が締め付けられている気がする。
不安が俺の心を蝕んでいく。
パソコンに向かい、ニュースサイトを眺め、ネットにくだらない書き込みをしていると、突然そんな状態に、アレが、襲ってくるのだ。
諦め切っているのに。
もうダメだと認めているのに。
自分がゆっくり死んでいくのを感じるのが、怖いのだ。
そしてそれを打開するためには自分で行動しなければならないのに、何も行動しない自分がいて、さらに自己嫌悪で死にたくなるのだ。
ここ(自分の部屋)が楽園などではないと、薄々気が付いていた。
ここ(自分の部屋)は、墓場だ。
『暗闇』が、また襲ってくる。
寒い。
寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒いっ!
止めてくれ!
この震えを止めてくれ!
この寒さを温めてくれ!
凍える体を抱きしめてくれ!
もう無理なんだ!
くだらない書き込みをしていれば紛れていた不安を、今はもう振り払えない。いつしかこの震えはネットでは誤魔化せなくなっていった。同じような境遇の書き込みがあったとしても、俺の体を温めてくれる人なんてどこにもいない!
当たり前だ。ネットの世界なのだ。
その書き込みを指でなぞってみても、そこから感じられるのはディスプレイの熱と、その事実に気づいた虚しさだけだった。
そして余計に、寒さを感じるのだ。
「俺も本当は気づいてたんだ。自分が逃げ出してるだけで、そこに逃げ込んでも、もうその先は行き止まりなんだってことに……」
そして実際に、俺は行き止まりに、『暗闇』に追いつかれた。両親の死によって。
ニートはもう、続けることが出来なかった。
「だ、だったら、死ねばいいだろ」
山本は、言った。
「ニートを、続けれないなら。もう生きていけないのなら、どうしようもなく追い詰められて、身動きが取れないなら、自殺すればいいだろうがっ! それしか、もうそれしか残ってねぇだろうがっ!」
山本は、目の前に突きつけられた現実を拒絶するように、首を振った。
拒絶した。
ニートでいられないのなら、そうしなければいけないのならと、世界を拒絶した。
自分の生すら、拒絶した。
「出来るのか?」
「え……?」
でも、その顔は。
嫌々と、駄々をこねるように首を振るその顔は。
「死ねるのかよ。お前」
「……っ!」
城が波にさらわれたのを、砂浜の山が潰されたのを、拒絶する顔だった。
惜しんでいる顔だった。
理不尽さに納得できない顔だった。
出来るわけがない。
納得できるわけがない。
「何でお前が、俺が、ニートが、最後にそんな死に方(終わり方)しなくちゃならないんだよぉ……」
そうだ。死ねるわけがない。
自分が悪いわけではないのだ。
他の誰かに、こんな場所に、こんな境遇に、こんな『暗闇』の中に、押し込められたのだ。
「……俺も、死ねばいいと思ってた」
だが、それが出来るなら、最初に死んでいたはずだ。
何もせず、働かず、自分をこんな風にした相手と、こんな風になってしまった自分に耐え切れず、自己嫌悪で自殺したはずだ。
ニートにならず、死を選んでいたはずだ。
でも、俺たちは、ニートは生きている。
死ぬ? 自殺する?
バカだろ。アホだろ!
そんな終わり方、こんな理不尽、納得できるわけがない!
後ろ指差されたとしても、心に負った傷を抱えてでも。
俺たちニートは、ニートになった時点で、生きることを求めているのだ。
それが、俺たちニートの強さだ。たとえ誰かに後ろ指差されても、生きていける。
それが、俺たちニートの弱さだ。自分の傷を、一人で抱え込んでしまう。
自分の傷を抱きながら、生きていたいと願っているのだ。
それでも。
「それでも、どうしようもねぇんだよ、俺たちは。何も、ねぇんだよ……」
親が死ねば、金もなくなる。
ニートを続ける当てもない。
だからと言って、死ぬことも出来ない。
自分の生から、逃げることが出来ない。
そして俺は、追い詰められ続けた。
『暗闇』に。
あの寒さに。
逃げることが出来なかったし、あの寒さに耐えることも出来なかった。
俺は震えながら、一人で戦うしかなかった。
「だから、山本。俺の手を、取ってくれ」
俺は自分の血で濡れた右手を、弱々しく山本に差し出した。
その震え、真っ赤に染まった俺の手のひらを、山本は食い入るように見つめている。
「お前はこの絶望を、『暗闇』の中だけじゃなく、世界から本当に隔離されて、一人ぼっちになっちまう絶望を知る必要なんて、ないんだ。こんな絶望に、身を浸しちゃいけないんだ……」
お前は、まだ間に合うから。
「お前を、想ってくれる人がいるから……」
少なくとも、お前の為に税金を払ってくれる人がいるから。
俺にはもういないけど、お前の両親は、生きているのだから。
「だから、この手を取ってくれ……」
俺の、手のひらの熱を感じてくれ。
お前も、生きているんだと感じてくれ。
「俺と、一緒に、歩き出してくれ……」
血に濡れた、零れ落ちた俺の命を感じてくれ。
お前も、生きていていいんだと感じてくれ!
「……僕には、無理だよ」
震えた声で、山本は言った。
山本の本音が、零れ落ちていく。
「怖いんだ。もう一度歩き出したとして、歩き出したとして。でも、その結果、また僕は傷つくかもしれない。努力した結果が、実らないかもしれない。その結果、誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな無様な自分を、誰かが笑っているような気がして仕方がないんだ!」
山本は、怪我を負った俺のように、俺と同じくらいに震えていた。
「怖い。怖いんだっ! 何かが、背中から僕の心臓を鷲掴みにするんだっ! 怖くて、震えが、止まらないんだよぅ……」
山本は今、極寒の『暗闇』の中にいるのだ。あの時の俺と、同じように。
「あんたの言うように、寒くて震えが止まらない。寒すぎて、震えすぎて、一歩も踏み出せない。踏み出せないっ!」
自分の震えを押し殺すように、山本は自分を両腕で抱いた。
「だから僕は、マンガやアニメに逃げ込んだんだ。あそこなら、誰も僕を傷付けない」
それは当然だ。そもそも、傷つけようがない。
何故ならそこには、自分しかいない。
自分以外の、誰もいないのだから。
そして、そこに逃げ込む気持ちも分かる。俺も逃げ込んだから。逃げ込みたくなるから。
何故なら。
「助けて、もらえた気がするんだ。自分が一歩も踏み出せていないって分かっているのに、救われた気になるんだ」
今まで自分を包み込んでいた、傷つけてきた現実から、『暗闇』を忘れることが出来るから。
傷つけられ続けてきたため、傷つけられない状況になっただけで、それが自分にとっての救いになるから。
でも。
「でも、それが終われば、アニメを観終われば、マンガの連載が終われば、また現実が僕の目の前に現れる。僕を、不安にさせるんだ」
そして山本は、より自分の体を強く抱いた。あまりにも手に力を込めたため彼の指先が、爪が食い込み、そこから血が流れ出した。
「あれがないと、ダメなんだ。あれなないと、また恐怖に捕らわれる! 囚われ続けるっ! そしてそこからまた逃げるために、逃げた気になるために、アニメとマンガを摂取し続けるんだ。続けるしかないんだっ! 自分にとってアニメとマンガは、クスリなんだよ。麻薬なんだよっ! ないと不安なんだ。あれが切れると、あれがないと、あれがあれば、大丈夫なんだ。怖くない。寒くない。ような、気になれるんだ……」
山本は、泣いていた。
一歩も歩き出そうとしない自分になど、気にかける価値などないと。
歩き出して誰かの迷惑になるぐらいなら、歩き出したくなどないと。
頑張れない自分を、嫌っていた。
努力できない自分を、憎んでいた。
「努力なんて、頑張れば全て変えられるだなんて、言わないよ……」
努力したと言うには、努力すればいいだけだ。
頑張ったというには、頑張ればいいだけだ。
その行為自体に、結果は求められない。
今時マンガやアニメでも、努力は全て報われるだなんて、信じれば願いは叶うだなんて、謳っていない。
俺も、報われなかった。
願いが叶っていれば、背中の火傷は存在していない。
それでも。
「それでも、周りの人間が、せめて手を取るのぐらいは、許してくれ」
お節介ぐらい、焼かせてくれ。
「俺には、お前の手を取ることしかできないんだ……」
手で引くことしか、できないんだ。
「俺がどう頑張ったって、最初の一歩は、お前の一歩は、お前が踏み出すしかねぇんだよ」
「何で、歩かなきゃいけないんだよ。僕は、逃げたいんだよ。ここにいたいんだよ! 逃げていたいんだよっ!」
「だからもう、その逃げ場がねぇんだよっ……!」
「あるさっ! きっとどこかに、何かあるに決まっているっ!」
「だからねぇんだよ……。もう、そこは壁際なんだ。行き止まりなんだよ……」
現実に押され、『暗闇』から逃げ惑ってたどりつた、袋小路。
行き詰まり、どん詰まったこの状況では、取れる選択肢など、逃げ道など、二つしかない。
一つ目は、死ぬこと。自殺だ。だがこの道は、既に山本自身が否定している。死にたくない、生きたいとニートになった以上、その選択肢はありえない。
そうすると、自動的に道は一つに絞られる。
死ねないのならば、自殺できないのならば、道はこれしか残されていない。
それは。
「自分が進んできた方向にしか、道はないんだ……」
「今まで、僕が?」
「そうだ。今まで、自分が逃げ出してきた方向さ」
「でも、それはっ……!」
どうやら山本は、俺の言いたいことに気が付いたようだ。
山本は、袋小路に追い詰められている。
前には当然進めない。右も左も『暗闇』に囲まれている。
だとすると、後ろにしか道はない。
だが、その道には。
その方向には、あれがいる。
「自分をここまで追い詰めた、現実に向かっていくしか、道は残っていないのさ……」
そう。自分を追い詰めた相手が向かってくる、自分が逃げるために使った道しか、山本には残されていない。
自殺を選ばなかった以上、もう自分を追いつめた相手に向かって、歩き出すしかない。
そうしなければ、歩き出さなければ、現実はそのまま、山本を壁際まで追いやるだろう。
追いやって、押しつぶして、現実に、圧殺されるのだ。誰も見ていない、『暗闇』の中で。
これは、不条理だ。理屈に合っていない。
他の人が頑張っているからって、自分が頑張らなければいけない道理など存在しない。
他人が大変だからといって、自分もそれを共有する必要などない。
しかしそれでも、現実問題として、金がなければ生きていけない。
この国は、辛いことから逃げ出すのを許しはしないのだ。
だからこそ、これはチャンスなのだ。特別国家公務員法は、ニートにとって最後のチャンスなのだ。
頑張るのは、これで最後でいい。必要なプロセスなんだ。このプロセスを経ないと、国はもうお前(ニート)を見捨てる。
逆を言えば、ここで頑張れば、後は望んだものが手に入るのだ。
特別国家自衛官の従事期間を終えた後、そのまま仕事についてもいい。
最後に頑張ったけど、やっぱりダメだったというのなら、生活保護を受けてニートに戻ってもいい。
最後なのだ。社会に復帰できる。
たとえ社会に復帰できなくても、社会不適合者と言われても、生活していけるだけの金はもらえる。
ここで本当に、最後の、最終の、一生分の頑張りと努力をすれば、お前(ニート)の望むものが手に入る。
「だから、俺の手を取ってくれ」
そんなこと、頼まれていないけど。
「お前の手を、引かせてくれ……」
俺の手を取ってくれ。
俺の熱を感じてくれ。
誰かの熱を感じてくれ。
「お前が俺と同じ寒さを感じているのなら、その震えは、止めれるはずだ」
アニメやマンガがなかったとしても。
死んで止める以外にも、方法はあるはずだ。
一人になってしまうかもしれないという絶望に、片足を突っ込んでいるのなら。
「俺の手を取って、歩き出してくれ。その震えと寒さから、俺と一緒に逃げ出してくれ!」
一人じゃ歩き出せないのなら、二人で歩き出そう。
一人じゃ寒すぎるのなら、二人で寄り添おう。
一人じゃ『暗闇』が怖いなら、二人で話し合おう。
「……でも」
山本の目には、迷いが浮かんでいた。彼だって、生きていたいし、助かりたい。
だが、それよりも自分以外の誰かに迷惑をかけるのを怖がっていたし、恐れてもいた。
自分自身の劣等感が、俺の手を取るのを迷わせていた。
だから俺は、その迷いを振り払う。
「……俺がお前たちを狩るのは、俺が救われたいからなんだ」
「……え?」
「今ままで意味がなかった自分の人生に、ニートだった俺がお前たちを狩ることで、自分の人生に意味を見出したいだけだ。お前らが狩られた後どうなろうが、知ったこっちゃない。俺はお前を自分のために利用しているだけなんだ。俺が助かりたいだけなんだ。だから、さっさと俺に狩られろよ」
俺の言葉を聞き、山本は憤怒の表情。その目にははっきりと憎悪を宿していた。自分をニートになるまで追い詰めた相手と、俺が同じ存在だと認識したのだろう。
そうだ。それでいい。現実はそんなに甘くはない。非現実的ではない。
今の自分の境遇を救ってくれるような、『暗闇』の中から自分を救ってくれるような美少女が、突然自分の部屋を訪れることもない。俺が初めて狩った武司の部屋で見たアニメのような展開にはならないし、仮にそうなったとしても、ニートは部屋の外にはでない。自分を救うと言ってくれる美少女ですら、ニートにとっては理解の出来ない『暗闇』なのだ。
だからその『暗闇』に向かっていくために必要なのは、敵意なのだ。
絶対に許せないと。自分の目の前から消えてくれと、本気で思える、敵意であり、悪意。
そう。ニートに必要なのは、あいつが悪いんだと、お前のせいでこんなことになってしまったんだと言いきれる、『悪』なのだ。
『悪』が、必要なのだ。『必要悪』であり、『絶対悪』が。
武司の部屋で見た、主人公が『絶対悪』となったアニメ。あの話の最後で、主人公は死ぬべきではなかったと、今でも強く思う。
『必要悪』であった主人公は、最後まで生き抜かなければならなかったのだ。
『悪』が滅んでしまえば、一体その後人々は、誰に悪意を、敵意を向ければいいのだろう?
『悪』は、行き続けなくてはならない。
お前のせいでうまくいかないんだと。
お前のせいで失敗したんだと。
人々の悪意を、敵意を背負って、生き続けなくてはならないのだ。
だから山本よ。世界中のニートたちよ。
俺に、敵意を向けろ。
俺に、悪意を向けろ。
だが、俺一人ではお前たちの敵意を、悪意を背負いきれない時も来るだろう。背負ったとしても、俺が死んでしまえば、またその『悪』への向き先が失われてしまうのだから。
だから早く、ニート狩り部隊を恨め。
だから早く、ニート狩り部隊を憎め。
俺一人では永続的に、お前たちが『暗闇』に向かっていくための悪意と敵意を背負いきれない。しかし、たとえ俺が死んだとしても、都合が悪くなり上の人間に俺の首が飛ばされても、お前らの憎み、恨んだ対象は、ニート狩りという『組織』は消えはしない。
お前たちニートが消えない限り、少なくとも日本のニート狩り部隊(『悪』)はなくならない。
お前たちがいなくなるまで、俺たちはお前らが『暗闇』に向かっていけるまで、ずっと傍にいてやれる。
ずっと、『悪』で居続ける。
だから遠慮なく、俺たちのせいにしろ。向けろ。悪意を。敵意を。憎悪を。嫌悪を。
俺たちは、お前らが遠慮すべき存在なんかじゃない。
迷惑をかけろ。ぼろ雑巾のように使い捨てろ。
だから。
だから、気にせず俺を使え。
「お前たちを利用しているんだ、俺はっ! だから、お前たちも俺を利用してくれ! 俺を利用して、お前がお前自身を救ってくれっ! 俺を、助けてくれっ!」
俺は、『悪』なのだ。『悪』で、いいのだ。
「でも、やっぱり僕には出来ないよ! 僕みたいなのが外に出るなんて、誰かを救うことなんて、できっこないんだっ!」
しかし、そんな『悪』にすら気を使い、山本は俺の手を取るのを拒絶した。俺の予想通りに。
「……既にお前は、救っているよ」
「え、何? だ、誰を?」
「俺だよ」
呆けた顔で問いかけてくる山本に、俺は答えた。
俺は既に言ってある。山本と初めて会話した時に、言ってあるのだ。
そして山本はそれを既に、いや、今も実行中なのだ。
『すまん、山本。俺は今、怪我で、動けない。俺が意識を失わないように、死なないために、話相手に、なってくれ。頼む』
そのことを思い出したのか、山本の顔に、理解と驚愕の表情が浮かぶ。
山本は、彼自身が何かを成したという成功体験がないため、どうしても自分自身を信じることが出来ない。
ならばその劣等感を覆すだけの、成功体験を与えてやればいい。
例えば、誰かを、俺の命を救ったという強烈な体験があれば、山本には相当の自信になるはずだ。
一歩を踏み出すには、十分な勇気になるはずだ。
「だ、から……」
お前は大丈夫だ。そうつぶやく前に、視界がぼやけ始めた。流石にもう限界のようだ。
「まさか、そんな……」
「隊長っ!」
「ムヘン!」
山本のつぶやきと、俺を助けに来た螢樹とアンリの声を聞きながら、俺の瞼はゆっくりとしまっていく。
閉じ行く世界で、それでも俺は、はっきりと差し出した右手に、自分以外の熱を感じていた。
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