第二章⑤
俺は、ため息を付いた。
左肘を護送車の窓にかけながら、俺は後悔と共に景色が流れていくのを見ていた。
本当に、俺は何であんなことをしてしまったのか……。
後悔しているのは、井上家でのあの一件。本当は一度護送車に戻り、アンリや不動にも俺の推理を話して今後の対応を話し合うつもりだった。
だが、結果はご存知の通り。俺はその場で、一樹をダシにしてヒロイズムに浸る和枝の心を暴き立ててしまった。
でも、どうしても我慢できなかったのだ。
あの、自分が守ってやっているのだからその保護対象に自分は何をやってもいいと言っている様な、その身勝手で独善的な和枝の態度に、どうしても我慢できなかった。
最悪だ。部隊を預かる身でありながら、私情を優先させてしまった。
俺の推理が当たっていたから良かったものの、もし外れていたのなら完全に、特別国家公務員の名に傷を付けることになっていたはずだ。それだけではなく、俺の部隊の印象も上の人間から悪くなる。
俺は完全に冷静さを失っていた。もう少し冷静であれば、そこまで考えが及んでいたはずだし、あんな凡ミスをすることもなかったはずだ。
もう一度ため息を付き、俺は助手席から運転席に座っている、不機嫌になりすぎて無表情になった不動の顔を盗み見た。
「……何? たいちょー」
「……いや、別に」
「だったらいちいち気遣うよーに、こっち見ないで。うざーい」
「……」
俺のした凡ミスとは、インカムの音量をミュートにしてしまったことだ。
アンリたちがやんやんわめき始めた時みたいに電源を落としていれば、こんなことにはならなかったはずだ。電源を落としていれば、どちらの音もインカムから完全に聞こえなくなっていたはずなのだから。
そう。俺がミュートにしたのは俺の耳に聞こえてくるアンリと不動の騒ぐ音で、俺や俺のインカムが拾う音はアンリと不動には聞こえていたのだ。
例えば、俺が暴き立てた和枝のエゴや、和枝が話した一樹の行き先も、当然聞こえたはずだ。
「女の所に逃げ込む男なんて、さいてー」
どうやったら、これほど顔の筋肉を動かさずに喋れるのかと感心してしまうほどの無表情で、不動は一樹に対して毒づいた。
螢樹がオタクを嫌っているように、不動にもこの世界で嫌いな人種がいる。
それは、
「女に頼らないと生きていけねーよーな男は、もげろ」
女に依存して、女に寄りかかって生きる男だ。
ニートで収入もなく、それでいて自分の趣味であるバーチャルアイドルに金をつぎ込み、さらにはニート狩りから逃げ出して女の所に転がり込んだ一樹は、不動が最も嫌う人種なのだ。
それは、螢樹もアンリも知っていることだった。
後ろに座る螢樹は護送車に戻り、今の不動の顔を見た瞬間に何かフォローをしようと思い、しかし結局何も出来ず、今も慌しくおろおろとしている。
一方のアンリはというと、俺たちには目もくれず、夏の気配を感じさせ始めた青空を窓越しに、ただじっ、と眺めていた。アンリはアンリで、一樹の件に対して思うことがあるのだろう。俺と螢樹が戻ってきてから、アンリは一度たりとも口を開いていなかった。
今回の件はアンリの逆鱗にも触れる可能性があったため、怒りをあらわにしないその姿は意外でもあり、また同時に助かった。正直、アンリと不動が二人同時にキレたら俺一人では止めきれる自信がない。螢樹と二人がかりでも難しいだろう。
だが、片方だけならどうにかできるのかと言われれば、そうでもない。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、今も不動の目からは絶対零度の呪詛が撒き散らされている。その視線に触れたアレは凍傷になり、その冷たさから逃れることは出来ずいずれ腐敗し、先ほどの不動の発言通りに本当にもげてしまいそうだ。そう信じてしまえるほど、不動の瞳には、凍える暗い炎が宿っていた。
何故だか急に脊髄を氷柱に交換されたと思うほどの悪寒に襲われ、俺は意味もなく不動の視線から逃れるように、右足を左足の上に置き、自分のモノを隠した。
「たいちょー」
「な、何だ?」
隠し終わった瞬間に不動から声をかけられ、何故だか今の行動を咎められている様に俺は感じてしまう。
「何で、無駄なこと、あたいに頼んだのー?」
「無駄なこと?」
不動が何を言っているのかわからず、俺は眉をひそめた。
「ムヘンが言っていた、パケットの解析の話デスね」
聞こえた声に顔を上げると、バックミラー越しにようやく口を開いたアンリと目が合った。「そーそー。たいちょー、初めっからクソにーとの件、なーんとなく分かってたんだよねー? だったら、あたいたいちょーに無駄な仕事依頼されたってことー?」
人を縛り、呪ってしまえると感じられるほどの粘ついた不動の視線に、俺は晒された。
「なめてんの?」
「いいや、それは違う」
「どーゆーことー?」
適当なこと言ったら殺すぞ? と告げている凍りついた不動の目を見ながら、俺は自分の正当性を示していく。
「和枝が、本当のことを俺たちに話していない可能性があるからだ」
「それは、まだあの母親がムスコを庇っている、ということデスか?」
アンリが訝しげに、俺と不動の会話に入り込んでくる。
「では、隊長はまだ和枝さんが嘘を付いている、と考えていらっしゃるのですか?」
アンリにつられて、螢樹も口を開いた。
「いいや、そうは思っていない。和枝は一樹の居場所について、本当のことを言っている」
だが、俺は螢樹とアンリの発言を否定した。
不動が右折のため、ハンドルをさばきながら俺に疑問を投げかける。
「じゃー、何なのー?」
「本人は本当のことを話しているつもりかもしれないが、それが本当のことだとは限らない、ということだ」
和枝ははっきり言って、今の自分の状態に酔っている。それはもう、気持ちがよすぎるほどに酔っているはずだ。
我が子の成長のために泣く泣く遠ざける決意をした、悲劇の母親。
その我が子を逃がすために国を敵に回す選択をした、真実の愛に気が付いた母親。
それでも再度愛する息子のため突き放す決意をした、英雄としての母親。
まったく、よくもまぁこんな安酒(安い芝居)で酔えるものだ。俺なら翌日は二日酔いになっている。
「一樹を利用して自分に酔っている和枝が、自分が間違っている可能性があることすら気が付いていない。ネットで知り合って彼女が出来たのなら、また同じようにネットを通じて別の女や協力者と知り合える可能性だってあるはずだ。だから和枝が一樹の逃亡に手を貸したのは和枝の自白という事実があるが、一樹が和枝の知っている相手の場所にいるのかは、まだ裏付けが取れていない」
今の和枝には、自分の信じた真実は全て事実に見えてしまっている。
一樹はネットで知り合った彼女がいた。それは事実だ。
そしてその彼女は井上家にも訪れた。それも事実だ。
だから一樹は、その元カノのところにいるはずだ。これは和枝が信じ込んだ、真実だ。
実際に起きた事が事実なら。
信じ込んだ、真に受けた事実が真実だ。
事実は事象としてただそこにあるものだが、真実はそれを信じた人の心の中にしかない。
大根役者として悲劇を泥酔しながら演じている和枝は、フィナーレを飾るために最後の役(英雄としての母親)を演じきるために、俺たちに手を伸ばした。
伸ばさなければ、いずれ情報を秘匿していた現実に、せっかくの劇がぶち壊しにされてしまう。自分は悪くないと事実を泥のように沈めて、酔っていられなくなってしまう。
悲劇の母親では、いられなくなってしまう。
きっと藁にもすがる思いで、俺たちに話をしたのだろう。
話してしまいたかったのだ。自分が悪いことをしたという罪悪感から、本心では逃れたくて仕方がなかったのだ。
そしてようやく、俺たちをつかんだ。
フィナーレを、終えたのだ。
最後まで悲劇の母親を演じきった和枝は今、俺たちをつかんで心底安心しているのだろう。
そして酔っているのだろう。泥のように、溺れるように、心の底まで沈んで、見えなくなっているはずだ。
自分の信じた、真実しか見えなくなっているはずだ。
だが、和枝につかまれたままになるつもりは、俺にはない。
一樹を、ニートを自分の慰め物に使うようなやつなんかと一緒に溺れるなんて、ゴメンだ。
だから俺は、事実を探す。
例え一樹が今、和枝が思っている場所にいたとしても。
俺の行動が、無駄になるかもしれなくても。
都合のいい真実なんかに、溺れるわけにはいかないのだ。
「なーるほどー」
俺の話を聞いた不動は、なにやら満足そうに頷いていた。
「やっぱり、何かちがうよね。たいちょーは」
「……何の話だ?」
「そ、それで隊長! この後、和枝さんがおっしゃられていた、その元カノの家に向かうんですよね? ね!」
螢樹が慌てた様子で、俺と不動の会話に割り込んできた。
「裏付けを取るのもいいと思いマスが、動けるのなら動いた方がいいデスね」
螢樹に苦笑いを向けながら、アンリも続ける。
確かに、和枝から聞いた場所に向かうのも、ありと言えばありだが……。
「不動。俺の依頼は、どのくらいの期間があれば完了する?」
「期間だなんて、おーげさだねー。二日もあれば、できちゃうよー」
「二日? たった二日でいいのか?」
「そーだよー」
俺が頼んだのは、一樹の先々週から二週間分の通信データを解析することだ。
HDDの中に入っているデータを解析するのとは違い、ネットワーク上に流れている流動的なデータを解析する必要がある。さらに今流れているネットワーク上のデータを解析するのではなく、既に流れてしまった過去のデータを解析してくれと、俺は言っているのだ。その上暗号化されていたデータ、パケットの復号化も依頼している。
これら全てを、不動は二日で出来ると言い切ったのだ。不動の能力の高さは知っているが、それでも俺は不動の言葉を半信半疑で聞いていた。
俺の心中を察したのか、不動がにへらっ、と人を食ったような笑みを浮かべた。
「何かむずかしーこと考えてるのかな? たいちょーは。別にネットワーク上のデータぜーんぶを見なくても、HDDにはブラウザのCookieや履歴が残ってんのよー。あとー、ネットワークにアクセスするアプリの通信先のIPは分かるしね。そんだけ分かってれば、残りはにーとの契約していたプロバイダからじょーほーもらえば、力技でごりごりー! ってやれば、一発だよー?」
Cookieや履歴データを使って何をするつもりなのかとか、プロバイダからどうやって情報を持ってくるのかとか、力技で何を総当りさせるつもりなのかとか、そういった疑問を呈することは、俺はしなかった。したら、ただ事では済まない予感しかしないからだ。
「それでたいちょー。にーとが逃げ込んだ、オンナのところに向かうー?」
「ちょっと待ってくれ」
不動の質問を聞き、俺は腕を組み、右手を顎に添えて目を閉じた。脳裏には、井上家で手に入れた情報が、ぐるぐると回っている。
一樹の部屋にあったノートPCと写真。壁にかけられていた、バーチャルアイドルのカレンダーとポスター。そして、息子をダシにして悲劇の母親を演じていた和枝。一樹の場所を話す和枝は、完全に自分の演技に酔い続けていた。
「たいちょー?」
「……保険を、かけておくか」
俺は閉じていた量の瞼を開き、そうつぶやいた。
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