第27話 園子の眼鏡

 満開の桜のもと、さやけし月明かりに照らされながら、少女達の異様なやり取りは続く。

「いいこと、園子、あなたを依り代に神降ろしをしたわ。今あなたの躰には、天つ神、武御雷のたまが宿っている」

「うん、分かるよ。理屈は分からないけど、何かが自分と一緒にいる、ううん、自分と一つになっているのを感じてる」

「それでいいの。難しく考えることはないわ。あなたは自分の感じるままに動けばいい。ただ、さっきも説明したけど、武御雷の霊に全てをゆだねては駄目。自分の心だけはしっかりと保つことを忘れないで。さもなくば、あなたの心は依り代に喰われてしまう」

「そんなこと言ったら恐いよ、天乃さん」

「ええ、恐いわよ。園子、依り代を決して甘く見ないで」

 そして天乃は麻祐子の方を向き、鋭く彼女を睨みつけると言った。

「ジガバチよ、姿を現しなさい。もはや逃げおおすことかなわないわ」

(『ジガバチ』? 私に言ってるの? 一体何のこと?)

 麻祐子は天乃のその言葉を理解出来ず、困惑した。

 だがそれと同時に、麻祐子の耳に不気味な声が届いた。

「ほざけ――」

 今まで聞いたことのない、奇怪な女の声である。

(なに、今の声)

 それは、その声だけで邪悪を感じさせた。聞くものに死の恐怖を感じさせる、禍々しい声であった。そして何より恐ろしかったのは、その声はこれ以上無い程自分の近くで聞こえたということだ。

 しかし何故か、どの方向から聞こえたのか分からない。前なのか、後ろなのか、全く定かではない。

 麻祐子はその声の主を探そうと、視線を巡らし辺りを確認しようとしたが、どういうわけか躰が動かない。いや、動かないどころではない。それどころか自分の意思に反して勝手な動きをし始めた。

「好きにぬかしておれ、愚かな天つ神が。うぬらが如きに後れを取る儂ではないわ」

 その時、麻祐子はその声の主を理解した。

 自分の口がその声に合わせて動いていた。

 自分自身だった。麻祐子自身が、全く自分の意思と反することを喋っていた。

 そしてその声と共に、麻祐子は自分の腹の中で何か重く熱いものが脈動しているのを感じた。自分の中に、何か別個の意思を持った者が、まるで蛇のようにずるずると腹の中でのたうっていた。

 麻祐子はその感触に心当たりがあった。

 天乃に会ってからというもの、彼女に怒りを感じる度に、腹の中で、何かどす黒いもの、まるで怨みを形にしたようなものが、どろどろと蠢いているのを感じていたのだ。

 それは、大きくなるにつれ、自分の心に語りかけるまでに育っていたのだが、麻祐子はその声を聞く都度、それを自分自身の心の声だと納得していた。実際、その声は常に自分と考えを共有していたし、その声に従うことはいつも自分の利になることだったからだ。

 しかしその何かは、今やはっきりとした別個の意思をもち、動き出そうとしている。それどころか、自分の躰までも支配しようとしている。

「な、な、によ…… これ。わた、しの、躰……」

 麻祐子は辛うじて声を発した。だが、それはまるで受信状態の悪いラジオのように、途切れ途切れで要領を為さない。

 すると、その腹の奥で蠢く何かが、ずるずると喉元を這い上ってきた。

 麻祐子の喉が蠕動するように大きくうねり、続いて口が、自分の意思に反して大きく開いた。

「この娘は渡さぬ。このまま去ねい」

 麻祐子の口から漏れた異様な声。しかしそれは麻祐子の声ではなかった。

 こじ開けられるように大きく開かれた麻祐子の口から、何か異形のものが顔を覗かせていた。それはあたかも人と昆虫を掛け合わせた様な、異質でおぞましいものだった。

「とうとう現れたわね――」

 その顔を見て、天乃が言った。

その口元は、嗜虐的でありながら美しい笑みを、そしてその敵を睨め付ける双眸は、たとえ手弱女にあれどもいむかう神に面勝つ、やいばの如き凄艶な光りを湛えていた。

しこしこめきマガツ醜女しこめ、その醜めきこと語るに難し」

「ごおおおおおおうっ」

 天乃の挑発に異形のものは怒りを露わにして獣のような叫び声を上げた。

「いまのうちほざいておるがいい。どのみちうぬらは皆、今この場で死ぬのだ」

 そしてそう言いながら、麻祐子は両手を広げると、ゆっくりと何かをつかみ出すような仕草を見せた。すると、その動作に合わせて、地面にいくつもの黒い染みのような物が広がり始めた。そしてその染みから、まるで人と昆虫を掛け合わせたかのような形をした、黒い魔物が這い出してきた。

「吾がこの娘の中にいる限り、うぬらはなんの手出しも出来ぬわ。それとも、また罪のない娘を手にかけるか?」

 その言葉を聞いた天乃の表情がぎりりと引き締まった。怒りと決意が混じったような、険しい面持ちである。

 そして天乃はゆっくりと背中の腰の辺りに手を回した。そこには、その装いに酷く不釣り合いな物を帯びている。一挺の短筒、そして一匕の紐付き小刀こがたなであった。

「……とおの命を救わば、一人を殺めること、いざよわず」

 そう言いながら、天乃は美しい細工を施された鞘から小刀を引き抜き、優に一尺はあろうその刀身を己の前に構えた。

「ジガバチ、忌まわしき霊よ、今宵、我らは全てを終わらせる。己が罪を悔いながら、この現世うつしよから消え失せよ」

 海鼠切と刻印されたその刀身が、月の光りにきらめいた。

 その時、地面から湧き上がってきた影のような物のうち、一番手前にいた一体が動いた。

 奇怪な叫声を上げながら獣のような素早さで天乃に襲い掛かった。そしてその凶器のような鉤爪が振り下ろされようとしたその瞬間、天乃の躰は高く跳躍した。同時に重い破壊音が辺りに響いた。

「思ったより力はあるようね」

 天乃はすでに魔物の背後へ飛び退いていた。魔物がその手で砕いたものは、天乃のいた場所の後ろにあった硬い石灯籠であった。

「ただ、当てられなければ何の意味もないわ」

 天乃は小刀の切っ先を魔物に突きつけ挑発するように言った。その声に反応したように魔物が天乃に振り返った。そして、全身に力を込めるように躰を沈めたが、不意にその動きが止まった。

「させないよ」

 園子が、魔物の背後からその細い首を鷲掴みにしていた。

「ぐ、ぐお」

 一瞬魔物が低い呻き声を上げたが、それは途切れるように止まった。見ると、園子が握る首の辺りに白い霜が降りている。そしてその霜は見る見るその魔物の躰へ広がり始めた。園子がそのまま右手に力を込めると、魔物が砕けた。まるで黒曜石の彫刻を万力で締め付けたかの様に、粉々に崩れ落ちた。

「天乃さん、私にやらせて――」

 奇妙な冷気が残り香の様に漂う中、園子が口を開いた。

「私、一度も戦ったことなんて無いのに、どうすればいいのか分かる。戦いの全てを知っている」

「当然よ。園子、あなたは今、この国を護る武神そのものなのよ。この国と民に仇なす者を見れば、今のあなたは動かずにはいられないわ」

 その天乃の言葉を聞き、園子は不敵に微笑んだ。そしてまた正面に向き直り、放たれた矢の如く飛び出したかと思うと、社の脇で今まさに動き出そうとしていた黒い影を、右手で頭から押さえ込むように掴んだ。

 園子の右手が月明かりの中に姿を見せた。その魔物を押さえる手は、水晶の様に透き通っている。

「くああああ」

 魔物が弱々しい悲鳴をあげたとき、園子はそのままその頭部を石畳の上に叩きつけた。

まるで高所から放り投げられたガラス細工のように、魔物がばらばらに砕け散った。

 凍っていた。園子の右手は極限まで冷え切った氷の柱と化し、触れる物全てを凍り付かせていた。

「武御雷のただむき――」

 天乃が園子の姿を見ながら独りごちた。 

「私も見るのは初めてだわ。古事記ふることぶみしるされたいにしえの言い伝えの通り。立氷たちひへ、つるぎへと自在に取り成すその右手」

 天乃が戦う園子の様子を見守っていたその時、天乃にゆっくりと近づいてくる二つの影があった。

「あ、天乃……」

「助けて、麻祐子が、麻祐子が……」

 その影が天乃に語りかけた。明菜と由香子のふたりだった。

「あなた達…… 早く、私の後ろへ来なさい」

(でも、何故?)

 天乃は困惑した。麻祐子を操るジガバチにしてみれば、このふたりは人質として有用な筈である。何故戦いの最中に手放したりしたのか?

 天乃がそういぶかしんだ、その時、突然明菜が両手を突き出して天乃に襲いかかった。

「なっ?」

 間一髪のところで攻撃を躱すと、その背後へ由香子が続けざまに飛びかかってきた。

 隙を突かれた天乃は頭を抱え込むように抑えられたが、背負い投げの要領で由香子を前方へ投げ飛ばした。

「まさかあなた達――」

「きしゃあああああっ」

 天乃がそう言いかけた時、明菜が怪鳥の様な叫び声を上げて再び襲いかかってきた。

「既にジガバチにっ」

「天乃さんっ」

 黒い魔物達との戦いのさなか、園子が天乃の方を見て叫んだ。

「来ないで、園子――」

 天乃は園子に振り返ることなく、小刀を眼前に構え直すと言った。

「あなたは目の前の敵に集中して。このふたりは、私が何とかする」

「何とかするだと? どうすると言うのだ。其奴らはまだ生きておるぞ。お前にその二人を殺すことができるのか?」

 麻祐子の中の声が天乃を挑発するように言った。

「……」

 倒れていた由香子が体勢を立て直し、また襲いかかってきた。その由香子を躱しざま、天乃は小刀を持つ右手の肘を彼女のみぞおちへしたたかに叩き込んだ。由香子は呻き声をあげながら跪いたが、その目に宿る殺意は消えなかった。

「十の命を救わば、一人を殺めること、いざよわず」

 由香子の様子を見た天乃はそう呟くと、素早い動きで彼女の背後に回り込み、左手を首にまわして固く押さえると、右手の小刀を由香子の目の前に構えた。

 由香子の喉元に、鋭いやいばがきらめいた。

「されど、その一人を救わば、この身捨ててもかえりみはせじ」

 そう言うと、天乃は由香子を抑えている左手を浮かし、その手のひらを自らの小刀で切りつけた。

 真っ赤な雫が天乃の手を染めた。

 天乃は鮮血滴るその手のひらを、由香子の口に押しつけた。

「我ら、大御宝がり人。誰一人としてその思いにたがい無し」

 そのとたん、由香子が天乃の腕の中で四肢を振り乱し、獣のような声でえずき始めた。

「おぶっ、うぼおおおおおっ」

「マガツカミなら、高天原にゆかりしものを何よりもいとう筈。穢れの中に淀むあなた達が、果たして私の血を飲み込んだ躰の中にいられるかしら」

 天乃はそのまま由香子を押さえ込んでいたが、そのふたりをめがけて今度は明菜が飛びかかってきた。 

 その動きを予期していたのか、天乃は由香子を放して難なく明菜の攻撃をかわすと、すぐさま彼女の後ろに回り込み、先程と同様に自分の傷口を明菜の口に当てて押さえ込んだ。

 明菜が口に押しつけられた手のひらに噛みついた。

「くうっ」

 天乃は苦痛に顔をゆがめたが、手を緩めることはなかった。

 天乃が明菜と由香子を解放すると、二人は激しく痙攣するように地面の上でのたうち回った。そしてひとしきり暴れた後、両方の口が大きく開かれた。

「ごばあああああっ」

 粘液に濡れた得体の知れぬ不気味な物が、二人の口から同時に顔を覗かせた。

 大きさは小型犬ほどで、まるで昆虫と哺乳類を掛け合わせた様な姿をしているが、まだはっきりと形は定まっていない。昆虫がその変態の途中にいるようなグロテスクな姿である。それが少女達の口をこじ開け、びるびると痙攣しながら逃げるように這い出してきた。

 天乃は由香子に素早く飛びつくと、手にした紐付き小刀をその化け物の頭へ深々と突き立てた。

「じぎいいいいっ」

 その化け物は奇怪な断末魔をあげ、黄色っぽい半透明の体液を流しながら息絶えた。

 その隙に、もう一体の化け物が明菜の口から離れ逃げようとしたが、天乃はそれも見逃さなかった。小刀に刺さったままの化け物を鋭い動きで振り払うと、もう一方の逃げるように蠢く化け物に向き直った。

 しかし、天乃が斬りかかろうとする一瞬前に、その化け物の躰が斜め下から袈裟懸けに両断された。

「逃がさないっ」

 園子が、右手でその化け物を切り払っていた。その右手は、先程まで氷であった姿から両刃の剣へと変化していた。

 その剣と化した右手が宙に浮いたその躰へさらに追い討ちをかけた。化け物の躰はまるで破裂したかのように空中で四散した。

「園子? 他の敵はどうしたの?」

 天乃が驚いた様子で言った。

「もうみんなやっつけちゃったよ」

「あなた…… 凄いわね」

 事も無げに言い切る園子に、天乃は目を見張りながら言った。

「おのれえええええっ」

 麻祐子が獣の咆吼にも似た激しい怒号が響かせ、天乃に向かって踏み出した。

 天乃はおもむろに麻祐子へ向き直ると小刀を自分の前に構えた。

 しかしその時―― その小刀が天乃の手から滑り落ちた。

 天乃は身体を細かく振るわせながら、前方によろめいた。

 額に不自然な汗が浮かんでいる。

「くっ、こ、これは?」

 天乃が自分の手を見つめながらどもる声で言った。膝をがくがくと震わせ、そのまま地面に膝をついた。

「い、一体何が?」

「天乃さんっ」

 天乃の様子に気付いた園子が叫んだ。

「ジガバチの毒だ。気付かなんだか、うつけが」

 麻祐子の顔がほくそ笑んでいた。

「し、しまった」

 天乃が自分の左手の傷を見て言った。明菜の歯形がうっすらと残っている。

 ほんの少量ではあったが、獲物を麻痺させるジガバチの毒が、その傷口から天乃の身体に入り込んでいた。

 麻祐子が動けずにいる天乃に向かって襲いかかろうとした時、園子が素早くその行く手を阻んだ。

 麻祐子の前に回り込み、右手で首を鷲掴みにした、

「園子っ、か、彼女を、傷付けないでっ」

「……っ」

 園子は無言で麻祐子を押さえつけたまま、もどかしげにその顔を睨みつけた。

 その時だった。園子に押さえつけられた麻祐子の瞳に、すっと人の心の光が戻った。そして呟くように園子に語りかけてきた。

「榊さん……」

 体内に巣くう化け物ではない、それは、確かに麻祐子自身の声であった。

「ねえ、お願い、私と一緒に行きましょう――」

 まるで祈りのように痛切な哀願の言葉が、麻祐子の口からこぼれた。 

「榊さん、私ね、あなたがいれば、あなたさえいてくれるなら――」

「……ごめんなさいっ」

 園子は一度麻祐子の躰を高く掲げると、桜の木の方向へ投げ飛ばした。

 麻祐子は太い幹に背中を打ち付け、その場に崩れ落ちた。園子はその隙に、素早く天乃の下へ駆け寄った。

「天乃さん、しっかりっ」

「私なら大丈夫、すぐ回復するわ。そ、それよりも、黛さんを――」

 天乃がそう言っている間に、麻祐子が桜の木の根元で身体をよじらせた。

「ううう、よくも…… よくも」

 そして、ゆっくりと起き上がり、涙を流しながら憎悪の視線を二人に向けた。

「うわあああああああああ――」

 麻祐子の悲しみと怒りの入り交じった絶叫が響いた。そして獣のような速さでふたりに襲いかかろうとした。

 しかし、園子の動きはさらに速かった。麻祐子がほんの数メートル進んだときには、既にその躰に組み付き、麻祐子の動きを抑えていた。

「放してっ。嫌いっ、あなたなんか大っ嫌い」

 麻祐子がそう言いながら、園子の躰から逃れようと暴れた。園子はもがく麻祐子の頭の後ろへ手をまわすと、その口へおのれの口を強引に重ね合わせた。

「んむっ」

 二人の唇が深く繋がった。その端から赤い雫が一筋流れ落ちた。

 天乃の血であった。

 園子が口いっぱいに含んだ天乃の血を、無理矢理麻祐子の口腔に流し込んでいた。

「むぶううううっ」

 麻祐子が園子の顔面に手を当て押し離そうともがいた。だが、園子は最後の一滴をその口へ注ぎ込むまで麻祐子を放さなかった。

「ぷはあっ」

 園子が口を放すと、麻祐子はその場にうつ伏せに倒れた。そして園子達から逃げるように這い出した。口から赤く染まった粘液をたらしながら、まるで地蜘蛛の様に地面を這いずった。

「おごっ、がぼっ」

 しかし桜の根元あたりまで進んだところで突然仰向けに覆り、全身を痙攣させ始めた。

「おごごごごごご」

 麻祐子の躰が弓なりに大きく反り返った。口があり得ないほど大きく開かれた。

「お、おのれえええええ」

 麻祐子の喉の奥から憎悪に満ちた声が聞こえた。

 その声の主が、次第に姿を現し始めた。

 粘液にまみれたその化け物は先程の二体よりもさらに大きく、そしてはっきりとした形を持っていた。

 顔は人だが、目は真っ黒な複眼である。口から覗く黒く巨大な一対の牙は、左右にぎちぎちと開閉している。異様なまでに細長い胴と、その先に紡錘つむのように下がる腹部。背中には、体液に濡れた透明な羽がたたまれていた。

「じじじ、じが、じががが」

 とても少女の体内に隠れていたとは思えぬ、巨大な体躯が月光の下にあらわになった。

「ぎよおおおおおおおお」

 化け物が叫んだ。それは、正に人の顔と手足を持つジガバチそのものであった。

「や、やったわ」

 天乃が言った。

「ぎぎぎぎ、おのれ、おのれっ、あと少し、こ、こんなところで――」

 ジガバチが悔しげに呻いた。

「今よ、あ、後は彼奴を仕留めるだけ。園子、頼んだわよ」

 天乃はそう言いながら園子の方を見た。

「……」

 しかし、園子は天乃の呼びかけに何も答えなかった。

 何か様子がおかしい。あたりをきょろきょろと見回しながら動揺している。

「ど、どうしたの? 早く彼奴にとどめを――」

「天乃さん、私、ちょっと困ったことになっちゃった」

「え?」

「ジガバチの位置が分かんない。なんにも見えない」

「ええ?」

「眼鏡。眼鏡をどっかに落としちゃったの」

「ええええええええええーーー!」

 唐突に出現した予想外の問題に天乃は動揺した。

「ちょちょちょちょちょっと園子、今そういうのいいからっ。真面目にやって!」

「無理だよう。私、眼鏡がなかったらなんにも見えないの」

 園子が情けない声で答えた。

「眼鏡っ娘も大概にしなさああああああいっ!」

 焦りと狼狽と叱責の混ざった声で天乃が叫んだ。

「ふ、ふふ、ふははははは――」

 その慌てふためく二人の様子を見たジガバチが嗤い出した。

「最後に、運はこちらにあった。」

「くっ」

 天乃は自ら動こうとしたが、足をもつれさせ、その場に崩れ落ちた。

「この場は去るが、もう下手はうたぬ。二度とうぬらに見つけられることはない」

 ジガバチの背中に生えている透明な羽が、徐々に開き始めた。

「さらばだ。次に会うときには、我がはらからが、街を、国を、埋め尽くしたときだ」

 ジガバチは勝ち誇った台詞を残すと四枚の羽をびりびりと震わせ、その場から飛び去ろうとした。

 その時――

「行かせないわ」

 ジガバチの足下で声がした。

「はうあっ」

ジガバチが驚愕し、声の方向を見た。

 土気色をした、指を二本欠損した手が、鋭い棘の生えた足首をしっかりととらえていた。

「依り代になる物さえあれば、神降ろしはさほど為し難きことにあらず」

 しわがれた声がした。それは園子の骸であった。

「なにいいいっ」

 ジガバチは天乃たちの方を見た。眼鏡を探す園子の脇で、天乃がまるで操る者を失った傀儡くぐつのように、片手をこちらへ差し出しながら硬直していた。

 こちらを向くその瞳は、まるでガラス玉の様に虚ろに濁っている。

「あなたは偶然この骸のそばにいた――」

 園子の骸がいった。

「最後の最後に運があったのはこちらのようね」

 半ば腐りかけたその顔には、いつも天乃が見せる、妖しい程に美しい笑みが浮かんでいた。

「放せっ、放さぬかっ」

 ジガバチは自分の足を捕らえる手を振りほどこうと、激しくもがいた。

「園子っ」

 骸がジガバチの足にしがみつきながら園子の名を呼んだ。

「眼鏡、眼鏡……」

 園子はいまだそう呟きながら、しょぼしょぼと目をしばたたかせつつ、地面を両手でまさぐっている。

 暴れるジガバチに構わず、園子に向かって骸が叫んだ。

「受け取ってっ!」

 そして空いている方の手で園子に向かって何かを投げた。

 鋭い風切り音を上げながら、その何かが園子の顔の横を掠めようとした瞬間、園子の左手がしっかりとそれを捕らえた。

 それは、園子が以前使っていた眼鏡であった。

 壊れた弦が、セロハンテープで補強してある。

 麻祐子が踏みつぶした、園子が親子三人で街へ出かけ買ってきた、赤い太縁の眼鏡であった。

「見える――」

 園子がその眼鏡をかけて呟いた。

「やっぱりこっちの方が馴染むな」

 そう言いながら、おもむろに立ち上がり、視線をジガバチへ移した。

「ぬううううっ」

 ジガバチがその長い腕を骸に向かって上から激しく叩きつけた。一撃で骸の体が頭から胴まで砕け散った。

 瞬間、人形のように固まっていた天乃の身体に意識が戻った。

 解放されたジガバチが羽を広げ飛び立った。不気味な羽音を響かせながら、一気に桜の木の上まで上昇した。だがその時、ジガバチのすぐ背後には、月光を背にした別の影が現れた。

「遅いよ」

 園子であった。園子が跳躍力だけで、空中のジガバチに追いついていた。

「馬鹿なっ」

 剣と化した園子の右手が、ジガバチの背中に突き刺さった。

 刀身が、白濁した体液を絡めながら胸を貫き露出した。

 ジガバチを下にして、二人の躰が地面に真っ直ぐ落下した。

 肉体がたたきつけられる鈍い音が響き、ジガバチの躰が地面に剣で縫い付けられた。

 ゆっくりと剣が引き抜かれると、ジガバチはその場で手足を震わせながら蠢いた。

「ぎぎ、ぎじじ」

 羽が弱々しく震え、奇妙な鳴き声が口から漏れた。

「終わりのようね」

 天乃の声がした。

 その身体はすでに麻痺からほぼ回復している様子である。ゆっくりと立ち上がり、ジガバチの方へ向き直った。

「ジガバチ、忌まわしきたま―― 最後に、少しだけ時間をあげる」

 天乃はそう言いながら背中の短筒を引き抜き、ジガバチへと向けた。

 美しい彫金を施された優美な短筒が、月の光にきらめいた。黒光りする銃身には、「海鼠折なまこさき」と刻印されている。

「かえりみなさい。あなたの犯した罪を言葉にしなさい。そうすれば黄泉の闇へと消えてゆくあなたのたまも、ほんの少しでも浮かばれることでしょう…… 私が聞いていてあげるわ、罪を悔いる、あなたの終わりの言霊を」

「じがああああああっ」

 ジガバチはその言葉に答えることなく、最後の力を振り絞って天乃へ襲い掛かった。

 その顔は、溢れんばかりの怨嗟に歪み、両の瞳からは血の色をした涙を流していた。

此口乎不答之口このくちやこたえぬくち

 天乃はそう呟き、引き金を引いた。

 月下に轟音がとどろき、熱くけた弾丸がジガバチの大きく開いた口の真中まなかに叩き込まれた。そのまま咽喉を引き裂き、脊柱を砕きながら背中を突き破っていった。

 ジガバチは体中の穴から白濁した体液を吹きだしながら、後ろへ吹き飛び、ぼろきれのように桜の幹にたたきつけられた。

 一瞬、大量の花びらが風の中に舞い散った。そして月明かりの下にたたずむ園子たちの上へゆっくりと降り注いだ。

 その舞い落ちる薄紅色の花びらの中、天乃は園子を振り返り、優しくほほえんだ。

 園子もまた、天乃にほほえみを返した。

 天乃は園子に歩み寄ると、片手を園子の肩に廻し、もう片方の手をそっと園子の胸元に添えた。すると、その胸の中心で光っていたものがぽろりと取れて、手の中へ落ちた。

 小さな、翡翠の勾玉であった。

 それが取れたと同時に、園子の身体に光っていた文様も、ゆっくりと消えていった。

「お疲れ様」

 天乃が言った。園子はその言葉に何も応えず、ただ頭を天乃の胸元にもたれた。


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