第25話 月下の少女達

 それは、美しい夜であった。

 蒼く澄んだ空には、銀盤のような月が冴え冴えと浮かんでいる。

 望月の夜である。

 その、ひときわ大きく照る月は、下に見下ろすもの全てを、深い深い群青の光りの底に沈めていた。

 街の裏手、小高い山の中腹に鎮座する古びた神社。

 里曲さとみを見下ろすようにそびえる大きな鳥居をくぐると、こぢんまりとした社の割には広々とした境内がその奥に広がっている。

 街の灯火ともしびも、ちまたのさざめきも、ここまでは届いてこない。あたかも、このおごそかな空間が、それらを拒んでいるかのようである。

 境内の奥、やしろの脇には、一木いちぼくの大きなしだれ桜が、この夜を盛りとばかりに美しく咲き誇っていた。

 長く垂れたしなやかな枝は、優しげな花びらにみっしりと覆われ、時折そよぐ春風の中、静かに揺れている。

 さやけし月明かりの中、薄紅色の大樹は夜の蒼さの中にほんのりと紫色に滲み、夢幻の如き美しさを醸し出していた。

 しかしその時、その美しい月夜にそぐわぬ禍々しい影が、そこに蠢いていた。

 ざくりざくりと、土を刺す音がする。また、ぞりぞりと地面を掻く音もする。

 そして、その音に混じり、苦しげな嗚咽が聞こえてくる。

 恐怖に囚われた者が、絶望の中で許しを請う様なすすり泣きが、月明かりの底で淀むように、陰鬱に響いている。

 音の元は、桜の枝の下、まるで月光から逃れるように、そこにいた。

 二人の人影がある。地面にひざまづき、怯えた様相で、桜の根元を掘っている。

 まだ若い女のようである。

 まともな道具は無く、手にしているのはそこらで拾ってきたような、木ぎれや棒くいである。

 土まみれの手には血が滲み、顔は恐怖に引きつっていたが、二人はそれでも休むこと無く、必死に地面を穿うがっていた。

 ばきりと音がして、片方の持っていた木ぎれが割れた。すると、その木ぎれを持っていた少女が、手を止めて言った。

「う、うぐっ…… 麻祐子…… 無理だよう…… もうやめようよ……」

 そう言いながら顔をあげ、桜の方を向いた。するとそこには、二人の作業を見張るように、桜の幹に背を預けて立っているもう一人の少女がいた。

 麻祐子だった。麻祐子が桜の木の下に立ち、二人の少女、由香子と明菜を奴隷のように使役していた。

「……」

 麻祐子は、懇願する由香子を無言で冷たく見下ろした。

「もう…… あたし――」

 由香子は自分の血の滲んだ手を麻祐子に見せながら言った。

 すると、いきなりその手が硬い靴底で地面に踏みつけられた。

「ひぎっ」

 由香子は許しを請うように麻祐子を見上げた。だがその由香子を見下ろす麻祐子の瞳はまるで深い洞の様に虚ろで、なんの感情もうつしてはいなかった。

「ごめんっ、ごめんなさいっ。続ける、続けるからっ」

「いい子ね、頑張りなさい」

 幼子を諭すような優しい声だった。しかしそう言う麻祐子の声には、確かに恐ろしい狂気が宿っていた。

 由香子は擦り傷だらけの手で割れた木ぎれを拾い、また土を掻き始めた。

「あなたもよ」

 麻祐子は傍らで二人の様子をみて怯えていた明菜に言った。

「ひっ、う、うん、分かってる」

 明菜はがくがくと頷くと、また穴を穿ち始めた。

 幻想的なほどに美しい満月の下、二人の少女は嗚咽を漏らしながら、またつらい作業を再開した。

「黛さんっ」

 その時、ふいにもう一人の声が、石段の方から聞こえてきた。

 三人は声の方を振り向いた。

 するとそこには、眼鏡をかけた十代半ば程の少女が立っていた。

 園子であった。

 走ってきたのか、息を切らしている。そして胸を押さえながら三人の方を見て、その異様な状況に、怯えたような困惑の表情を浮かべていた。

「榊さん……」

 麻祐子は園子の方へゆっくりと振り向いた。そして暗い虚ろな瞳のまま、恐ろしい微笑みを浮かべた。

「良かった…… 来てくれなかったら、どうしようかと思った……」

「黛さん、いったい何をしているの?」

 園子は恐る恐る三人に近付きながら言った

「榊さん、あなたとね、是非、話したいことがあるの……」

「……何?」

「ねえ、榊さん、最近、私達、ちょっと疎遠になっちゃったわね……」

「……」

「このままじゃいけないわ…… 分かるでしょ? あなたには、私が必要なの」

「そんな、私、別に――」

「あなたは私と一緒にいればいいのよっ!」

 園子がその言葉を否定しようとしたとき、それを言わせまいとする様に麻祐子が叫んだ。そして一時の間を置いて、さらに園子を諭すように続けた。 

「それが、あなたのためなの。あなたにとって一番いいことなの。それなのに、あなたは、だんだん、私から離れていこうとしている……」

 そう言った時、麻祐子は一瞬悲しそうな表情を見せた。その夜の狂気に満ちた麻祐子の言動の中、その時浮かべた悲しみだけは、正気の人の見せる、全うな感情の様に見えた。だがそのせつない情感も、すぐに瞳の奥の狂った光りにかき消された。

「分かっているわ…… あなたのせいじゃないの。悪いのは、あの女…… 榊さん、あなたはあの女に騙されているの」

「そんな、天乃さんはなにも――」

「その名前を言わないで」

 園子が天乃の名前を出したとき、麻祐子は怒りに顔を歪ませてその言葉を遮った。

「でも、大丈夫、私が助けてあげる…… いえ、私達二人で、あの女を始末しちゃいましょう? 恐がらないで…… 二人一緒ならきっと出来るわ……」

「そんな…… やだよ、そんなこと」

 園子が、その麻祐子の言葉にたじろぎ後ずさった時、由香子と明菜が続けて叫んだ。

「榊っ、麻祐子に逆らわないでっ」

「お願いっ、今は麻祐子の言うとおりにしてっ」

 まるで、助けを懇願するような叫びだった。すると麻祐子が二人に振り返り言った。

「あなたたちは黙って土を掘ってなさいっ」

 その恫喝に、また二人は一心不乱に土を掘り始めた。

 園子はその三人の様子を見ると、恐る恐る麻祐子に言った。

「黛さん、みんなで一体、何をしているの?」

「あなたにね…… どうしても見せたい物があるの……」

「見せたい物って……」

「あなたも、噂を聞いたでしょう。あの女は、あなたの思っているようないい人じゃないの。本当に酷い女、人殺しなのよ」

「やめて、馬鹿なこと言わないで。天乃さんはいい人だよっ。人殺しなんて、そんなことするはず無いわっ」

「かわいそうに…… すっかりあの女を信じているのね…… でも、今証拠を見せてあげる。それさえ見れば、きっとあなたも目が覚めるはず」

「証拠って…… 一体何のこと?」

「死体よ」

「え? し、死体って……」

「そう、あの女が殺した死体よ。あそこに――」

 麻祐子は由香子達の方を指さして言った。

「あの桜の木の下に、埋まっているの」

「そんなわけないっ。黛さん、しっかりしてっ。死体なんて、そんな物ないのっ。そんな物が埋まっているわけないわっ」

「それはどうかしら…… もうすぐ分かるわよ」

「こんなのおかしいよっ、黛さん、もうやめてっ」

 しかし、園子がそう言った、丁度その時――

「ひっ、ひいいいっ」

 麻祐子の後ろで悲鳴が響いた。明菜の声だった。

「う、嘘…… ほんとにこんな……」

 由香子が怯えた様子で呟いた。自分たちが掘っていた穴を覗き込みながらがくがくと震えている。

 その声を聞いた麻祐子が、そちらへ振り返った。

 麻祐子の口の端がつり上がった。それは確かに笑みだったが、その瞳は狂気に暗く淀んでいた。

 麻祐子が穴に近付くと、由香子達は腰を落としたまま逃げるように後ずさった。

 その二人にかまわず、麻祐子は穴を覗き込むと言った。

「あった。あったわ、榊さん」

 果たして、そこには確かに麻祐子の探していた物があった。

 俯せに横たわる、骸の頭部であった。

「駄目っ。そんなの、何かの間違いよっ。そんな物があるわけ無いわっ」

 園子が悲鳴のように叫んだ。しかしその声を無視し、麻祐子は穴の脇に膝をつくと、自ら素手で土を掻き出した。

 まだ胴体は殆ど土の中だったが、麻祐子は狂ったようにその土を掘った。

「私は正しかった」

 指に血が滲み、爪がはがれ始めても、狂喜の様相を浮かべながら、取り憑かれた様にその作業を続けた。

「やっぱり、あの女は人殺しなのよ。私、見たのよ、あの女が人を殺すところを。最初は夢かと思っていたけど、夢じゃなかった。あれは、やっぱり現実だった」

 やがて全体がほぼ姿を見せると、麻祐子はその頭部を両手でしっかりと掴み、そして、ゆっくりと引き上げた。

 ばらばらと土塊つちくれを辺りに落としながら、その物は暗闇の中にその全貌をさらけ出した。

 それは、若い女の骸であった。

「やめてっ、お願い、黛さんっ。そんな物見ちゃ駄目っ!」

「は、はは、ははははは――」

 麻祐子は声を上げ、嗤い始めた。そして、両手でその骸の頭部をおさえながら、その顔を園子に向けて掲げた。

「ははははは。あった、あったわ。見なさい、榊さん。私の言った通りでしょうっ。あの女がやったのよ」

 そして、そのおぞましい物体を両手に掲げたまま、麻祐子は桜の下から歩み出した。

 桜の影になっていた骸は、徐々に月明かりに照らされ、その姿をさらにはっきりと露わにしていった。

「ほら、ほら、榊さん、よく見て。これが、これが――」

 その時、骸がその全貌を月下にはっきりと晒したその時、麻祐子の言葉がふいに止まった。

一瞬、骸の頭部をおさえる己の指の間に、何かがちらりと覗いた。麻祐子はその何かに奇妙な不自然さを感じた。

 何かがおかしい。

 麻祐子が手にしているのは、確かに予想していたとおりの、自分が望んでいたとおりの、人の骸であった。だが、何かあり得ない間違いがある。

「……」

 麻祐子の指の間に覗いた物、それは、眼鏡のつるだった。その骸は眼鏡をかけていた。

 麻祐子はその眼鏡に、何か強烈な違和感を覚えた。

(この眼鏡――)

 麻祐子は、正面を向いている骸の顔を、ゆっくりと自分の方へ向けた。

 背中に空いた大きな銃創のような穴、太縁の眼鏡、ばさばさに乱れた黒い髪、そして、土気色の顔が、徐々に麻祐子へ向けられた。

 それは、そこにあるはずのない顔。あってはいけない者の顔。

 園子の顔――

 麻祐子が今、自分の手で掲げていたのは、園子の骸であった。

「いぎゃあああああああ――」

 夜陰に、獣じみた悲鳴がとどろいた。

 麻祐子は恐怖に顔を歪ませ、その場に骸を取り落とした。

 がたがたと膝を震わせながら後ずさり、桜の木の根元に尻餅をついた。

「見ちゃったね――」

 か細く震える園子の声が、麻祐子に届いた。

 その声の主は、月の光を背にしながら、困り果てたように眉をひそめ、静かに麻祐子に語り掛けた。

「黛さん…… あなたが今見た物は、天乃さんと私の秘密だったの…… 決して誰にも知られてはいけない、二人だけの秘密だったの……」

「ああ、あなた誰よっ! 榊さんを、榊さんをどうしたのっ?」

 麻祐子の声を無視し、その声は、ゆっくりと麻祐子の方へ近付いていった。 

「でも、黛さん、あなたはそれを見てしまった…… あんなに駄目だって言ったのに、見ないでって言ったのに、私の言葉を無視して見てしまった。どうしよう。私は、あなたをどうしたらいいのかしら……」

「いやあっ、ちっ、近付かないでっ」

 麻祐子が恐怖に後ずさった、その時――

「恐がらないで」

 どこからか女の声がした。

 それはあたかも、その麻祐子達を照らす月光を音にしたかのような、涼しげで美しい声であった。

「だ、誰っ」

 麻祐子は視線を巡らして声の主を探した。

「逃げては駄目。何も怖れることはないわ――」

 それは、大きな鳥居の上から聞こえてきた。

 さやけし月明かりを背にしながら、鳥居の上、大きな笠木の上にゆったりと腰掛ける、一人の女の姿がそこにあった。

 逆光で顔は見えないが、辛うじてその装いから女生徒ということが分かる。百合ヶ丘高校の制服である黒いセーラー服を着ていた。

「私に全てをゆだねなさい」

 そう言うと、その女生徒は高さをものともせず、笠木の上から高く身を躍らせた。

 一瞬、満月を背景にして弧を描く、端正な影が中空に浮かび上がった。

 そして、女生徒は一度手と膝をついて着地すると、おもむろに立ち上がり、改めてその姿を月下に晒した。

 腰まで届く緑の黒髪。陶器のように白い肌。そしてその、心の底まで見透かすような、妖しい程に黒く澄んだ瞳。

 見まごうはずもない、それは天乃であった。

「天乃さんっ――」

 園子が天乃に駆け寄りながら言った。

「どうしよう、私達の秘密が――」

「大丈夫よ、園子。それより今は、黛さんのことのほうが先よ」

 そう言うと、天乃は麻祐子の方へ視線を移した。そして暫し麻祐子の瞳を見つめた後、口元にすうっと笑みを浮かべて呟いた。

「やっと、やっと見つけたわ」

 その微笑みに麻祐子は恐怖した。

「いやっ、こっちへ来ないでっ」

 天乃は怯える麻祐子をなだめるように、優しく語りかけた。

「黛さん、大丈夫。私、あなたを助けに来たのよ。どうか、ほんの少しの間だけ、私達に全てをゆだねて欲しいの。そうすればすぐ終わるわ…… あなたがいやがるなら、手荒なことをしなければならない。でも、あなたが私を信じてくれるなら、何もかも穏やかに終わらせられるの」

「よ、寄るなあああああっ!」

 麻祐子が叫んだ。そして、穴の両脇で腰を抜かしている明菜と由香子のもとへ土蜘蛛のごとく飛びつくと、二人の襟首を掴み桜の根元まで引き摺っていった。

「あ、あなたの思い通りになんかさせない」

 そう言うと、麻祐子は二人の首を両脇に抱えると、何かを耳打ちした。それを聞いた明菜と由香子の表情が青ざめた。

「やだああああっ」

「放してっ、榊、助けてええっ」

 二人が麻祐子の腕の中で激しくもがきながら叫んだ。その様子を見た天乃は一瞬焦りの表情を見せると、園子に振り返った。

「園子、やはりあなたの力がいるようだわ。助けてくれる?」

「うん、いいよ。私は最初からそのつもりだった」

「……いけそう?」

「分かんない。でも、やらせて、天乃さん。私になにか出来ることがあるなら、やってみたいの」

 天乃はその言葉に静かに一度頷いた。そして園子の後ろへ廻り、後ろから胸元へ手を回すと、園子のシャツのボタンを外した。

「園子、あなたならきっとできるわ」

 そう言いながら、天乃は園子の胸元を大きく開くと、そこに何か、小さな宝石のようなものを添えた。

 そして園子の耳元に口を寄せると、そっと呟いた。

――みたまやどれかし――

刹那、その呟きの刹那、まばゆい翡翠色の光が園子の胸元から一気に放たれた。

 まるで命そのものを具現化したような輝きが、そこから激しくほとばしり出した。

 強く、美しく、あたかも光の竜巻のように、閃光が幾条にも連なり、疾風はやての様な音を立てながら園子の躰の周りに渦巻いた。

 そしてそれは光芒を残しながら園子の躰の中へ吸い込まれていった。

全ての光りが吸い込まれたとき、園子の躰が爆発したかの様に大きな閃光を発した。

 とたん、熱風の様な圧力が少女達に吹き付けた。

 麻祐子はその光りと熱に目をくらませ、一瞬園子達の姿を見失った。しかしすぐさま目をこらし、目前でなにが起こったかを確認した。

 園子は変わらずその場に静かに佇んでた。しかし、先程までの園子ではない。姿形は同じでも、何か歴然とした違いがある。

 両の頬からはだけた胸にかけて、記号の様な物が朱色に光ってのぞいている。現在は使われていない神代文字の様に見える。

 特に威圧的な構えをとってはいない。だがその双眸は真っ直ぐ麻祐子達をとらえ、そしてその視線だけで麻祐子をその場に釘付けにしていた。

 その瞳は、あたかも真っ赤に燃えるおきの様である。熱く、近寄りがたい。それは、純粋な闘志そのものの現れであった。

「あ、あなたは一体、誰なの?」

「私は園子だよ、黛さん。でもね、もうあなたの知っている以前の私とは違うの――」

 静かな、落ち着いた声で園子が言った。

「もう戻れない。たとえ戻れても、戻ったりなんかしないわ。だって私はもう決めたんだもの。天乃さんのための、心の入れ物になるって。人じゃないものになってしまっても、決して後悔なんかしないって――」

 その言葉には、過去と決別する、強い決意がこもっていた。

「そう、私はもう、人じゃない…… 私は―― 御霊の依り代」

 園子は静かにそう言った。 

「ゆけ、園子。いましが力、吾に示せ」

 天乃の凜とした声が 少女達を包む静寂しじまに響き渡った。

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