第24話 夕日のあたる部屋
金曜日
その日の午後、園子は自分の部屋の窓からぼんやりと外の風景を眺めていた。
昨日降っていた雨は夜のうちにすっかり上がり、朝は曇っていた空も、昼にはすっかり晴れ渡り、今はまた明るい日の光が東雲市を包んでいる。
西に面した園子の部屋には、徐々に日が差し込み始めていた。
もうしばらくすれば、茜色の暖かい光が部屋をいっぱいに満たすだろう。
夏場には煩わしくもあるが、それ以外の季節では、園子はそれを
(もう、みんな下校した頃かな)
漠然とそんなことを考えた。
その日園子は学校へも行かず、ずっと自分の部屋にこもっていた。
昨日の夜、天乃に電話で連絡を取った。そして麻祐子に天乃の件で呼び出されていることを打ち明けた。
すると天乃は多くを語らず、ただ明日は学校を休んで欲しいと言ってきた。理由を聞いたが何も教えてくれなかった。ただ何かを察したように、今日は家にいて、どこにも行かないでほしい。自分の連絡を待ってほしいとだけ告げられた。
天乃にどんな考えがあるのかは分からないが、昨日のことと何か関係が有るのだけは察しが付く。天乃の秘密のことか、麻祐子達のことか。またはその両方か。
園子はその天乃の言葉に従った。
(お父さんに嘘ついちゃった)
今朝、園子は史郎に病気と偽り学校を休むことを告げた。史郎はただ今日はゆっくり休むようにと言い、園子を残して家を出て行った。玄関を出るときに園子の方へちらりと振り向いた心配そうな視線を覚えている。園子は何となく、自分の嘘が見透かされていた様な気がしていた。
まんじりともせずベッドの上に仰向けに寝そべっている。ずる休みという負い目を感じてか、いつものようにパソコンを開くこともしない。ただその傍らにはずっと携帯電話を手放さずにいた。天乃からの連絡をじっと待っていた。
だが最初に鳴ったのは携帯ではなく、玄関の呼び鈴だった。
(誰だろう?)
昨日の麻祐子達のこともあって、園子はすぐに返事をせず、音を立てないように玄関へ行き、扉ののぞき窓から外を確認した。
魚眼レンズの向こうに丸く歪んで見えたのは、天乃の顔であった。
「あ、天乃さん?」
園子は慌てて扉を開けた。
「いきなり御免なさい。少しお話しできるかしら」
学校帰りなのかまだセーラー服を着たままの天乃が、少し申し訳なさそうに微笑みながら言った。
「う、うん、ちょっと待ってて」
園子は天乃を玄関に通すとそこでいちど待たせ、自分の部屋へ駆け戻った。そして短い時間で出来るだけ体裁を整えると、改めて天乃を招き入れた。
「御免ね、私の部屋、すごく散らかってて」
「ううん、急に来たのは私の方だから」
自分の部屋に座布団を用意すると天乃を座らせた。
「あ、天乃さん、何か飲み物持ってくるね。お茶とジュースとどっちがいい?」
「いいの、榊さん。あまりゆっくりもしていられないわ。それより、座って私の話を聞いて頂戴」
ばたばたと慌ただしい様子の園子を落ち着かせるように天乃が言った。
「うん……」
園子は言われるまま、部屋にあったクッションを座布団にして天乃の正面にゆっくりと腰を下ろした。
僅かに朱に染まった日の光が園子達を明るく照らした。
園子は天乃の深刻そうな様子に少し緊張しながら言った。
「えっと、じゃあ…… 話って、何かな?」
「ええ、実はね…… 私、榊さんに折り入って頼みたいことがあるの」
「うん、いいよ。何でも言って。天乃さんのお願いなら何だって聞いちゃうよ」
重い雰囲気を紛らわすように園子が明るく答えた。
「榊さん――」
しかし天乃は、そんな軽々しい態度で返事をする園子を諫めるように言った。
「お願い、そんなに簡単に答えないで。この頼みは、あなたのすべてに関わることなのよ」
「え……」
困惑する園子に天乃は続けていった。
「ごめんなさい。頼む側の態度じゃ無いわね―― でも、今私が言うこと、真剣に聞いて、よく考えてほしいの」
「……分かった」
天乃は園子が頷くのを確認すると、ゆっくりと口を開いた。
「榊さん、今から頼むことはね、実はあなたにとって何の得も無いこと。それどころか…… あなたに大きな危険が及ぶかもしれないわ」
「ええっ、そうなの?」
「ええ、本当よ。それでもね、我が侭を承知であえて言わせてもらうわ……」
「う、うん」
天乃が園子の瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。園子はその真摯な視線に緊張しながら天乃の次の言葉を待った。
「榊さん、私にあなたの全てを預けてほしいの」
「え、全てって、どういう意味?」
「そのままの意味よ。あなたの身も心も全て。それが私の望み」
「で、でも、どうしてそんな……」
「訳は…… 承知して貰うまで話すことはできないの」
「え、ええ?」
園子はあまりの内容に言葉を失った。
「無茶なのは分かっているわ。でもそう頼むしか無いわ。ほかに頼みようが無いの」
「で、でも、そんな……」
天乃の言葉が理解できず返事に戸惑っている園子の様子を見て、話を切り替えるように天乃が落ち着いた声で続けた。
「ねえ、榊さん…… 始業式の日、学校帰りに喫茶店へ寄った時のこと、覚えている? 私あの時、この街で沢山友達を作りたいって言ったわよね」
「うん、覚えてるよ」
「……榊さん、あなたは自分にあまり自信を持っていないみたいだけど、でもね、あなたはとても素敵な人だわ」
「え、そんな、いきなりどうしたの?」
「気弱なところはあるけれど、優しいし、可愛らしいし、私、あなたと会えて、本当によかったと思っている。出来ることなら、私はあなたに本当の友達になって欲しい。そしてずっと一緒にいたいわ」
嬉しかった。園子は少し顔を赤らめうつむくと、天乃に言った。
「天乃さん、私達、もう友達でしょ? 私はそう思ってるよ」
すると天乃は悲しげに顔を曇らせ、首を横に振った。
「榊さん…… 私はね、あなたに危害が及ぶことがわかっていながら、自分の目的のため、あなたに近づき利用しようとしているのよ…… こんな卑怯な私を、軽率に友達だなんて思っては駄目」
「え、私に、危害……?」
園子が驚いたように聞き返した。
「そうよ。私があなたと一緒にいることは、あなたにとって、とても危険なことなの…… 決して望んでいるわけじゃ無いけど、私のせいで、あなたに大きな厄災が降りかかるかもしれないの」
「でも…… まさか死んじゃうとかじゃ無いよね」
園子は大げさな喩えのつもりで言った。
「榊さん――」
しかし天乃はそれを否定すること無く真顔で言った。
「少なくとも、その覚悟はしていて欲しいわ」
「嘘……」
「だから、もしあなたが私の願いを拒むなら…… きっと、それがあなたにとって一番良いこと―― その時は私、あなたのことは諦める。この街も去るわ。私達はもう二度と会うことは無いでしょう」
「やだ、そんな、待って、天乃さん――」
園子はあたかも去りゆく恋人に縋り付く少女のように言った。
「じゃあ、もし頼みを受け入れたら、天乃さん、この街に残ってくれるの? そして私と一緒にいてくれるの?」
「ええ、その時は、私はあなたとずっと一緒にいることになる…… たとえあなたが望まなくても、私は決してあなたの側を離れないわ」
「……先に、理由を説明して貰うことは出来ないの?」
「ごめんなさい…… それは出来ないの」
「もし、説明を聞いた後で、やっぱり無理って言ったら?」
「それだけは、絶対に駄目。それは裏切り。決してあってはならないこと。もしその時は――」
「その時は?」
「あなたに、いなくなってもらうことになる」
「殺されちゃうってこと?」
園子は困惑をごまかすように微笑みながら、その天乃の言葉を聞き返した。
「そうよ――」
天乃が怖い顔をした。
「私が自分の手で、あなたをいないものにするわ」
真実だ――
園子は直感的に悟った。今天乃の言った言葉は単なる脅しではない、紛れもない真実だと肌で感じた。だがなぜか、園子は恐怖を感じなかった。それどころか、その言葉に何か説明のしがたい甘美な魅力を感じていた。
「じゃあ、理由は聞かないよ。でも出来れば一つだけ、これだけ教えて」
「なあに……?」
園子は、自分から天乃の瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。
「天乃さんは…… 私を、どうしたいの?」
「あなたに望むこと、それはね…… 私のための――」
言葉を選んでいるのか、それとも言うのをためらっているのか、天乃は暫し間を置くと、静かに、だがはっきりと言った。
「心の入れ物になってほしいの」
天乃のための心の入れ物―― その言葉は、あたかも
自分を見据える天乃の深く大きな瞳から目が逸らせなくなった。
何か、恐ろしいことを頼まれている。返事次第で、自分の人生は代わってしまう。そんな予感を感じていた。
しかし、なぜかそこに、恐れや不安は無かった。
『決して帰ってくることの出来ない遠い所へ――』
昨日天乃が言った言葉が脳裏をよぎった。聞いた時は戸惑いしか感じなかったその言葉。だが今は、その言葉は抗いがたい誘惑となって園子を引きつけていた。
この誓いを交わして、後悔することなんてあるんだろうか――
「天乃さん…… じゃあ、私が天乃さんの願いを聞き入れたら、天乃さんも一つだけ、私と約束してくれる?」
「私が…… 何を?」
「私の、本当の友達になるって…… それを約束してくれる? ずっと一緒だって、誓ってくれる?」
「……ええ、約束するわ」
「嘘ついたら、殺しちゃうよ?」
「構わないわ。その時は、あなたの手で私を殺して頂戴」
天乃が微笑みながら答えた。それに応えるように、園子も微笑んだ。茜色の光の中、二人は暫し何も言わずにお互いの瞳を見つめ合った。
そして、園子はゆっくりと口を開いた。
「天乃さん、私、今から心も躰も、みんな天乃さんに預ける。天乃さんのための、心の入れ物になるよ」
「榊さん、今から私達は、切れることの無い絆で結ばれた、本当の友達になる。これは二人の誓いよ」
天乃がゆっくりと両手を差し出した。園子がそこへ吸い寄せられるようにいざり寄った。
すると天乃は園子の着ているシャツのボタンに手をかけ、一つ一つ外していった。
園子は天乃が自分に何をしようとしているのか分からなかったが、それがどんなことでも受け入れようと思った。
決して、後悔なんてしない――
柔らかい夕日の差す部屋の中、天乃の瞳を見つめながら、園子はたった今交わされた誓いを強く心に刻みこんだ。
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