第22話 暗雲

 木曜日


 その日、園子のクラスは朝から妙な雰囲気が漂っていた。

 昨日まで天乃に普通に話しかけていた級友達が、天乃から微妙な距離を置いている。無視されているというわけではない。数は少ないが、まだ天乃に声をかける生徒もいる。しかし、まるで腫れ物でも扱うかの様な不自然な態度である。

 また、ちらちらと天乃の方を見ながら、手にしたスマートフォンでSNSに何かを書き込んでいる生徒もいる。

 そしてそのような態度はまだ良い方で、生徒によっては、好奇の笑みを浮かべながら何かを探り出そうとするような者までいた。

 理由は分かっている。

(あの噂だ)

 園子は口には出せなかったが、その級友達の態度に静かに憤慨した。

 なぜこんな無責任な噂のせいで天乃さんが迷惑をこうむらなければならないのだろう。

 そして、なぜみんなは級友にもっと気を遣うことが出来ないんだろう。

 しかしそんな園子の苛立ちをよそに、天乃本人はそんなクラスの雰囲気を特に気にする風でもなく、いつも通りの飄々とした態度だった。園子はそんな天乃と級友達の様子を見ながら、何ともやりきれない歯痒さを感じていた。

 そしてもう一つ、その日のクラスでは不可解なことがあった。

 麻祐子達が三人とも欠席していたのである。

 いつも行動を共にして、自分に理不尽な迷惑をかけてくる三人が、そろって誰も姿を見せていない。昨日のことも考えると、園子にはそれが偶然とはとても思えなかった。

 昨日から突然広がった噂のタイミングと合わせて考えれば、麻祐子達とこの噂が関係していると思えてくる。

(もし黛さん達が何かしているなら、何とかしなくちゃ)

 だが具体的にどうすればいいのか何も考えは浮かばなかった。

 ただ焦りだけが園子の胸中をじりじりとこがしていた。


               ※


 昼休み、その日も園子と天乃は屋上にいた。

 空には昨日とは打って変わって、重く厚い雲が立ちこめている。日の光もおぼろげで、屋上には今にも降り出しそうな湿った空気が漂っていた。

 今日の四時限目が終わったときに、園子の方から天乃を誘ってここへやってきた。

 本来ならこんな日に屋上へ出ようなどとは思わなかっただろう。しかし、園子はどうしても、天乃と二人きりで話したいことがあった。

「空が暗いわね」

 垂れ込めた雲を見上げながら天乃が言った。

「うん……」

 園子は曖昧な相づちを打つと、二人はまた暫し沈黙した。

「あの、天乃さん」

「なあに?」

「えっと、あの…… 今日は午後から雨だって。テレビで言ってたよ」

「そう、傘を持ってきてよかったわ」

 当たり障りの無い話題を天乃に振ったあと、園子は自分自身の不甲斐ない態度にもどかしさを感じながら思った。

(ううん、私はそんな話をしたいんじゃない。天乃さんと話さなくちゃならないことがあるんだ)

 しかし、どう話を切り出して良いのか分からない。一体何から話したら良いのだろうかと園子は悩んだ。

「榊さん」

「えっ」

 ふいに、その一人逡巡する園子の隙を突くように天乃が言った。

「もしかして、何か、私に話したいことがあるんじゃないの?」

 どきりとした。園子が顔をあげると、自分を真っ直ぐ見つめる天乃と目があった。園子はその天乃の瞳に、心の奥まで覗かれている様な気がした。

 本当のことを聞くのが恐い。いっそ、今は誤魔化して、この話から逃げてしまおうか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。

 しかし、今聞かなかったら、もうこのことについて何も聞けなくなってしまう、そんな予感を園子は感じると、思い切って切り出した。 

「うん…… そうだよ。私、話したいことがあるの」

「……何かしら」

「ねえ、天乃さん…… 今日、私達のクラス、朝から何となく、変な感じがしない?」

「そうね…… 本当、ちょっとおかしな感じよね……」

「天乃さんは、そのわけ、何か心当たりがある?」

「いいえ…… ただ、こんな風に考えたくは無いけど、実は、黛さん達がいないのが何か関係があるかもって、ちょっと気になってるの。でも、具体的なことは何も知らないわ」

(やっぱり、天乃さんは、噂のことなんにも知らないんだ。なら、私がはっきり伝えた方がいい)

 園子は重い口を開いた。

「あのね、天乃さん、今、ネットやSNSで、変な噂が流れているの」

「噂? どんな?」

「……天乃さんのこと」

「あら、私がどうしたのかしら」 

「なんかね…… 天乃さんが、良くないことをしたことがあるって……」

「良くないこと…… どんなことなの?」

「うん、それがね、天乃さんが、ここへ来る前に……」

「ええ……」

「誰かを……」

「誰かを?」

「……」

 園子はその時、一瞬言葉に詰まった。すると、その隙を突くように、天乃が逆に園子に問うてきた。

「殺した―― とか?」

 瞬間、園子の全身の毛が逆立った。

 悪寒に躰が硬直し、次の言葉を失った。

(どうして、どうして天乃さんの口からその言葉が出てくるの? 私はまだ言ってないよ。天乃さんもあの噂を知ってたの? それとも、それとも……)

 園子は今の天乃の言葉を追及しようと口を開きかけたが、そのまま何も言えずに強ばっていた。

(恐い…… こんなこと、恐くて確かめられないよ)

 恐い?

 私は今、恐いと思ったの? 恐いって何が? 何を恐がることがあるの?

 一体、何を私は怖れているんだろう。何も怖れることなんか無いはずなのに、どうして言葉が出てこないんだろう。

 園子はそう自問した。だが、園子は気付いていた。自身に問うまでも無く、心の一番深い所で、自分が何を怖れているのかを。

 天乃の言葉に、一つの可能性を見てしまったのだ。

 天乃を信じているはずなのに、その小さな可能性が、あり得ないはずの可能性が、園子の心をかき乱していた。

 ――もし噂が本当だったら――

「う、嘘だよね、そんな噂。そんな事あるわけないのにね」

「そうね…… 榊さんはどう思う?」

「もっ、もちろん信じないよ、そんなこと。嘘に決まってるよ」

「そう…… あなたはそう思ってくれるのね」

(どういう意味? それは否定なの?)

 天乃の言っていることが、よく分からない。

 園子は混乱の中で思った。

 本当のことを知りたい。いやそうではなく、もしこれからも天乃と自分の関係を続けようとするなら、知らないままにしてはおけない。たとえ真実がどんなものでも、それを覆い隠したままでは、二人は決して信じ合うことは出来ない。

 そう思うと、もう黙ってはいられなかった。園子は堰を切ったように、天乃に質問を浴びせた。

「天乃さんっ、お願い、教えて、天乃さんのこと。天乃さんはどこから来たの? どうしてこの街に来たの? どうして天乃さんは、自分のことを何も話してくれないの? それにどうして――」

 そして最後に、最初に会った時から心の底でずっと疑問に思っていたことを、呟くように口にした。

「どうしてこんなに、私に優しいの……」

 その言葉を聞いた天乃の表情が切なげに曇った。そして一時の沈黙の後、天乃がゆっくりと口を開いた。

「榊さん、私は、あなたに嘘なんかつかない…… でも、本当のことを言ったら、その時はもう……」

 天乃はそこまで言うと、一度言葉を途切らせた。そして目を伏せて何かを否定するように首を振ると、別の言葉を続けた。

「でもね、榊さん、私のことなんかより、そんな取るに足らないつまらないことなんかより、あなたが最初に知らなければならないのは、あなた自身のこと」

「私? 私のこと?」

「ええ、そうよ。でも、その為にはあなたの覚悟が必要なの」

「どういうこと? 天乃さんが何を言っているのか分からないよ…… どうして私のことなの?」

「……」

 天乃はその質問に答えること無く、悲しげに園子を見つめるだけだった。そして、暫しの沈黙の後、おもむろに口を開いた。

「榊さん、あなたは本当に知りたいの? 私のこと。私が誰なのか、私がなぜここにいるのか、そして、私があなたに何を求めているのか……」

 知りたい―― 園子は素直にそう思った。しかし即答することが出来なかった。天乃の言葉に気後れし、返事を躊躇してしまった。天乃はその園子の戸惑う様子を見ながら、さらに言葉を続けた。

「本当は私も、あなたに全てを話してしまいたい。でもね、もし話してしまったら、私達は、もう引き返せなくなってしまう。私はあなたを、決して帰ってくることの出来ない遠い所へ連れて行かなければならなくなってしまう……」

 そう言う天乃のその声には、僅かではあったが悲愴感すら漂っていた。

「それでも、あなたが本当に知りたいのなら…… いいわ、教えてあげる――」

 そう言うと天乃は園子の目前に詰め寄り、その瞳をまっすぐのぞき込んだ。

「だけど、榊さん、あなたは…… あなたには、本当のことを知る覚悟があるのかしら」

「……」

 園子はその問いに沈黙した。

 戸惑いながら、なにも答えることが出来なかった。

 天乃が僅かに悲しそうな表情を浮かべた。そして園子に背を向けると、何も言わずに屋上を去って行った。

 ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。

 そして、園子は一人、降り始めた雨の中、天乃の残していった言葉の意味を考えながら一人佇んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る