第19話 麻祐子が望むもの

 その日の放課後、教室掃除の当番だった園子は、清掃が終わった後自分の持ち物をまとめ帰る準備をしていた。

 まだ残っている他の生徒達は各々仲の良い友人達と連れ合い、下校前の束の間の歓談を楽しんでいる。

 しかし、園子は一人である。傍らに天乃はいない。

 天乃はHRのあと、また稗田に呼ばれて行ってしまった。

 残念だけどしょうがない―― 園子は一人帰り支度を終え席を立った。だがそのとき、ふとあるものが目にとまった。

 天乃の鞄が、まだ教室に残っていた。天乃の黒いセーラー服によく似合う、伝統的な革製の学生鞄である。

(鞄があるってことは、また教室に戻ってくるってことだよね?)

 園子は天乃を待ってみようと思い、自分の席に座り直した。

(そうだ、昨日話した和風スイーツのお店に誘ってみようかな)

 園子は昨日の話題を思い出し、携帯電話を取り出してその店のホームページを開くと、住所やおすすめのメニューなどを調べてみた。

 なかなか良い雰囲気の店で、既に何件かのカスタマーレビューが投稿されている。

 残っていた他の生徒達は一人、二人と教室を後にし、園子だけが教室に残されたが、園子は気にすることなく携帯電話の中の写真を見ながら、そこで天乃と二人お茶を楽しむ自分の姿を想像した。

 自然と顔がほころんだ。

 そして園子がそのレビューを読んでいると、教室の後ろの戸が開く音がした。

 園子は期待に胸をはやらせながら振り返った。だが、そこにいたのは天乃ではなかった。

 麻祐子達だった。

「あ、いたいたー、榊ちゃん」

 最初に声をかけてきたのは由香子だった。いつも通りヘラヘラとした、人を小馬鹿にしたような態度だった。

「丁度良かった。榊さん、今帰り?」

 続いて由香子の後ろから麻祐子の声がした。

 その声を聞き、園子の浮かれる心は冷水を浴びせられたように一気に冷めた。

 条件反射のように躰が強ばった。

「あれ、返事ないね。あたしら無視されてる?」

 明菜が言った。顔は笑っているにもかかわらず、妙に凄味のある声だった。

「う、ううん、そんなこと無いよ、御免なさい」

 園子は慌ててかぶりを振った。

「ふーん、でさ、今帰りかって聞いてるんだけど」

 答えたくなかった。園子は麻祐子がどんな返事を待っているか分かっている。

『うん、今帰るところ』

 これが麻祐子達の望んでいる返事である。彼女は常に園子に対し自分の求める答えしか認めようとしない。そこに園子の意思は関係ない。

 そしてそう答えれば、次の流れは決まっている。

『じゃあちょっと付き合ってよ』

 麻祐子はきっとそう言う。

 一年の時、何度も何度も経験した手順である。

 そしてその後は―― 想像もしたくない。

『今帰るところ』違う、そうじゃない。こう答えるんだ

―― 私、天乃さんを待ってるの ――

 嘘じゃない。約束はしていないけれど、私は天乃さんを待っているじゃないか。だからそのままのことを言えばいいんだ。

(天乃さん、戻ってくるよね。鞄、ここにあるんだもん)

 園子は心の中で自分にそう言い聞かせ、強ばる口を恐る恐る開いた。

「あ、あの、私、あ――」

「ああ? なに? 良く聞こえないんだけど?」

 園子のか細く震える小さな返事は、由香子の威圧的な声に遮られた。

 園子の躰がびくんとすくんだ。

 まただ。また言い返せない。

 自分の思っていることを、はっきりと言わなくちゃいけないのに、どうしても言い返せない。

「まあまあ」

 すると、居丈高な由香子と明菜をなだめるように麻祐子が割って入ってきた。

「ねえ榊さん、これからみんなでお茶でも飲みに行かない?」

 意外な誘いだった。園子は麻祐子達とお茶を飲んだことなど一度もない。

 麻祐子が園子を連れて行くのはいつも校舎裏やトイレなど、人気の少ない冷たく暗い場所ばかりであった。

 その麻祐子が自分をお茶に誘っている。

 麻祐子は困惑気味の園子に近付きながら言葉を続けた。

「榊さん、私達進級してから全然話す機会がなかったじゃない。私、今年も榊さんと仲良くしたいの」

 麻祐子は園子の前の席の椅子を引くと、横向きに座って園子を振り返った。

「また一緒にみんなでつるみましょうよ」

 麻祐子はそう言うと園子の机に片肘をついて身を乗り出すと、恐ろしい微笑みを浮かべながら言った。

「去年みたいにね」

「ひ――」

 その言葉に全身が硬直した。

 去年の麻祐子との記憶が一気にフラッシュバックしてきた。

「わ、私――」

「一緒に来るんでしょ?」

 園子の心に、踏みつぶされる眼鏡のイメージが浮かんだ。

 麻祐子の有無を言わさぬ命令にも等しい問いに、園子はすっかり怯えきっていた。

「あら、みんなでどこかへ行く相談?」

 ふいに入り口の方から声が聞こえた。

 四人が一様にそちらを振り向くと、そこには興味深げな面持ちで園子達を眺める天乃の姿があった。

(良かった。ああ良かった。天乃さん、やっぱり戻ってきた)

 園子がすがろうとしていた一縷の望みが現実となって目の前に現れた。

「それなら、私も一緒に行っていいかしら?」

 天乃はいつもの親しげな様子で園子達に歩み寄りながらそう言った。その態度は事も無げで、今の園子がおかれている状況をあまり理解していない様である。

「天乃さん、私達、今榊さんに用事があるの。悪いんだけど遠慮してもらえるかしら」

 麻祐子が言った。刺々しい声だった。天乃を見るその視線には、はっきりとした敵意が込められていた。

「ふうん……」

 天乃はその麻祐子の態度と、怯えている園子の表情を見て、ようやくこの場で何が起こっているのか理解した様だった。

「そうは言っても、私だって榊さんに用事があるのよ」

 天乃はそう言いながら園子の後ろにまわり両肩に手を置くと、正面にいる険しい表情で自分を睨め付ける麻祐子の視線を真っ直ぐ見据えながら言った。

「実は私も榊さんを誘いに来たの」

そして天乃は園子の耳元に口を寄せると小さな声で囁いた。

「予算の都合がつきました」

 園子は昨日天乃が自分を誘った時の言葉を思い出した。

(天乃さんも私とおんなじこと考えてたんだ)

 嬉しかった。

 肩に掛かる手の重みが、この上なく心強く感じた。

「だ、駄目よそんなの――」

 麻祐子がそんな二人の間に割り込むように異議を唱えた。

「私が先に誘ったんだから、早い者勝ちよっ」

「あら、早い者勝ちなの?」

「そうよっ」

「それならなおさら言わせてもらわなくちゃ」

 天乃は得意げな様子で続けた。

「私達、昨日一緒に出かける話をしたんだもの」

「えっ」

 麻祐子は自分で墓穴を掘ったことに気付き、言葉に詰まって硬直した。

「じゃあ、行きましょうか」

 天乃は自分の鞄を手に取ると、園子を立たせて背中を押した。

「う、うん」

「ま、待ちなさいよっ」

 園子が席を去ろうとしたとき、麻祐子は我に返って立ち上がった。そして慌てて二人の行く手を遮ると、狼狽した様子で言った。

「そそ、そんなの関係ないわよっ。私と榊さんはもう長いつきあいなのよっ。転校してきたばかりのあなたの用事なんかより、私の用事の方が大事に決まってるでしょっ」

 苦し紛れの破綻した理屈だった。天乃はその支離滅裂な反論を聞くと、困った様に笑いながら言った。

「黛さん、あなたそんなに榊さんと一緒がいいの?」

「はあっ?」

 麻祐子はその問いに一瞬図星を突かれたようにたじろぐと、慌ててそれを否定した。

「べっ、別にそんなこと無いわよ」

「ふふふ。駄目よ、隠したって分かるんだから」

 天乃は微笑みながら言った。まるで、駄々をこねる幼子おさなごを諭す保護者の様な笑みだった。

「私に榊さんを取られちゃうんじゃないかって、気が気じゃないのね」

「はああああああっ?」

 その言葉を聞いたとたん麻祐子の顔は見る見る真っ赤に染まった。

「な、何言ってるの、ばばば、馬鹿じゃないの? あたっ、あたしがっ、そんな訳ないじゃないっ」

「そうかしら?」

 天乃は麻祐子の泳ぐ瞳をのぞき込みながら、語尾に疑問符をつけて言った。

「違うに決まってるでしょっ」

「じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ」

「それに大体、榊さんに馬鹿みたいにこだわっているのはあなたの方でしょっ」

 麻祐子は反撃とでも言わんばかりに天乃に詰問した。

「うふふ。わかる?」

 しかし天乃はその麻祐子の言葉をすんなりと認めた。

「そうよ、私、どうしても榊さんと一緒が良くて堪らないの」

 そう言いながら天乃は後ろから園子の腰に腕を回すと、ぎゅっと自分に抱き寄せ、園子の右肩に顎を乗せた。

「無理矢理にだって連れて行っちゃうんだから」

「そんなの許すわけ無いでしょっ」

 麻祐子は地団駄を踏みながら言った。

「しょうがないわね、じゃあこうしましょう」

 天乃は自分の腰の両側に手を添えると、やれやれと呆れたような態度で言った。

「何よっ」

「榊さんに決めてもらうのよ」

 至極妥当な提案だった。しかし、園子本人は、その提案に怖じ気だった。

 その天乃の提案は、園子自身の口から麻祐子に逆らう発言をしなければならないことを意味していた。

「そ、そうね、それがいいわ。そうしましょう」

 私の勝ちだわ――

 麻祐子は天乃のその案に自分の勝利を確信した。

(ふん、馬鹿な女。知り合ってからずっと、榊さんは私に逆らったことなんて一度もないのよ。私が強く脅しつければ、意気地なしの榊さんはいつだって簡単に私の言いなりになるんだから。あなたはそのことを知らないからそんな提案をしたのね)

 園子に何か一言でも自分寄りの返事をさせれば、それを言質にしてなし崩しに自分の意見を通せる。麻祐子はそう算段すると余裕を取り戻し、園子に尊大な態度で言った。

「榊さん、この生意気な女に言ってやりなさいよ、私達と一緒に来るって」

 口元はふてぶてしく笑ったまま園子の目を鋭く睨みつけた。いつもの、園子を威嚇し自分に従わせるときの表情だった。

 園子は麻祐子のその高圧的な態度に居すくまりながら思った。

 天乃さんは気が利かない。あのまま強引に天乃さんが連れ出してくれれば、すんなりことが済んだのに、どうしてこんな提案をしてしまったんだろう。私が黛さんにいじめられていることに気付かないんだろうか。私が自分の口で黛さんに口答えなんかしたら、後でどんな仕返しが待っているか、分かったものではない。

「さあ、どうするの、榊さん。早く答えなさいよ」

 麻祐子はそう言いながら、うじうじとたじろいで何も言えない園子に、ずいと踏み出し返事をせかした。園子が気圧されて後ずさると、後ろに立つ天乃にぶつかった。

 すると、天乃は後ろから園子の手をそっと掴んだ。

 瞬間、その手を通して不思議な驚きと昂揚感が園子を捉えた。

「榊さん。どうするか、あなたが自分で答えて」

 天乃が耳元で囁いた。その言葉を聞いた時、園子は悟った。

(違う、天乃さんは気が利かないんじゃない。天乃さんは全て分かっている。その上で、私に言わせようとしているんだ)

「榊さん、あなたが黛さんと行くのなら、私は邪魔をしない」

「……」

「でももし、私を選んでくれるなら…… 私は、誰にも私達の邪魔をさせないわ」

(私が自分で答えるんだ。私の口から黛さんに言わなくちゃいけないんだ)

 園子は、やさしく自分の手を掴む天乃の手を、強く握り返した。

 手のひらに伝わる温かさが、宿る勇気の様に感じた。

「私――」

園子は顔を上げ、目の前の麻祐子の瞳を真っ直ぐ見つめた。

「私、天乃さんと一緒に行く。もう黛さんの言いなりになんかならない」

 強くはっきりとそう言った。園子が初めて発した、麻祐子に逆らう言葉だった。

 その瞬間、麻祐子は、まるで信じられないものでも見たかのように、目を見開いて硬直した。

「行こう、天乃さん」

 園子は続けてそう言うと、握っている天乃の手を引き、目の前で固まっている麻祐子の脇をすり抜け、教室を後にした。

 ぱたぱたと早足の上履きの音が、廊下を遠ざかっていった。

 教室に取り残された麻祐子は、肩を小さくふるわせながら、その場に立ちすくんでいた。

(嘘よ、嘘よ。榊さんが、そんな……)

 その時―― 麻祐子は自分の心の奥底から、形容しがたい不気味な何かが湧き上がってくるのを感じていた。

 奪われてしまう―― 自分だけの、掛け替えのない大切な物が逃げて行ってしまう。

 嫉妬、怒り、焦燥感―― それだけでは説明しきれない、何か、どろりとしたもの。熱く煮詰められたタールの様に、どんなにぬぐってもぬぐい去ることの出来ない、重く暗いもの。そしてそれは、意思を持つかのように、自分に語り掛けてきた。

―― トリモドセ ――

 そうだ。取り戻さなくてはならない。あの邪魔な女を排除して、取り戻さなければならない。

「なによあいつら、ちょっとおかしいんじゃないの」

 明菜が気まずい場の雰囲気を誤魔化すように麻祐子に話しかけた。だが麻祐子はその呼びかけにも微動だにせず、二人が出て行った先を見つめて黙っていた。

「ねえ、まゆ?」

 明菜は返事のない麻祐子の態度を不審に思い、もう一度名前を呼んでその顔をのぞき込んだ。

「ま――」

 明菜は言葉を詰まらせ、それ以上何も言うことができなかった。

 麻祐子の表情は、彼女を良く見知った明菜でも、それまで見たこともないほど恐ろしい物だった。

「明菜……」

 その麻祐子がゆっくりと口を開いた。視線は園子達二人が出て行った先を見つめたままである。

「え、な、何?」

「今度、みんなで出かけましょう。由香子も一緒に」

「う、うん、いいよ」

 明菜と由香子は慌ててがくがくと頷きながら言った。嬉しくはなかったが、麻祐子の様子からとても断れる雰囲気ではない。

「そうそう――」

 すると、麻祐子が明菜を振り返り、続けて言った。

「でもその前に、ちょっとすることがあるんだったわ……」

 麻祐子は笑っていた。恐ろしい笑顔だった。

 その凄烈な笑顔に、明菜は戦慄した。

(なんか、ヤバいよ)

 明菜は本能的な恐怖を感じたが、今の麻祐子に逆らうことはできなかった。

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