第18話 二人の昼食

 水曜日


 新学期も三日目に入り、新しい年度の始まりに浮かれていた百合ヶ丘高校の生徒達も、次第に落ち着きを取り戻し始めていた。

 その日、東雲市の空は朝から清々しく澄み渡り、麗らかな春の陽射しが街を包んでいた。

 四時限目、その日の授業は稗田ひえだの担当する国史だった。二年二組で担任の稗田が授業を行うのはこれが最初である。

 教室の窓際の席に座る園子は、窓から差し込む日の光の恩恵を受けながら、稗田の落ち着いた声に耳を澄ませていた。稗田の静かでいて良く通る声と、その合間を埋めるように黒板を叩く白墨の音に、園子は不思議な安らぎを覚えていた。

 授業の終わり、日直の号令の後、教室はいつものように昼休みを待っていた生徒達の、束縛から解放されるような短い喧騒につつまれた。その一時いつときのさざめきの中に紛れるように、園子の耳元で柔らかく囁く声がした。

「屋上で待っているわね」

 ふいに耳に感じる温かい吐息。それとともに漂ってくる淡い桜の香りに、園子の胸は小さくときめいた。

「……うん」

 園子は僅かな戸惑いにそちらを向くことができず、正面を向いたまま静かにうなずいた。

 一息おいて天乃の方を振り返ると、彼女の背中は既に出口へ向かっていた。

 長く艶めく黒髪が、生徒たちの間をすり抜けていった。

 一緒に行動しないのは、目立つことを嫌う自分のことをおもんばかってくれてのことだろうか?

 そんなことを考えながら、園子は教室の後ろの生徒に割り当てられた棚から自分の弁当を取り出し、できるだけ目立たないように天乃の後を追った。

 元々人目に付かない様に振る舞うことになれている園子のその行動に気付く生徒は殆どいなかった。しかし一人だけ、そんな園子と天乃を、端から悟られぬようじっと見つめていた者がいた。

 麻祐子だった。

 麻祐子だけはただ一人、園子達に瞳を凝らし、その一挙一動をじっと見つめていた。

 その、二人を見送る麻祐子の視線には、暗く淀んだ光がこごっていた。


               ※


 爽やかな春風が、二人のいる屋上に優しくそよいでいる。

園子達はフェンスを背にして昨日と同じ様に並んで座ると、膝の上にそれぞれの弁当箱を開いた。

「榊さんのお弁当、とってもおいしそうね」

 園子の膝の上を覗き込みながら天乃が言った。

「そうかな? ありがと。これ、自分で作ってるんだ」

「すごい。榊さんって料理が上手なのね」

「え、そ、そんなこと無いよ。へへ、照れちゃうな。でも、天乃さんのだってすごくおいしそうだよ」

「あら、褒めてもらって嬉しいわ。実際、このお弁当、とってもおいしいのよ」

「ほんと、豪華だよね。自分で作ってるの?」

「ううん。実は私、料理はあんまり得意じゃなくって……」

「じゃあ、お母さん?」

 他意のない、何気ない質問だった。だが、その質問を聞いた天乃の顔は少し悲しげに曇った。

「……まあ、作ってくれる人がいるの」

 眉を寄せながら困ったように微笑み、天乃は園子の問いをはぐらかした。

(これも聞いちゃいけないことだったみたいだ)

 園子はまた天乃の、彼女を囲うぼんやりとした『壁』に突き当たった感触を覚えた。

「ねえ、お弁当、お互い半分こずつにしない?」

 天乃は今の話を誤魔化すように、明るく言った。

「うんいいよ、しよしよ」

 園子もそれ以上追及することはなく、明るく答え、また当たり障りのない世間話を始めた。しかしその時園子は心の底で、天乃が置かれている教室での少し微妙な立ち位置を振り返っていた。

(天乃さんは、その心の奥に、何を隠しているんだろう――)

 天乃のクラスでは、その美しさと独自の雰囲気から、多くの生徒が少しでも親密になろうと彼女に近付いていった。

 女子に限らず、男子さえもその機会があれば天乃の周りに集まり、積極的に話しかけた。天乃の周りには、常に人が絶えることはなかった。

 そして天乃も彼等を拒むようなことはしなかった。しかし、それでも自分の身の上に関することは全く話そうとはしなかった。以前の学校、出身地、その他自身の素性にかかわることは、いくら話題に上ってきても、それとなく避けられ、うやむやにされた。

 彼女に少しでも近付こうとする者は、必ずどこかでそれ以上進めないというぼんやりとした壁に突き当たった。

 感受性に富むこの年頃の生徒達は、そんな天乃の態度に、漠然とした不信感を感じ始めていた。

 また、天乃はどこか特定の集団にくみすることも決してなかった。

 この頃になると、どこのクラスでも気の合う者同士が次第に集まり始め、小さなグループを形成しはじめていた。どんな学校でも当たり前に見られる、ごく自然の光景である。その行為は、時として対立や孤立を生む原因となり、必ずしも良いことばかりとは言えないのだが、それでも人間社会における根源的な本質であり、集団行動での不可避なプロセスとも言えた。

天乃はそんな学生達の中で、自分の周りに集まってくる級友達を誰一人拒むことはせず、それら全ての生徒達と全く分け隔て無く接した。

しかし、二年二組の生徒達は、その天乃の公平な態度にもまた、僅かな違和感を感じ始めていた。

 人と人が関係を作ろうとするとき、そこには必ず相性という物が存在する。これは良きにつけ悪しきにつけ、決して避けることができない人の性質である。そして人は、利害と血縁を除けば、この相性のみが関係を作る上での基準となる。まだ利害関係をそれ程重要視しない高校生という若い世代では、上の年代に比べその重要性が遙かに高い。

 だが奇妙なことに、天乃の級友に対する平等な態度は、相手にその「相性」を全く感じさせることがなかった。そしてその欠如は、やはり天乃に近付こうとする生徒達に何とも説明のし難い疑念を与えたのだった。

――天乃さんって、なんだかよくわかんない――

――あの人、なんか隠してるっぽいよね――

 教室やトイレで、園子はそのような陰口を既に幾度か聞いたことがあった。

 だがそんな生徒達の中で、園子だけは天乃に対し特別な思いを抱いていた。他の級友達が不審に感じるそんな天乃の態度を、ただ一人好意的に捉えていた。実際の所、園子に対しても天乃は素性を隠したままだったが、園子はそれを冷淡さとは思わず、何か止むに止まれぬ事情があるのだろうと信じていた。もちろんそれは、天乃が園子だけを唯一特別扱いしていたせいもある。しかしその理由を抜きにしても、園子は沈黙を通す天乃の態度の中に、他の生徒達が気付かない神秘的な何かを感じ、その秘密に少しでも近付きたいと願っていた。

「うーん、榊さんの焼いた玉子焼き、すごくおいしい」

 天乃が園子の作っただし巻き卵を口にし、屈託なく微笑みながら言った。

 素直な、魅力的な笑顔だった。

(天乃さんのこの純真さと、時折みせる妖しさ。一体天乃さんの心の奥には、どんな秘密が隠されているんだろう?)

 天乃の無邪気な笑みを見ながら、園子はそう思った。

 ――いつか私がその秘密にたどり着く日は来るのだろうか?

 麗らかな春の陽射しが二人を包む校舎の屋上で、園子は、そんなささやかな望みを己の胸に潜めていた。

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