第16話 アパートの裏の銭湯

 園子はその夜、自分の住むアパートの裏手の小道を歩いていた。小脇には小さな籠に入った入浴用具がからころと音を立てている。

 空には膨らみかけの月が涼しげに浮かんでいた。時刻は既に深夜に近い。

 園子の家のすぐ裏手、ほんの一二分歩いたところには、この街に古くから続く銭湯があり、園子はその銭湯が格別気に入っていた。園子はほぼ毎日自分の家で入浴するが、時折その銭湯に行くのが園子にとって小さな贅沢だった。

 今夜は特にその銭湯を利用する予定は無かった。しかし先程風呂を沸かそうとしたところ、風呂釜の調子が悪く風呂の用意ができなかったので銭湯に行くことにした。これは園子の家では特に珍しいことではない。園子の家の旧式の風呂釜は時々調子が悪くなることがあり、園子はそれをたまの銭湯へ行く口実にしていた。また、園子は決して普段深夜に出歩く様な女子ではなかったが、銭湯へ行くときだけは父にも許しをえて、あえて遅い時間に外出した。そうすることで、混む時間をさけ、広い浴場をゆったりと使うことができた。実際この時間帯になると、その銭湯には元々客の少ないこともあって、時には貸し切りの様な状態で湯に浸かることができた。

 園子が入り口をくぐり、番台に入浴料を払って脱衣所へ入ると、そこに人がいる様子はなかった。

(やった、貸し切りだ)

 園子はそう喜びながら手早く脱衣を済ませると、浴場へと続く引き戸を開いた。

 誰もいない広々とした浴槽は、内気な園子をいつもより少しだけ開放的な気分にさせた。裸体を隠すこともなく悠々と中へ進み、大きな風呂場を独り占めできる贅沢を楽しんだ。

 広い湯船の縁へのんびりと腰を下ろし、湯桶ゆおけを手にすると、肩や胸へ湯の温度を味わう様にかけ湯をした。暖かいお湯と心なしかひんやりとした空気の温度差が、肌に心地よく染みこんだ。

(そういえば、天乃さんにもここの話をしたっけ)

 園子は昨日、下校途中の喫茶店で天乃と話し込んだとき、この銭湯の話をしたことをふと思いだした。

(天乃さんもこの近くに住んでるっていってた。もしかしたら、一緒にここに来ることもあるかもしれないな)

 何とはなしに天乃のことを考えると、お湯に浸かることも忘れ、天乃と交わした様々な話を思い出した。

(もうちょっと仲良くなれたら、思い切って誘ってみようかな……)

 園子がそんなことを考えている丁度その時、その背後で静かに引き戸が開き、何者かがそっと入場してきた。だが、ぼんやりと考え事をしていた園子はその気配に気付くことは無かった。

(お風呂に誘うって、ちょっと変かな?)

 天乃のことを思い出すと胸の奥が暖かくなる気がした。また会う時の楽しみが増した。

 しかし園子が美しい級友に思いを馳せているその時、背後から、微かな濡れた足音がそっと忍び寄ってきていた。

(でもまだ話したいことがいっぱいあるもん)

 そしてその足音は、気付かれること無く園子の真後ろでぴたりと止まった。

「天乃さん、明日も、たくさんお話ししたいな」

 その時――

「私もよ」

 園子の耳元で声がした。

「はうあっ」

 園子は全く予想していなかった返事に、心臓が止まるかというほど仰天した。

 すぐ背後で一糸絡わぬ姿の天乃が、上体を屈め園子の耳元に口を寄せていた。

 園子は振り向いた拍子に体勢を崩し、浴槽に水しぶきを上げて背中から落ちた。

「ああっ、さ、榊さんっ」

「ぐぼぼぼぼぼぼ」

 園子はパニックに陥り、手足を水面に突きだしたまま水中でもがいた。その園子を天乃は慌てて助け起こした。

「だ、大丈夫?」

「がばっ、おべっ、えっ、なっ、ああ、天乃さん?」

「ごめんなさい、こんなに驚くとは思わなくって」

 天乃はそう言いながら園子の躰を支え、しとどに濡れた園子の顔の水滴を手で払った。

 予想外の出来事の連続に、園子の躰はすくみ上がり、頭の中は真っ白になった。

(えっ、な、何で天乃さんがここにいるの? ってか顔近っ)

 その時、その動揺に追い打ちを掛けるように、何か柔らかく暖かいものが園子のかいなに押し当てられた。

 それはこの上なく濃艶で蠱惑的な肌触りだったが、かえって園子の動揺をさらにあおった。

(えっ、えっ、この感じ、これって、もしかして――)

 その、自分の肌で甘美になまめく感触の正体に気付いた園子は、混乱の中で天乃にそれを訴えようとしたが、狼狽のあまりまともな言葉を発することができなかった。

「あ、あめ、おっぱ、おっぱ、あたっ」

「え? なあに、榊さん」

 天乃がそう言いながら躰をずらして園子の顔をのぞき込んだ。すると、その物体は園子の左の二の腕を挟み込みながら移動した。

 豊満な膨らみの先端にある僅かに硬い突起が、園子の濡れた肌の上を、つうっとなぞった。

「えひゃいっ」

「どうしたの?」

 天乃が困惑した表情でさらに園子を見つめた。

「天乃さん、お、おっぱい!」

 園子はやっとの思いでそれだけ言った。

「おっぱい? ええ……」

 その訴えを聞いた天乃は、何を勘違いしたのか園子の慎ましい胸の膨らみに付いた水滴を手で拭った。天乃の指先が、小指から人差し指まで続けて胸の先端を弾いた。

「θ⇄※Ψ§∴⇔!!!!」

 園子は声にならぬ悲鳴を発しながらびくんと躰を跳ね上がらせ、またも湯船に倒れ込んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る