第12話 あやかし

 武雄の握る刃物が少女の体に振り下ろされようとしたその時――

 ―― ひかりあまねかし ――

 どこからか、凜と澄んだ女の声がした。

「なっ」

 武雄は我に返り狼狽した。自分たちの悪行を何者かに目撃される可能性に怯えた。

(何だ? 今の――女の声? はっきり聞こえたぞ? 『ひかりあまねかし』? どういう意味だ? 誰かいるのか?)

 武雄は回りに視線を巡らし、自分たちの以外の第三者の存在を確認しようとした。

 そして武雄が眼前の少女から注意をそらした時、正面から胸部に凄まじい衝撃を受け、正樹共々後ろに吹き飛ばされた。

「ぐ…… がはっ」

 壁際にまとめてあった山仕事用の道具類に背中から突っ込んだ。

 後頭部をしたたかに打ち、意識が朦朧とした。何が起こったのか理解できない。混濁する意識の中、武雄は自分を攻撃した相手を探した。

 それは、真正面にいた。他でもない、武雄達がかどわかしてきた少女だった。先程まで無抵抗で怯えていた少女が、瞳に炯々と光を湛え、異様な凄味を醸し出していた。

(こいつに蹴り飛ばされたのか?)

 武雄は立ち上がろうとしたが、めまいに襲われ膝から崩れ落ちた。歪んだ視界に映る少女が、武雄をしっかりと見据えていた。

「あれえ、君――」

 武雄のすぐ横で尻餅をついていた正樹が何かに気付いた様に言った。

「なんか、憑いてるね」

 少女はその言葉を無視し、数秒の間、二人を強く睨んでいたが、突然おこりの様に身体を痙攣させたかと思うと、まるで壊れかけのからくり人形の様に、ぎくしゃくと立ち上がった。

 目付きがおかしい。先程見せた眼光は消えうせ、眼球がびくびくと痙攣している。

「おね……がい、らん、ぼうし、ない、で……」

 まるで受信状態の悪いラジオの様に、切れ切れの声遣いだった。

 言葉の一つ一つと、行動とが一致していない。

「てめえ、なにしやがるっ」

 まず祥造が動いた。荒々しく少女に掴み掛かろうと手を伸ばした。しかし少女は素早く身をかわし、体勢を崩した祥造の身体を肩で突き飛ばした。倍近い体重差の祥造の身体が部屋の隅まで突き飛ばされた。

 また突然少女の瞳に正気の光が宿り、鋭く武雄を見据えた。

「あなた、武雄といったわね、こちらへ来なさい」

 少女はそう言いながら少し前屈みになり、後ろに縛られた両腕を外側に引っ張った。小柄な上体が膂力りょりょくにたわんだかと思うと、ぶつりと音がして手枷の結束バンドがちぎれ落ちた。プラスチック製とは言え、常人の腕力でおいそれと切れるような物ではない。

「お前……」

 祥造が立ち上がった。手には傍らに倒れていた剣先スコップを握っている。先程の様な迂闊な動きではなく、敵と戦うことを意識した慎重な動きである。

 少女は、顔を武雄達の方を向けたまま、視線だけで祥造の動きを追っている。

 祥造は少女の動きに警戒しながらじりじりと間合いを詰めた。

 武雄も何か武器を持とうとした。丁度目の前に少女を気絶させたスタンガンが転がっていた。まだ脳震盪のためまともに動けなかったが、何とか身体を動かし、そのスタンガンを手に取って前方に構えた。するとそれを見た少女はまた何かに取り憑かれた様な表情を見せ、不安定な声を発した。

「や、めて…… いたい、の、いや……」

 その様子を見た祥造が、それを好機と判断したのか、少女に一気に駆け寄り彼女に向かってスコップを真横に払った。しかし少女は祥造に一瞥をくれることすらなく瞬時に腰を屈め、難なく攻撃を躱した。祥造は体勢を崩し、屈んだ少女の上に覆い被さる様に倒れ込んだ。だが、倒れる直前にどんと下から突き上げられた。

 武雄達に背を向けたまま、祥造の動きが止まった――

 スコップががらんと音を立てて祥造の手からすべり落ちた。

 僅かにを置いて、ゆっくりと祥造が武雄達に振り返った。

「あ、あ、あああああ、」

 奇妙な悲鳴を上げる祥造の喉に、不自然なものがはえている。武雄は目を凝らし、その異物が何かを確認した。

「マジか……」

 それは、先程武雄が蹴り飛ばされた時に取り落とした狩猟用ナイフだった。下顎から頭頂部に向かって、根元までしっかり突き刺さっていた。

 鮮血が太い筋となって柄を伝いぽたぽたと滴り落ちている。

 祥造はまるで助けを求めるように、ぎこちなく武雄達の方へ足を踏み出した。

 しかし一、二歩歩いた所で、突然祥造のみぞおちを突き破り、血まみれの何かが飛び出してきた。

 先程まで祥造が握っていた剣先スコップの先端部だった。

「ぐぎいいいいっ」

 祥造の手がその先端部を押し戻すようにおさえた。しかしスコップは容赦なく、後ろから突き上げられ、ごりごりと捻られ、さらに深くねじ込まれた。スコップが動く度に、鮮血が泉のようにあふれ出た。

「あがっ、ごあああああっ」

 血しぶきと断末魔の叫喚を残し、びくびくと痙攣すると、祥造はそのまま正面に倒れ伏した。びしゃりと濡れた音がした。

 背中にはまるで墓標のように、真っ直ぐスコップが突き立っている。

 そしてその後ろには、顔に真っ赤な飛沫を浴びた少女が、幽鬼のように立っていた。

 少女は、暫しその死を確認するように祥造の背中を見下ろした後、ゆっくりと視線をあげた。

 ただならぬ殺気を宿した鋭い双眸が、突き刺すように武雄をめ付けた。

「ひっ、ひいいいいいっ」

 武雄は引きつった悲鳴をあげた。恐怖と混乱で、膝ががくがくと震え、立ち上がることすらままならない。尻餅をつき、そのまま後ろにいる正樹の方へ後ずさった。

「待ちなさいっ」

 少女はまた武雄に話しかけた。しかし恐怖に怯える武雄にその声は届かない。

「ま、マサさんっ、こいつヤバいっすよっ」

 武雄は恥も外聞もなく、震える手で正樹に縋った。正樹はすでに立ち上がっており、足許に纏わり付く武雄を気にかけることもなく、静かに少女を見ていた。

「いけない、いいからこちらへ来なさいっ」

 少女が続けていった。武雄にとってその声は、自分達を狙う殺人鬼の理不尽な命令にしか聞こえなかった。そして助けを求められる相手は正樹一人だった。

 しかし、正樹の様子が何かおかしい。この異常な状況にあって、不自然な程落ち着き払っている。その正樹がへたり込んでいる武雄の襟首を掴み、乱暴に引き立てた。

「いやあ、そうはいかないよ。こいつは俺達の獲物だからね」

「え……?」

 武雄には正樹が発した言葉の意味が全く理解出来なかった。

「獲物? 俺が? 一体どういう……」

 武雄には全く状況がつかめていない。その混乱している武雄の右手を、正樹はいきなり後ろ手にねじり上げた。

「いっ、な、マサさん、何をっ」

 武雄はその手から逃れようとしたが、武雄の身体はまるで万力で固定されたように、びくともしなかった。

「もっとも、君がおかしな動きをするようなら、今すぐこの首を捻じ切るよ」

 そう言って正樹は空いた方の手を後ろから武雄の首に回し、頸動脈を鷲づかみするように締め上げた。

「ぐぶうっ」

 武雄が喉の奥から絞り出されるような声を上げた。顔がみるみる赤黒くなり、目には涙が滲んだ。

 少女は一瞬眉をひそめたが、すぐ嘲るように笑いながら言った。

「愚かな。その男に人質の価値があるとでも思っているの?」

「思うね」

 正樹が間髪入れずに答えた。口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

「君のことは大体察しがつくよ。こいつがどんな奴だろうと関係ない。多分君は、それが人間ならどんな屑でも全力で助けようとするはずだ。たとえ、自分の命を犠牲にしてもね」

「……」

 少女の顔から笑みが消えた。額には心なしか焦燥の汗が浮かんでいる様に見える。

「確か、やたら憑依がうまい奴がいるって話を聞いたよ…… 女だそうだね」

「ふうん、随分耳の早いこと。まあ、私が誰であろうとあなたに勝ち目は無いわ」

「どうだろうね? 実はこっちも取り憑くことは専門なんだ。君みたいな奴の弱点も知ってるよ」

「私に弱点? それは面白いわね」

「知ってるよ。今依り代にしているその身体、普通の人間だろう? じゃあどう頑張っても、その女の身体能力以上の力は発揮出来ない。君自身の能力がどんなに高いとしてもさ」

 武雄は何とか正樹の手から逃れようともがいた。その時、頭上の正樹の顔が視界に入った。

「ひ――」

 正樹の顔―― いや、それはすでに武雄の知る顔ではなかった。

 びちびちと湿った音が聞こえる。目や耳の穴から不気味な粘液が垂れだしている。皮膚は、あたかもその下で寄生虫が素早く這い廻っているかのようにびくびくと痙攣をしている。

 そしてそれは、何か異形の物の怪へと変貌しようとしていた。

「俺たちはね、取り憑く所までは君たちと同じさ。でも、ずっとそのままじゃない。食べながら、育つのさ。依り代の中でね」

 そのような異常な状態でも、正樹は何事も無いように話し続けていた。

「全部食べ終わったら、出てくるんだ。その時には、そいつの記憶も、心も、姿も、すべて自分の物になっている。でもそれは、そいつじゃなくて俺なんだよ」

 先程まで人の物であった正樹の顔は、すでに人間と言うには憚られる物に変異していた。まるで、哺乳類と昆虫を掛け合わせたような相貌である。

 しかし見た目は変わっていても、その顔にはまだ変わらずねっとりとした邪悪な笑みを浮かべているのがはっきりと見て取れた。

「ゆっくり時間をかけながら、食べるのさ。中からね。知らないだろ、凄く美味いんだぜ。君も一回食べてみなよ……」

 嬉々として語る正樹のその声を聞きながら、少女の顔は嫌悪に歪んでいた。

「戯れ言は充分よ、その男を放しなさいっ」

「放すわけないだろう。でもまあ、こいつは諦めて次の奴を探すとするよ」

 正樹の異様に長く鋭く変型した左手の指が、武雄の首に一気に食い込んだ。

「げぴっ」

 両の頸動脈を一掴みにし、食い込んだ指の先から血の筋が流れだした。

「待ってっ」

 少女が両手を上げて叫んだ。その声に、正樹の動きが止まった。

 武雄はすでに失神していたが、まだ命はある様子だった。

「分かったわ。この場は見逃すから、その男は放しなさい」

 焦燥を色濃く顔に浮かべながら少女が言った。

「聞き分けが良くて助かるよ――」

 正樹はにやりと笑ってそう言った。そして武雄を後ろから抱え直すと、いきなり少女に激しくたけりたった。

「だけどまず、俺の逃げ道が確保されてからだっ。そこから一歩でも動いたら、この首ひと思いにねじ切るぞ」

 そう言うと、正樹は少女をしっかりと見据えたまま、出口の方へじりじりと移動した。そして後ろ手に戸を開き、慎重に後退しながら山小屋を出た。

 悔しげな表情で自分をにらむ少女を小屋の中に残し、引き戸を閉めるとその掛け金にぶら下がっていた南京錠で施錠した。そこから数メートル離れた場所に止めてあった自分のSUV車まで、武雄の襟首を掴んで早足で引きずっていった。

 小屋の外は静寂に包まれていた。

 正樹が注意深く小屋を確認しながら車のドアを開けた。

 軽々と武雄の身体を助手席へ放り込むと、自分は運転席へ乗り込んだ。

 正面には山小屋がはっきりと見える。まだ何も動きは無い。物音もしない。正樹はエンジンをかけながら呟いた。

「追ってこないのか?」

「その必要は無いわ」

 後ろの座席から声がした。

「なにいっ」

 正樹が後ろを振り返ろうとしたその瞬間、運転席の背もたれを突き破り、鋭い刃の切っ先が物の怪の胸を貫いた。

「ぬがあああああっ」

「ここへ来ると思っていたわ」

 後部座席から声がした。そこには、一人の女が潜んでいた。

 風変わりな装束と化粧けわいに身を包んだ、美しい巫女であった。

「ぐお、て、てめえ」

 正樹はドアをロックすると、シフトレバーをドライブへ入れ、アクセルペダルを床まで叩き付けるように踏み込んだ。

「つまらない悪あがきね」

 巫女は全く慌てる様子も無く、上へ飛んだ。

 武雄が開いたサンルーフが開放されたままになっており、そこから難なく車上へ飛び出した。

「おっと」

 そして車上から助手席に手を差し入れ、武雄の襟首を掴むと強引に引き上げた。

 次の瞬間、車は山小屋に激突した。

 発電機を設置してある外付けの小部屋に突っ込み、機材ごと保管してあった燃料をまき散らした。

 ガソリンの匂いがあたりに漂ったかと思うと、車の前部が燃え上がった。

 うっそうとした森の闇が、炎の明かりで照らされた。

「くっ」

 車から脱出した巫女はその様子を見ると小さく舌打ちし、武雄をその場に放り出した。そして山小屋の入り口に駆け寄りながら、背中の腰のあたりから何かを引き抜いた。

 一丁の短筒であった。それを扉の南京錠へ向け、引き金を引いた。

 その脇で、正樹のSUV車はすでに半分ほどを火に包まれていた。運転席のドアが内側から数回強く叩かれたとおもうと乱暴に開かれ、そしてその中から瀕死の正樹が、炎の中より崩れ落ちるように這い出してきた。

「く、くそっ、覚えてやがれ……」

 それは立つこともままならず、地面を這いずりながらその場を離れようとした。

「まだ生きてたの? ずいぶんしぶといのね」

 後ろから声がした。

 振り返るとそこには炎を背にして自分を見下ろす巫女の姿があった。

 右の肩には武雄等に拐かされてきた少女を担いでいる。左の手は祥造の死体の頭髪を鷲掴みにし、地面を引きずっている。

「ほら、忘れ物よ」

 巫女がその死体を正樹の脇に軽々と放り投げた。どさりと投げ出されたその死体は、すでに人とは言えない、巨大な昆虫のような姿に変貌していた。

「て、てめえ……」

「ここまでね」

 巫女はそう言うと、空いた方の手でまた短筒を引き抜き、目の前の正樹であった物の怪に向けて構えた。

 上下二連中折式の巨大な口径を持つ銃である。全体に美しい彫金が施され、黒光りするその銃身には『海鼠折なまこさき』と刻印されている。

「ぐおおおお……」

 物の怪が、弱々しく呻きながらも立ち上がり、巫女の方へ振り返った。

 両手を伸ばし一歩踏み出した時、巫女の短筒が轟音と共に火を噴いた。

 強力な弾丸が正樹だった者の細い首を引き裂いた。

 こうべが千切れ飛び、祥造の死体の脇に転がった。

 その双眸は、死してなお溢れんばかりの怨嗟に充ち満ちていた。


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