第9話 園子は一人
午前中の授業が終わり、昼休みの時間になった。普段園子の昼食は弁当で、毎朝自分で用意してくるのだが、今朝は寝過ごしてしまったためその時間がなかった。なので昼食はパンで済ませることにした。四時限目は移動教室の授業だったので、園子は教室へ戻る前に直接購買部へパンを買いに向かった。
購買部の前は目当ての銘柄のパンを買おうとする生徒達でごった返していた。どこの高校でもよくある、ありふれた光景である。その人混みにもまれながら、園子はその日、あることを心に決めていた。
(今日は、今日からは、教室でご飯を食べよう)
一年生のとき、園子は昼食を教室で食べたことがほとんどなかった。
一緒に食事できる友達が誰もいなかったのだ。
だからいつも校舎の陰や、屋上へ続く塔屋など、誰にも見られない所で人目を避けながら食べていた。酷いときには便所で食べたこともある。園子にとって、昼休みはいつも一番惨めな時間だった。
高校に入学した頃のことを思い出す。最初の頃は、教室で昼食をとりながら誰かが誘ってくれるのを静かに待っていた。だが麻祐子達にいじめの標的として目をつけられてからはとても誰かに誘ってもらえる様な雰囲気にはならなかった。思い切って誰かを誘ってみても、いつも遠回しに断られた。皆麻祐子の機嫌を伺っていたのは明かだった。
しばらくは教室で一人で食べていたが、そのうち周りの視線にいたたまれなくなり、人目を避けるようになってしまった。
他のクラスメートが友達と連れだっている中一人で食事をとることは、園子のような感受性の強い少女にとって、それこそ拷問にも等しい苦痛だった。
だがそんな悲惨な昼休みを過ごしてきた園子にも、ようやく一筋の光明が見えてきた。天乃である。園子は思った。彼女ならきっと昼休みの間、自分と一緒にいてくれるだろう。
しかし園子にはそれについて一つ大きな気がかりがあった。麻祐子のことだ。もしかしたら、教室で昼食をとる自分に、何か因縁をつけてくるかもしれない。そうなったとき、普段の自分なら絶対に耐えられないだろう。でも、天乃が一緒にいてくれたなら、彼女はきっと自分の味方になってくれる。天乃が一緒なら、そんな状況にも耐えられる。きっと自分を麻祐子の悪意に満ちた虐げから守ってくれる。園子は心の中で自分にそう言い聞かせた。
(だから、今日は絶対、教室でご飯を食べよう)
約束はしていないが、天乃は自分を待っていてくれるだろうか。昨日と同じ様に、自分に微笑んでくれるだろうか。教室へ戻る途中でそんなことを考えると、自然と足早になった。
廊下を駆け抜け教室に戻ると、園子は期待と不安に胸を高鳴らせながら扉を開いた。
果たして、天乃は今朝指定された席に座っていた。
だが一人ではない。数人の女子が周りを囲っていた。天乃は彼女らと楽しそうに歓談している。会話に夢中で、まだ園子には気付いていない。
そして天乃の隣、顔は見えないが園子の席に誰かが座っており、天乃はその女子と特に親しげに話しているようだった。
(あの子達に加わらなくちゃ。今日から私はみんなと一緒にご飯を食べるんだ)
園子はそう自分に言い聞かせた。
元々余りない勇気を振り絞り、踏み出そうとしたそのとき、天乃の上体が少し起き上がり、園子の席に座っている生徒の顔が半分ほど覗いた。
麻祐子だった。
胸が凍り付く気持ちがした。足が鉛のように重くなった。
先程から天乃と親しげに話していたのは、麻祐子だった。
その時、麻祐子が園子に気付き、冷たく微笑んだ。今までに何度も見たことのある、弱者を嘲る氷のような笑みだった。
園子はそれ以上前へ進めず、自分が今見たものから顔を背け、逃げるように教室を出て行った。
どこをどう走ったかはよく覚えていない。ただ、今の自分を誰にも見られたくなかった。
すれ違う生徒達の視線が全て、惨めな自分を嘲る冷笑の様に感じた。
人目を避ける様に目立たぬ所を探して走った。
気がつくと、園子は屋上へ続く塔屋にいた。鍵が掛かっているので屋上へは出られないが、少なくともここにいれば誰にも会わないですむ。
薄暗い室内には使われていない椅子と机が数脚置いてあり、園子はその机に腰をもたれた。さっき買ってきた調理パンと牛乳を傍らに置いたが、今はとても食べる気分にはならなかった。
園子は肩を落とし、うつむきながら自問した。
(私、なんか勘違いしてたのかな)
園子は天乃に会ってから、自分でも気付かないうちに彼女にあることを期待していた。
『天乃なら麻祐子から自分をかばってくれる』そんな勝手な期待だった。
しかし、考えてみれば、天乃は別に麻祐子と
むしろ麻祐子のいつもの人を取り込むやり方を考えれば、二人が一緒になるのはごく自然のことである。当然園子にそれを阻む権利もないし、もとよりそんなことが出来るはずも無い。
もちろん、天乃と麻祐子が友達になったとしても、園子が天乃に近づいてはいけない理由はなにも無いのだが、園子には、もし二人が友達になったとき、その天乃と仲良く出来る自分の姿がどうしても想像できなかった。
逆に今の自分の現状、誰にも顔を合わせられず、一人ひと目を避けて逃げ隠れしている自分という、この惨めな状態こそ、園子にとって一番イメージしやすいこれからの学生生活だった。
最初から望んじゃいけなかったんだ。
出来ないことを望んだりするから後で傷つくんだ。
園子はそう思いながらうなだれた。
(『私に教えて欲しいの――』)
ふと、昨日そう言った時の天乃の顔が脳裏を掠めた。しかし今の園子には、それが酷く不確かな、遠い幻のように感じた。
「黛さんなら、私より沢山、色んなことを教えてくれるよ……」
園子はうなだれたままぼそりとそうつぶやき、自嘲的に微笑んだ。
目が潤み、視界が霞んだ。
その時――
「そんなこと無いわ」
後ろから声がした。
「はうあっ」
園子は全く予想していなかった返事に、心臓が止まるかというほど仰天した。振り向いた拍子に体勢を崩し、床に尻餅をついてしまった。
塔屋へ続く階段の途中、弁当箱を抱えた天乃がそこにいた。
「ああっ、さ、榊さんっ」
天乃は園子に慌てて駆け寄り、弁当を傍らに置くと園子を助け起こした。
「ごめんなさい、驚かせてしまったわね」
園子のスカートの埃を手で軽く払いながら天乃が言った。
園子は抱擁されそうなほど近い天乃との距離と、自分の尻を掠める手の感触にさらに狼狽し、まともに言葉を発することが出来なかった。
「あっ、えっ、なっ、ああ、天乃さん?」
「なあに?」
「な、なんでここに?」
「なんでって、榊さんを追いかけてきたのよ」
「……私を?」
「そうよ。びっくりしたわ、いきなり飛び出していくんだもの」
「でも、どうして……」
「私、榊さんを待っていたのよ、一緒にお昼を食べようと思って」
その天乃の一言、『一緒にお昼を』という単純な一言だけで、園子の心を覆っていた暗い霧は、爽やかな春風に吹かれるように一気に晴れていった。
「私と……」
「ええ、もちろん、榊さんさえ良ければ」
「うん…… 一緒に食べよ」
不思議なことに、天乃はなぜか屋上へ出る扉の鍵を持っていた。天乃がそれで扉を開くと、薄暗かった塔屋の中に暖かい日の光が差し込んできた。二人はその麗らかな陽射しの中に手を取り合い踏み出していった。
屋上のフェンスの基礎部は腰掛けるのに丁度いい高さで、二人はそこに並んで座った。園子にとってほぼ一年ぶりの、クラスメートと一緒に食べる昼休みだった。
その頃園子のクラスでは、麻祐子が園子の席に座り、他の女子生徒達と昼食をとっていた。天乃が園子を追いかけ教室を出て行ったとき、皆は少々驚いたが、その後はそれほど気にすることも無くいつも通りに弁当を広げていた。
だが、麻祐子だけは違っていた。表面上は態度を崩すことは無かったが、彼女の心の中では暗く激しい感情がどろどろと渦巻いていた。
園子のクラス、二年二組の教室の窓からは屋上の一部が視界に入る。麻祐子がそのとき座っていた園子の席は丁度屋上が一番よく見える位置にあった。麻祐子が外を見たとき、屋上に並んで座る二人の人影が見えた。背中しか見えなかったが、麻祐子にはそれが園子と天乃だということがはっきり分かった。
麻祐子の心の中に、どす黒い何かが沸き上がった。
「……なんで、ほかのやつと一緒にいるのよ……」
低く押し殺したような声で麻祐子が呟いた。
「ん、まゆ、なんかいった?」
「……別に、何でもないわ」
隣にいた明菜の問いかけに麻祐子が素っ気なく答えた。
麻祐子はまだ食べ終わっていない弁当を片付け、一人で教室を出て行った。
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