第4話 転校生

 月曜日


 その朝、けたたましくベルを鳴らす目覚まし時計に起こされると、園子はアラームを止めて、また布団をかぶった。

(もう少しだけ……)

 それは眠気からくる怠惰なためらいでは無かった。また今日から始まる辛い学校生活を思うと、どうしても前向きな気持ちにはなれなかったのである。このままずっと布団に入っていたいがそうもいかない。学校をさぼるわけにはいかないし、仕事へ行く父の朝食も用意しなくてはならない。園子はのろのろとベッドから降りた。

 部屋を出ると、テレビの音に混じって台所の方からカチャカチャと音が聞こえる。見ると、その朝は珍しく園子の父が朝食を用意してくれているところだった。いつも朝食を用意するのは園子の役目なのだが、その日はすでに父が台所に立ってフライパンを揺すっていた。

「おはよ、お父さん。あれ、今日はどうしたの?」

 父は振り返りもせず料理を続けながら答えた。

「おはよう。今日から二年生だろ? 朝ご飯くらい作ってやろうと思ってさ」

「……ありがとう」

 園子は洗面所へ入り、顔を洗い始めた。何となく気まずさを感じながら、父の後ろ姿を眺めた。

 園子の父、史朗は不器用な男である。正直言って頼りがいのあるタイプでは無い。しかし不器用なりに誠実で、何よりもこの小さな家庭を守るために真面目に一生懸命生きている。園子は母がいなくなってからというもの男手一つで自分を養ってくれている父に、常に感謝の気持ちを持っていた。しかしその気持ちとは裏腹に、思春期の少女にありがちな、異性の家族に対するある種の嫌悪感のために、なかなか素直になれずにいた。

 トーストに玉子焼きとソーセージにという至極一般的な朝食がテーブルの上に並べられた。コーヒーは園子が淹れた。父と向かい合わせに座ると、いつもと同じような、何となく気まずい雰囲気が漂う。それをごまかす様に、園子はテレビに目を向けながら食パンをかじっていた。

 不意に史朗は園子に話しかけた。

「園子、学校は楽しいかい?」

 胸がさっと冷たくなるような気持ちがした。一番触れられたくない話題だった。

 しかし、園子は勉めて平静を装いながら返事をした。

「うん…… 楽しいよ」

 嘘をついた。

 尊敬する父に嘘をつくことは決して本意では無い。しかし、毎日仕事に精をだし、家事も手を抜かず、家庭を守ろうと頑張っている父に、いじめなどと言う問題で心配をかけるのは本当に心苦しいことだと園子は常々思っていた。だからこの一年、園子はずっと学校での問題を史朗には隠し通してきた。自分さえ我慢すれば何とかなる。そう思うことで自分を納得させていた。

「ごちそうさま」

 園子はそそくさと朝食を済ませ、身支度を整えた。先刻の話題を続けられる前にさっさと家を出てしまいたかった。玄関で靴を履いていると、史朗が後ろから声をかけてきた。

「今日もお父さん遅くなるから、晩ご飯はいらないよ。行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます」

(今日もまた残業なんだ。お父さんはいつもお仕事頑張ってくれているのに、私は心配ばっかりかけて、なんて駄目な娘なんだろう)

父に嘘をついてしまった負い目か、園子は返事をしながら必要以上に罪悪感を感じた。

「お仕事、あんまり無理しないでね」

 今の園子には、その返事が精一杯の感謝の表現だった。


               ※


 見慣れた通学路を通り学校へ着くと、玄関口の奥には人だかりができていた。その人だかりに近付きながら、園子は必死に祈っていた。

(お願い、お願い)

 特定の何かに対して祈っている訳ではない。元々園子は神の存在などまともに考えたこともない。

 しかし、それでも今の園子は、何かに祈らずにはいられなかった。

(どうか、どうかお願い)

 校舎の大きな玄関を通り抜け上履きに履き替える。

 背伸びをして人垣の後ろから玄関奥の壁に張り出された大きな表示を見る。

 そこには―― 

 園子の切な願いは聞き届けられなかった。

 二年二組、そこには園子の名前と共に、一番目にしたくなかった名前があった。

 まゆずみ麻祐子。一年生のときから園子をずっと目の敵にしている、いじめの主犯格である。

 園子はうちひしがれて、がっくりと肩を落とした。すると、その園子の暗澹あんたんとした気持ちにさらに追い打ちをかけるように、園子の背後から一番聞きたくない声がした。

「おはよう、榊さん」

 園子の肩がびくんと跳ね上がった。襟首に突然氷を突っ込まれた様な気分だった。

「あ、お、おはよう……」

 振り返るとそこには、麻祐子本人が数人の取り巻きと一緒に立っていた。

 本当は返事などせずそこから逃げ出してしまいたい気持ちだったが、そんなことをすればまた後から何をされるか分からない。とにかく何とか無難にやり過ごしてしまおうと園子は思った。

「良かったぁ。また今年も榊さんと一緒のクラスになれたのね。私心配だったの」

 なれなれしくそう言う麻祐子の顔には、弱い物を見下すような冷たい笑みが浮かんでいる。

「ホントだよねー、ちょー心配した」

 麻祐子の後ろからひょいと顔を出してそう答えたのは明菜だった。麻祐子の取り巻きの一人で、去年園子に直接暴力行為を行ったのは殆どが明菜だった。明け透けな性格をしており運動神経もよく、クラスでの人気も高い。

「え、なーに? 榊ちゃん今年も同じクラスなの?」

 さらにもう一人、横から会話に混じってきたのは由香子だった。彼女も常に麻祐子と行動を共にする、要領の良いタイプだった。そして園子がいじめられている時は必ずそばで嘲笑を浮かべていた。

「そ、そうね、あ、私もう行かなくちゃ」

 目を伏せがちにその場を立ち去ろうとする園子を麻祐子は呼び止めた。

「あ、待ってよ、榊さん」

「え、なに?」

「眼鏡、変えたのね。前の赤い太縁のやつどうしたの?」

 ぎゅっと胸が締めつけられる思いがした。

 麻祐子の顔を見ると、自分を見下すような笑みを浮かべている。

(知らない訳が無いじゃない)

 園子は春休み前の終業式の日を思い出す――


 先月のその日、学年最後のホームルームが終わり、クラスメート達は春休みの予定や一年間の思い出などを皆でわいわいと話していた。クラスに友達がいなかった園子はその会話に参加できないことを負い目に感じ、手早く帰り支度を済ませ、席を離れた。そして席の間を足早に通り過ぎようとしたとき、いきなり何かにつまずいた。明菜に足を引っかけられたのだ。急ぎ足だったことが災いし、園子は激しく転倒した。半開きだった鞄から教科書やノートが飛び出し、眼鏡が外れて前方へ転がった。明菜と由香子の嘲笑が聞こえた。

「あら、大丈夫、園子さん」

 麻祐子はわざとらしく園子に声をかけた。

「あ、ごめーん。痛かったぁー?」

 足を引っかけた当の明菜もへらへらとした様子で言った。

「う、うん、大丈夫……」

 しかし園子は膝を強くぶつけ、痛みですぐには立ち上がれなかった。それを見て麻祐子は助ける風を装って席を立った。

「教科書拾ってあげる」

 そう言って麻祐子は鞄の方へ進み出た。するとパキっと何かが折れる様な音が麻祐子の足元からした。見ると、園子の眼鏡が麻祐子の足の下でひしゃげていた。

「きゃあっ、大変っ」 

 麻祐子が驚いてみせる。園子は慌てて踏まれた眼鏡を手に取った。見ると右の弦のヒンジ部分が折れてしまっていた。麻祐子を見ると、上辺だけは申し訳なさそうな態度をしていた。しかし、その表情の奥にははっきりとした蔑みの感情が見て取れた。

(わざと踏んだんだ)

 悔しくて涙がにじんだ。どうしてこんな思いをしなくちゃいけないんだろうと、自分の境遇を呪った。泣きそうな顔のまま麻祐子をにらんだ。

「御免なさい、榊さん。眼鏡、壊れちゃったわね、大丈夫?」

 麻祐子の白々しい謝罪が聞こえた。

「そんくらい大したこと無いって。すぐ直るわ。ねー榊ちゃん」

 横から由香子がやはり馬鹿にした態度で言った。

(そんなわけ無い。完全に折れてしまったのにどうやったら直るのよ)

 園子は勇気を振り絞って反論しようとしたが、肩をふるわせるだけで何も言うことができなかった。

 園子達の様子に気付いて他のクラスメートも集まってきた。そのうち何人かは麻祐子の取り巻きである。ここで自分が何か言い返しても彼女たちはきっと麻祐子の味方をするだろうと園子は思った。この頃の園子はクラスの中ですっかり孤立してしまっており、自分の味方がいるなどとは想像することすらできなかった。

「ちょっとー、何とか言いなよ」

 明菜が威圧的に返事を促した。その声を聞いた園子の躰が恐怖にびくんと萎縮した。

 一年にわたる麻祐子達の虐遇は、園子の心にすっかりトラウマを植え付けていた。

 そして、園子はか細い声で答えた。

「……うん、大丈夫」

 それだけ言うと、園子は泣き顔を見られないようにしながら教科書を拾い集め、鞄に詰め込んだ。そしてそのまま逃げるように教室から出て行った。

 学校を出る前に、隠れるようにトイレの個室に入った。たまたまセロハンテープを持っていたのでそれで何とか眼鏡をかけられるよう応急修理した。

 便座に座りテープで折れた弦を止めているとき、膝の上にぽたぽたと涙がこぼれた。

 レンズに残った麻祐子の靴の跡に気付いたとき、まだこの場で麻祐子にあざけられている様な気がした。

 手で口を押さえ、嗚咽が漏れそうになるのを必死でこらえた。

 ふと脳裏に、その眼鏡を買ったときの思い出がよぎった。父と、今はいない母と、三人で街まで出かけた思い出だった。

 その記憶が頭をよぎったとき、もう嗚咽を抑えることは出来なかった。

 園子は独り、声を上げて泣いた。

 自分の状態が落ち着くまで、ずっと個室の中に閉じこもっていた。


 それが三学期の最後の日に園子がされたことだった。それを麻祐子が忘れているわけが無い。園子は悔しさと悲しさが入り交じった最悪の気分になったが、やはりその日と同様に何も言い返すことができなかった。当たり障りの無い返事をして、逃げるように教室へ向かった。後ろは見なかったが、背中に麻祐子達のあざけりの視線を痛いほど感じた。


               ※


 教室に入ると、すでに半分くらいの生徒は席に着いていた。席順はすでに出席番号で割り振られており、園子の席は後ろの方だった。

(良かった、ここならあんまり目立たない)

 園子はひどく消極的な喜び方をした。

 少しして麻祐子達も教室に入ってきた。園子と違い、顔見知りの生徒達に挨拶し、楽しげに話している。こうして新しいクラスでも自分の立場を固めていくんだろう。自分には縁の無いことだと園子は思いながら彼女等から目を逸らした。

 程なくしてホームルームの時間になった。チャイムがなり、教室前方の扉が開くと、新しい担任の教師が教室へ入ってきた。意外なことに、一度も見たことの無い顔である。年の頃は二十代半ば位であろうか、下ろせば長いであろう髪をきっちりと後ろでまとめている。眼鏡の似合う落ち着いた雰囲気の美しい女教師だった。

「今日から皆さんの担任になりました、稗田ひえだです」

 その教師はそう名乗った。

 きちんと着こなされた隙のないスーツにかかわらず、おっとりとした優しげな雰囲気を醸し出している。

 今年度から新しく赴任してきたそうで、クラスの誰も彼女のことを知らない様子だった。

(赴任したばかりでいきなり担任なんて、なんか変なの)

 園子は稗田が簡単な自己紹介をしているときそんなことを考えていた。そしてこの新しい教師は簡潔な自己紹介を終えるとこう続けた。

「早速ですが、皆さんに転校生を紹介します」

(その上転校生までいるんだ……)

 園子が少し驚いていると、稗田は自ら戸を開き、その転校生を教室へ招き入れた。

 クラスが響めいた。

 一瞬で教室の空気が入れ替わったような気がした。

 息をのむほどの美少女がそこに姿を現した。

 稗田が促すと、転校生は洗練された物腰で教壇の上に進み出た。

 その動きに合わせて、腰まで届く黒髪が、陶器のように白い首元でさらさらと靡いた。

 転校生は教壇に立つと、一瞬満足そうに微笑んで生徒達に視線を巡らせた。

 その、園子達を眺める切れ長の大きな瞳は、深淵の闇のように黒く深く、月明かりに照らされる夜露の様に涼しげに潤んでいた。

 背は高く、躰は高校生離れして成熟しており、美しく伸びた背筋せすじは胸の豊かな双丘を誇らしげに際立たせていた。

 転校生はおもむろに後ろを向くとチョークを手にして上方に体を伸ばした。制服の上着の裾が持ち上がり、そこに覗いた引き締まった腰のくびれと、その下に続く豊かな尻の盛り上がりが強調された。それを見てまたクラスが、主に男子が響めいた。

 黒板に大きく自分の名前を書くとまた正面に振り返り、しっとりと艶のある薄紅色の唇を開いた。

「天乃と言います。どうぞよろしく」

 このたった数十秒の間に、クラス中がその転校生に魅了されていた。

 その時―― その転校生が自己紹介を終えたとき―― 彼女の視線が、突然園子の瞳をはっきりと捉えた。

 その双眸に射すくめられ、まるで金縛りにあったように、園子の躰は硬直した。

 すると転校生は、その瞳と口元にうっすらと微笑みを浮かべた。

 それはまるで、人の心を絡め取る様な、妖しい程に美しい微笑みだった。

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