第4話

 目が覚めて最初にすることは決っている。美星は伸びをして上体を起こすと、ベッドの頭板の棚に立てかけてあったPDを手に取った。

「おはよ、スバル」


 いつものように、どこかやさぐれた感じの男が怠そうに挨拶を返す、ことはなかった。

「……スバル?」


 画面は黒いままだ。電源ボタンを押しても反応はない。充電用コードも確かめたが、ちゃんと刺さっている。

 刹那、呆然とした。


「どうしよう……」

 一人で虚空に放り出されたみたいな気分だった。もちろんPDは必需品だ。使えないのは色々困る。だけどそんなのは二の次だった。スバルがいない。


 美星にとって本音で話せる唯一無二の親友で、いつも傍にいる家族で、自分の全てを知る恋人だ。

 絶望に沈みかけ、だが美星は自分の両頬を強く張った。ベッドを出て、手早く身支度を始める。


「とにかく自分にできることをするんだ」

 決意を込める。スバルには毎日本当に助けてもらっている。スバル抜きの生活なんて考えられない。だから今は自分がスバルを助けるために動く。

 あっという間に着替えを済ませ、メイクは省略、髪も二、三回とかしてざっくりと後ろでまとめただけで、PDを小脇に抱えて美星は部屋を飛び出した。



 営業開始からまだ間もない時刻だったが、休日のPDショップには既にそれなりの来客があった。

「それではいったんお預かりします。ソファーにかけてお待ちください」

「はい、お願いします」


 やきもきしながら二人の順番待ちを耐え忍んだのち、カウンターのお姉さんに症状を説明して、ただの板と化しているPDを手渡した。体の一部を失うような辛さをこらえつつ、近くでちょうど一人分空いていたソファーに腰を落とす。


「……スバル」

「……スミレ」

 びくりとして横を見やる。同じクラスの木須きす三日月が唖然としていた。

 スバルのことがばれた!?


 かーっと耳が熱くなる。空回りしがちな脳で、どうにか言い訳を捻り出そうとして、遅ればせながら三日月の呟きが意味を結んだ。

 ――スミレ。花の名前だ。でも違う可能性もある。たとえば女の子とか。それも人以外の。


「……ひょっとして木須君も?」

 ひどく曖昧な問いかけ。たっぷり五秒間はためらったすえに、三日月は頷いた。

「朝起きたら、PDが上がんなくて」

「そうなんだ。わたしのも全然動かない」


 つまり同じ立場ということだ。少し気が楽になった。こちらが「スミレ」を知った以上、三日月もスバルのことを言い触らしたりはしないはず。

 三日月がちらちらと美星の様子を窺う。やはり“デミばれ”を気にしているのかと思ったが、そういえばこの人との間には他にもあった。


「えっと、昨日はごめんなさい。鞄ぶつけちゃって。痛くない?」

 とりあえず傷や治療の跡は見当たらない。三日月もすぐに首を振った。

「いいよ。もう全然平気だし」

「あと、誤解させるようなこと言っちゃって」


 急に雰囲気が硬くなった。またも不用意に地雷を踏んだらしいことに焦りつつ、愛想笑いで取り繕いにかかる。

「本当にね、違うの。木須君が小さいとか言いたかったわけじゃなくて、ただ視界に入ってなかっただけで」


 三日月の眉間が深く皺を刻んだ。美星は頑張って笑顔を保った。

「えっとー、だから角度が悪かったってことなの。木須君の身長が低いのなんか全然知ったことじゃないっていうか……」

 三日月は舌打ちをして顔を背けた。


 なにそれ。

 美星もむっとする。確かにちょーっと口が滑った気がしないでもないが、あくまで善意に基づくものであり、その辺の事情を鑑みて笑顔で流すのが正しい人づき合いというものではあるまいか。


 少なくとも美星はずっとそうしてきた。スバルを相手にする時以外は。今ここにスバルはいない。いつ戻ってくるのだろう。胸をモヤモヤが満たす。

「……あんたうざい。チビだっていいじゃん。つまんないこと気にし過ぎだっての」


 三日月は弾かれたように振り向いた。きっと怒っている。当然だ。くそみそに罵られるかと思いきや、三日月はじっと美星を見つめたまま、意外と静かな調子で返した。


「どうせ他人事だもんな。お前には分らないんだ」

「分るよ。あんたが無駄にいじけてるってね。背が低いからなんだっての? 堂々としてればいいじゃん」


「俺は154センチだ。お前は?」

「169よ」

「考えてみろよ。お前だったら、自分より15センチも低い男とつき合えるのか?」

「関係ない。スバルはわたしよりずっと小さいし」

 美星は即答した。舌を噛みたくなった。

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