第2話
疲れているのはいつものことだ。
女子としてはなかなか高い、169センチの背を丸めぎみに、
特に変わった出来事があったとか、体育の授業がやたらハードだったとかの理由ではない。クラスでいじめにもあってなければ、生活指導の教師に目を付けられているわけでもない。
良く言えば平穏無事、悪く言えば単調で退屈な学校生活の一コマだった。それでも気力ゲージはもうかなりゼロに近付いている。これからどこかに遊びに行くなんてちょっと考えられない。望むのはただ早く家に帰ってスバルと二人で――。
「おーい、美星ぃー、ちょっとちょっとー」
後ろから追ってきたのはリコの声だ。美星はぎくりとして足を止めた。
用件の見当はついていた。校舎裏に連れて行かれてお金を取られる、なんて犯罪行為では全くない。
きっとカラオケの誘いだろう。教室でPDを出して、店の検索やら予約やらをしていた子達がいた。リコもその一人だ。
聞こえなかった振りをしてしまおうかと、子供向け風邪シロップみたいに甘い誘惑に駆られる。
だってカラオケなんか好きじゃない。音楽ならネットとかでプロの演奏を楽しめばいい。もちろん美星の歌にも他人に聴かせる価値はない。
だが迷ったのは一瞬だけだ。美星は意識して口の端を持ち上げて笑顔を作ると、踵を軸に華麗なるターンを決めた。
「はーい、な、あっ」
「んがっ」
否、決めようとした。
振り向いた拍子、肩に掛けていたリュックが何かに当たった。かなりいい手応え。ぶつかった衝撃で、リュックが体から滑り落ちる。
「やだ、えっとその、大丈夫ですか?」
男子生徒が顔を押さえて廊下にうずくまっていた。校内で暴行事件発生、犯人はまだこの近くにいるに違いない。つまり美星だ。
「きゃはは、なにしてんの、美星、ウケるー」
リコがけたたましく近付く中、男子生徒はよろよろと立ち上がった。鼻血などは出ていないものの、ずいぶん痛そうな表情だ。もちろんわざとやったわけじゃない。向こうも前方不注意だったのではという気もする。ともあれ悪いことをしてしまった。
「ごめんなさい、
謝った途端、木須三日月はむっとした様子で美星を睨みつけた。
どうしてだ。意味が分らない。謝らずにいて睨まれるというなら話は通るが、その逆とはこれいかに。
謎を解いたのはリコだ。
「うわ、美星、ひどっ。いくら木須がちっちゃいからって、見えないはないわー」
まるで湯通しでもしたみたいに、三日月が紅潮する。
だいたい150台の半ばぐらいだろう。確かに男子としてはずいぶん低い。たまにネタにされているのは美星も知っていた。そのせいかは分らないが、クラスではぼっちでいることが多いみたいだ。
美星は引き攣りそうな笑顔を浮かべ、リコが油を注いだ火を消しにかかる。
「違う違う、全然そんな意味じゃないから。ただわたしが注意してなかったってだけ。小さい子供の飛び出しに気をつけよう、みたいな、あはは……は」
これはひどい。そのつもりもないのに吐いてしまった毒で喉が詰まる。
三日月の顔は今や赤から蒼白く変わっていた。小柄な体がふっと身じろぐ。殴られる? 美星は思わず目を瞑った。
だが恐れていた痛みはやって来ず、見れば三日月は身を屈めて、二つ重なった鞄に手を伸ばすところだった。上は美星のだ。どうやら落っことした時に、三日月のを下敷きにしてしまったらしい。
三日月は自分のスクールバッグだけを掴んで拾い上げた。結果、美星のリュックがどさりと床に落下する。中には大事な物が入っているのに。
「ちょっと!」
つい声を荒げそうになったが、三日月の闇を含んだ視線に怯む。
「や、なんでも……はは」
「まあもういいじゃん。それよか美星、このあと暇? でしょ? あと一人いると一時間無料になんの。いいよね」
「う、うーん、いいけど……木須君、ほんとごめんね。全然悪気はなくて」
「パソデ貸してよ。美星の分も予約取るから」
「あ……」
リコが袖を引っ張って促す間に、三日月はガン無視で行ってしまった。さすがに追い掛けて機嫌を取るつもりにはなれない。撫でようとした野良猫にすげなくされたみたいな感じ。
首を一振りすると、美星はリュックを開けた。PDを取り出そうとして、あれと思う。
「美星、早く早く、リンクさせてってば」
「待って、今」
一度画面をクリアしてから、リコの前に差し出す。リコが自分の手帳サイズのPDを近付けると、接続要求、続いてID情報の送信依頼が来る。美星が自分で操作するまでもなく、AIが承認。
「オッケー。じゃあピクちゃん、よろしく」
「了解しました」
小さい子供みたいな声が応答する。リコのPDのAIだ。ピクちゃんというのはそのままピクシーの略だろう。猫っぽいキャラがちらりと見えた。たぶんカスタマイズしていない、元から組み込まれているものだ。
パーソナル・デバイスのAIは、人型ならデミ(Demi-human:亜人)、非人型はピクシー(Pixie:小妖精)と通称されるが、デミを自分好みの男性や女性にカスタマイズして使うのは、かなりイタい趣味とされている。2次元の擬似彼氏/彼女というわけだ。
リコはまずその手のことには興味ないだろう。デミをいじる暇があるなら、自分のメイクに張り切るタイプだ。
これから遊びに行くメンバーもみんなそう。もちろん美星も同じ、とクラスの人達には思われているはずだった。
#
カラオケボックスに三時間、適当に飲み食いしながらお喋りもして、美星は終始ニコニコと楽しげに振る舞った。
家に帰るやいなや部屋にこもった。鞄をベッドに放り投げ、その脇に制服を着替えもせずに寝っ転がって、リュックのふたを開けごそごそと引っ張り出したのはPDだ。
「だらしない格好してんな、ミホシ」
どこかやさぐれた雰囲気の男が鼻で笑った。見た目の年齢は二十代後半ぐらい、身長はわずかに15センチ。もちろん生身の人間ではあり得ない。
「うっさい。誰もいないからいいの。もうへとへとだし。のんびりさせてよ」
めくれたスカートもそのままに、クラスメイト相手にはあり得ない雑な口をきく。だが美星に不機嫌な様子はなかった。表情は笑っているというよりゆるんでいる。
「カラオケでか? 馬鹿らしい。歌うのが好きなわけでもないくせによ」
「しょうがないじゃん。つき合いなんだから」
PD画面に向かって唇を尖らせる。だが相手は優しく慰めてはくれない。
「ミホシはマゾなのか? 嫌なら断れば済む話だろうが」
「もしそれで浮いたらどうすんのよ。スバルがどうにかしてくれんの? 人間関係舐めてんじゃない?」
廊下でぶつかった男子生徒のことを思い出す。クラスに友達もなく、終始無愛想に黙っているだけの学校生活を送る。
ある意味、羨ましいかも。人に気を遣わないでいいのはさぞかし楽だろう。
「でもむかつく。謝ってんだから返事ぐらいしろっての」
「うぜーぞこのチビ、ぐらい言ってやれよ。文句を腹に溜め込んでると、そのうち腐って屁が臭くなるぞ」
「やあよ。無駄に嫌われたくないし」
「あの男のことが好きなのか?」
「はあ? なんでそうなるわけ」
「違うんなら遠慮することはない。クソ野郎にはクソを食わせてやるのが合ってる」
「スバル、言い過ぎ。現実はそんな単純じゃないの。むかつくたびにキレてたら、こっちが危ない奴扱いされちゃう。あと学校で勝手に出てくるの禁止だって言ったじゃん。下手したらリコにばれてたよ」
PDを鞄から出す前に消したから、大丈夫だったはずだ。でも結構焦った。
スバルは顔をアップにした。眉根を渋く寄せている。
「オレを他人に見られるのは恥ずかしいのか」
「そういうわけじゃないけど……」
「オレにまで嘘をつかなくてもいい」
「ごめん。スバルのことは大好きだけど、だから余計クラスの子達には教えられない。絶対笑われたり馬鹿にされるに決まってるし。そんなの我慢できない」
「そんな連中、気にするなよ。オレはいつだってミホシの味方だ」
スバルは片頬だけで笑った。一見皮肉げな態度だが、本当に持ち主の自分のためを思ってくれていることを、美星は知っている。
「あの時は木須って男の鞄の中のPDが近くにあったから、自動リンケージ処理が走ったんだ。当然、基本レイヤー止まりだけどな。だからもしお前が木須に興味を持ってたとしても、特別なことは教えられない。悪いな」
「そっか、そういうこと。だったらいいの」
PD同士を15センチの距離に近付けると、ネットワークを介さず直結でのデータのやり取りが可能になる。もちろん勝手に情報が送受信されるなどということはあり得ず、所有者の操作が必要だが、美星はスバルに任せてあった。簡単なことなら自動でやってくれるし、もしスバルの一存では決められないことがあれば、知らせてくれる。
「木須のことは放っておいていいのか? 学校内なら、休み時間にメッセージを送るぐらいはできるぞ」
「あんな子どうでもいいよ。わたしにはスバルがいる。それだけで十分」
「そいつは光栄だ。オレのお姫様」
スバルは芝居がかった動きで一礼した。
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