アイツを見つける時間

 正午を知らせるチャイムが鳴り、午前の講義が終わった。

 何人かの生徒に質問を受ける講師を後ろ目に、私と友人数人は講義室を飛び出した。

 友達は今の講義棟の向いにある食堂へ。食堂がものすごく混むのだ。うちの大学の食堂は学生数の割に食堂の座席数がものすごく少なくて、食べるのが遅いと周りの人達にものすごくにらまれる。つまり「早く席を空けろ」ってことだ。

 そしてそんな状況すら幸せな方で、ランチセットをようやく手に入れてもテーブルが空いていないことだってよくある。

 そういうとこはどうするか……。屋外のベンチで食べるのだ。

 けど、ベンチに座って膝の上にランチのトレイを置くわけにはいかない。スープがこぼれて悲惨なことになる。代わりにやることは、ベンチをテーブルに見立て、そこら辺に放置されている潰された段ボール箱を座布団にして食べるのだ。これははっきり言って悲惨だ。出来ることならランチをゲット出来ないことよりも避けたい事態だ。何しろこの梅雨空、いつ雨が降り出してもおかしくない。

 けど今日、というか毎週火曜日に限っては私は……一人、食堂とは逆方向へ。

 そして私は……一人、食堂とは逆方向へ。

「お昼一緒に行かないの? 何、また彼氏と?」

「そんなんじゃないってば!」

 ニヤニヤ笑いながら茶化してくる友達の誘いを何とかかわし、いつも通りにキャンパス端の旧講義棟へ駆けていく。

 火曜日の講義後、いつもあいつはあの講義棟にいる。他に誰もいない、昼休みの講義室。その最後列に。


 親友――そうだ、私達は親友だ。多分友達なんだ。私は、あいつにとって。

 私にとってあいつ、鈴木浩平は……やっぱり、友達だ。……今は、まだ。

 高校入学の頃からの友達。仲間で集まって、大騒ぎする。あんまりはしゃぎすぎて、あいつにおでこをぴしゃん、とやられる。そんな日々を過ごしているうちに、気付いたら、あいつを好きになっていた。

 鈴木と離ればなれになりたくなくて、必死で勉強した。おかげで学部は違うけど、何とかあいつと同じ大学に入学できた。これで私達の関係が今までとちょっと変わってきたりしないか、なんて思ったり。

 でも、今までの自分を、何より私達の楽しい関係を崩すのは何だか忍びなくて。やっぱりおどけてみせたりして、そんな私のおでこをあいつがぴしゃん、と叩く。そんな日常が、本当に大切なものに思えてきて、余計に崩せなくなる。

 恐る恐る髪型をちょっとだけ弄ってみたり、スポーティ一辺倒だったファッションをちょっとだけ可愛いめに変えてみたり、そんな小さな努力で何かが変わらないかな――なんて勝手な期待もしてみたけど――。

 最後の最後、たった一歩。それだけは、自分で踏み込む勇気が無かった。

 そして、そんな努力が自分にとっては逆効果になって。

 気がつくと私は、あいつに近付くことが怖くなっていた。

 あいつまでの距離、十五センチ。

 少し前までなら何の気なしにハイタッチしたり腕を絡ませたりタックルしたりしていたその行為が、今思い返すとどういう気持ちでやっていたのか分からないくらい。

 今も時々、勇気を出して肩をぽん、と叩こうとする。

 すると、あいつとの距離が十五センチを切ったとたんに胸のあたりがドキドキして、動きが止まってしまう。あいつの周り十五センチが私にとってはまるで無限の距離、真空の宇宙みたいで、息も出来ないくらいに胸が苦しくなる。

 結局、指先であいつの背中をちょんと突いて、あとは逃げるようにそっぽを向くのだ。

 これじゃダメだ。どうにかしてもう一歩、あいつの近くへ。そして出来ることなら、あいつの隣に。


 さっきまでいた講義棟から、食堂へむかう人の流れに逆らって徒歩三分。目の前に崖のような急な階段が現れる。

 取って付けたようなその急な坂を登ると、目の前は旧講義棟だ。さっき講義を受けていた真新しい講義棟とは打って変わって、古めかしいデザインの講義棟に入る。

 手すりまで木製のきしむ階段を昇って、すぐ右の講義室。あいつがいつも講義を受けたあとに時間を潰している部屋。私があいつを見つける部屋。

 講義室の入り口からドアに隠れるようにしてちょっと顔を覗かせると、あいつの背中が見えた。

 いつも通り、混み合う学食を嫌って昼食の時間をずらすために、鈴木はここで難しそうな本を読んでいる。けど、本当はけっこうおなかを空かせているのを私は知っている。長い付き合いなのだ、それくらい最初から気付いている。

 だからいつも私のカバンには、あいつのためにお菓子を忍ばせてある。そのお菓子であいつの空腹を少しだけ和らげて、ついでに二人一緒の時間を少しだけ過ごすのだ。誰も見ていない、私達ふたりだけの時間を。

 カバンの中に今あるのはキャンディが少しと、あと真っ赤な箱に収まっている細長いプレッツェル。

 今日は、あいつに何て言って食べさせようか。

 この二・三ヶ月で、何だかあいつにお菓子をあげるのにも手慣れてきてしまっているような気がしないでもない。でも、あいつにとって私が「当たり前のようにそこにいるお菓子提供者」にならないよう、様子を見ながらお菓子をあげたりあげなかったりと小細工をしている……そんな小細工がいじましいとか自嘲しちゃってたり。

 一番よく使う手が、あいつが窓の外を見ているうちにお菓子を取り出して一人で食べるパターン。そうすれば、おなかを空かせたあいつはお菓子を欲しがる。うん、これがきっと一番自然だ。


 カバンに手をそっと差し入れ、指先でプレッツェルの箱に触れる。キャンディよりもこっちの方が食べやすいし、その後に雑談するにも良いだろう。

 目を閉じて、ちょっと想像。今日あいつにお菓子を食べさせてあげるイメージトレーニングだ。

 プレッツェルを一本差し出して鈴木に向け、「あーん」と言いながら挑発してみる。多分あいつは嫌がるだろうな。それで食べないなら私が食べてしまえばいい。そのあとでつまらなさそうに「んじゃ勝手に食べれば?」と。

 でも、もしあいつがそれを食べてくれたら……。私のつまんだプレッツェルを、あいつの口で、ポリポリと。

 ああ。ヤバい。

 想像しただけで、顔が熱くなってきた。顔を隠してしゃがみ込んでしまう。もしそのままプレッツェルが短くなって、もしあいつの唇が私の指に触れたりしたら。

 私、冷静でいられるかな……?

 いや、そんなことを言ってる場合じゃない。むしろ、私の方からぐいぐい近付いていくくらいじゃないと。

「よしっ」

 顔の熱が幾分引いたのを感じて立ち上がり、小さく気合いを入れる。……端から見ると奇妙な行動なのだろう、数人の学生が私を遠巻きに私を見ながら通り過ぎていく。でも、うん。そんなことで気持ちを萎えさせてる場合じゃない。

 プレッツェルの長さ、十五センチ。

 私があいつに近付けずにブレーキを掛けてしまう、その距離と同じだ。

 この距離をどうやって乗り越えようか? それはまだ思いつかないけど。

 いつか、この距離をゼロにしたい。


 もう一度、講義室の様子を覗う。あいつはこっちの様子には気付いていないみたいだ。

 いつもと違うイレギュラー発生。講義室には、あいつ以外にも先客がいた。カップルが一組。彼等は私のことに気付いているようで、チラチラとこっちを見ている。何だかにやついているようにも見えるが……ううん、気にしちゃダメだ。

 カバンからプレッツェルの箱を取り出し、一本つまみ出してカリッ、と囓る。

 ほんの少し、空腹に若干の栄養と、私の心に勇気を補給して。


 あいつの隣に座るべく、開け放たれた講義室のドアから声をかける。

 補給した勇気を振り絞り、心を落ち着けて、いつもの調子で。

「あ! 鈴木、いたんだ。お昼行かないの?」

 いちばん座りたいその場所を目指して、気取られないように軽い足取りで、トトン、と我が身を弾ませた。

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