プレッツェル。

芒来 仁

彼女を待つ時間

 正午を知らせるチャイムが鳴り、午前の講義が終わった。ふぅ、と俺はひと息つく。

 特に課題の指定も無いまま一般教養・化学概論の講師――どこかの学部の助教授だったか――が軽い挨拶とともに退室する頃には、多くの学生が我先にと駆け足で教室を飛び出していた。

 「学食難民」の回避のためだ。

 この大学のキャンパスは、学生数の割に学生食堂がやたらと狭い。食堂から少し離れたこの旧講義棟からは全力でダッシュしたところで既に食券やランチ受け取り口には長蛇の列が出来上がっている。そして運良く早い段階でランチをゲット出来たとしても……座席が無い、という最悪のケースが待っている。

 劣悪な座席状況により「座席取りは万死に値する」「居座る奴は地獄に堕ちろ」という暗黙のルールが敷かれていてなお、ランチの載ったトレイを持ったまま食堂の外にあるベンチでランチを食べる連中が後を絶たない。

 これがいわゆる「学食難民」である。

 今日もまた、同じ講義を受けた学生の大多数が学食難民と化すのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は授業の終わった昼休みの講義棟、がらんとした空間に一人座ったまま文庫本を開いた。

 俺は人混みが嫌いなのだ。

 人が集って行列をなし、同じ行動に集中している。その状況が自分の個人としての意志を奪い去っていく、そんな気がしてくる。そんなところへ突っ込んでいくくらいなら、多少腹が減っていてもほんの三十分くらい昼食を遅らせることくらい苦にはならない。最悪食堂のランチやらカレーやらうどんやらがすべて売り切れていたところで、売店で売れ残りの菓子パンなんかで胃袋を誤魔化しても構わない。

 そして、その時間を潰すのはスマホやらコミックやらじゃない。

 文庫本。それも小説じゃなく、理工系の俺にとっては専門外の、人文系の学術モノだ。

 自分の理解の外にある言葉が羅列しているのを眺めていると、何だか自分の雑多な感情、空腹感やらランチをゲット出来るかどうかの焦燥やら午後の授業内容への不安感やらが超越的な知識に洗い流されているような、何か悟りを開けるんじゃ無いかみたいな気分になってくる。

 そう、……いつもなら。

 何故、今日に限って。講義室の最前列、教壇の目の前に……カップルが陣取っているんだ。

 見知らぬカップルがひと目もはばからず(他に講義室にいるのは俺だけだが)イチャイチャといちゃつき、ヒソヒソと耳元でささやき合ったかと思うと急に大声で笑い出したりしている。

 ……イライラする。

 知らぬ顔なので文句を言ういわれも無く、ただただ彼等の話し声が俺の神経を逆撫でし続ける。おかげでさっきから読んでいる本の内容が全然入って来ない。『法隆寺の伽藍配置が……』うん、これはさっきから繰り返し目でたどっている行だ。

 読書を諦めて出て行くのも、見知らぬリア充カップルに敗北を認めたようで癪に障る。……いや、現実問題として俺の負けは明らかなんだが。

 何だか下らないことに気を回している自分がバカらしくなってきた。なかなかページの進まない文庫本のページに栞を挟んで置き、うん、と伸びをする。


「あ! 鈴木、いたんだ。お昼行かないの?」

 唐突に右後方から声がかかる。講義室を覗き込んだ女子学生――高校からの同級生、青木美緒だ。

「今から行ってもテーブル空いてねえよ。ただでさえうちの学食なんて狭いのに、混雑のピークに突っ込んで行くなんて馬鹿らしいにも程があるよ」

「でもさ、おなか空かない? 昼休み明けにも講義あるんじゃないの?」

「人混みで自分の思考がすり減る方が嫌です」

「ふーん、そんなもんかなあ」

 そんな会話を交わしながらも、彼女は当然のごとく俺の隣に座る。


 高校入学の頃からの付き合いでそのまま同じ大学に進学した、いわゆる女友達。親友と言っても良いだろう。俺達の間ではざっくばらんなコミュニケーションが常なので、いつもこんな雑な会話になってしまうが――

 本当は、もっと別の意味で、俺の隣に座って欲しいんだ。

 けど、親友になってしまった関係は、崩すにはあまりにも貴重で。

 本当はもっと青木に近付きたいけど、今よりも離れてしまうのは何より嫌だ。

 そんなことが頭の中を巡っているうちに、俺は――

 ――今の関係に甘んじる、それだけの日々を送っていた。

 講義室の最前列に陣取っているカップルが、思いを通じ合わせている二人の存在が、そんな俺の敗北感を助長しているのかも知れない。端から見れば男女が並んで座っているのに違いはないが、こっちはカップルじゃない。自ら評するならば、俺達はカップルのなり損ねだ。……あくまで俺の一方的な表現だけど。


 そして今。その「なり損ね」という言葉すら今の俺達には過剰評価のような気がしている。

 高校の頃には頻繁に小突き、腕を絡ませ、ヘッドロックやら何やらを仕掛けてきた彼女は、大学に進学して以降は微妙な距離を取るようになった。

 その距離、十五センチ。

 数日に一度くらいのペースで彼女のいる背後から、こつんと軽くつつかれる感触がある。振り向いてみると明後日の方向を向いた彼女がそこにいる。それはそれで幸せだ、けど。

 もう少し、近くに。

 その願いをどうやって叶えたら良いのか、それは分からないけど。


 思考が堂々巡りしていた。彼女について思いを巡らせると、いつもこんなことになる。

 ふぅ、とため息をつく。

「どしたの、ため息なんかついて。鈴木らしくないなー」

「放っとけ」

 隣に目をやると……彼女はいつの間にか、プレッツェルをポリポリと食べていた。

「何食ってんだよ。これから昼飯じゃねえのかよ」

「だってさー、鈴木いっつも講義室で時間つぶしてんじゃん。付き合ってたらおなか空くからお菓子常備してんのよ」

「だったら勝手に昼飯行きゃいいじゃねえか」

「友達を放置するほど冷たい女じゃありませんー」

 他にも友達がいるんだろ? 何で俺一人に気を掛けてくれるんだよ。もしかして俺のこと……。

 なんて考えて、こんなやりとりに期待を感じてしまう自分が、さもしい。

 俺と一緒の時間を過ごすためにわざわざお菓子まで買って準備してくれてるのか――なんて、あまりに自分に都合の良い妄想をしてしまう自分が、さもしい。

 細いプレッツェルをポリポリ音を立てながら吸い込む彼女の唇に見入ってしまいそうになる自分が、さもしい。


「冷たい女じゃないんだったら、一本くれよ」

「えー?どうしよっかなー?」

 すました顔、拗ねた顔、笑顔と、表情をコロコロと変える青木。やばい、何か気持ちが漏れ出しそうだ。

「よし、そこまで言うんならこの貴重なプレッツェルを一本進呈しよう」

「そこまでって言うほどねだってないけどな。サンキュ」

 彼女の提案のおかげで、何とか気持ちの平静は保てたようだ。プレッツェルを貰うべく、彼女の手の中にある真っ赤な箱に手を伸ばす。

 ところが、彼女は俺にその箱を向けることはなく――ひょい、と自分でプレッツェルを一本つまみ取る。

「何だよ、くれるんじゃなかったのかよ」

 抗弁する俺に対して、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、その手のプレッツェルを俺に向けてきた。

「はい、あーーん」


 パニックだ。

 これどんな罰ゲームだよ。俺が青木の彼氏ならこんな嬉しいことは無いけどさ、俺は彼氏でも何でもなくて、けど本当は彼氏になりたくて、でもなれなくて、そんな相手にこんなことする青木の胸中や如何に、俺は期待して良いのか、それとも期待させておいて最後には……。

「……どしたの?」

 混乱している俺を、きょとんとした目付きで見つめる青木。ようやく我に還る。

「青木お前、そんなもん恥ずかしいに決まってんだろ?普通に食わせろよ」

「恥ずかしいとか何言ってんの。要らないの?うりうり」

 挑発するように、俺に向けたポッキーの先端をくりくりと回す。

 少し、目を逸らす。最前列のカップルが目に入った。二人はこちらを見ながら……ニヤニヤと笑っている。事実通りに「弄られている男友達」と見てくれているんだろうか、それとも彼等から見て俺達がカップルに見えたり……しないか。


 最近の俺と青木の最接近距離、十五センチ。

 目の前のプレッツェルの全長、十五センチ。

 かあっと血の上った頭に巡る思いの中で、このプレッツェルが二人の距離の象徴に見えた。

 その距離を、俺は縮めようとしたか? 今までこの関係が壊れるのをずっと怖がってるだけで、何もしてこなかったじゃないか。

 彼女が背後から時折縮めようとしてきた?その距離を、今こそ俺の方から縮めるべきじゃないのか。


 心臓がバクバクいっているのをひた隠しに、口を伸ばして受け取る。食べ進めるうちに目前にまで迫った青木の指に心が奪われそうになる。このまま指までくわえ込んでやろうか、という不埒な考えを実行に移す間もなく、彼女の指からプレッツェルが離れた。そのまま手を使わずにポリポリと完食。

「もう一本くれよ。今度は普通に」

「えー? 一本食べたんなら二本目もおんなじじゃーん」

 また青木はプレッツェルを一本取り出し、俺に向けてくる。俺の悩みになんて気付きもしていない、そんな彼女に勝手な苛立ちを感じてしまう自分にげんなりする。

 諦めた俺は、今度は素直に口で受け取った。


 平然と次のプレッツェルに手を伸ばしている彼女に、俺から距離を詰めた意味は伝わっているだろうか。……そんなわけないか。

 けど、それでも構わない。これは俺の、自分への決意表明だ。

 近いうちに、二人で映画にでも行ってみようか。そういえば青木の好きな俳優が出ている映画が近々公開だったか。

 頭の中で、彼女を映画に誘うのをイメージしてみる。

 ……今日は無理だ、心臓が追いつかない。

 でも、あんまり先延ばししないように。

 絶対、今週中には。


「そう言えばさー」

 青木が指を舐めながら聞いてきた。

「鈴木ってこの時間帯はいっつもこの教室にいるよねー。別に場所替えたって良いのに、何で?」

「別に。わざわざ動き回るのも面倒だろ。本もゆっくり読めるしな。それに……」

「それに、何?」

「……別に」

 俺は咥えたままの二本目のプレッツェルをポリポリと囓りながら、素っ気ない返事を返す。

『ここにいたら、美緒が見つけてくれるからだよ』

 声に出したことのない下の名前呼びでの台詞、出来ることなら今すぐにでも言いたい台詞を、噛み砕いたプレッツェルと一緒に飲み込んだ。

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