02-2/2 ハル


 学校にいる最中、唯心の携帯電話の着信が鳴る。

『きのうはゴメン。あと、スカーフ持ってきて  ハル』

 書かれたメールの下記には、ハルの病室と思われる番号が添えられていた。


 授業が終えると、急いでペダルを漕いだ。一度ハルの家へと寄ってスカーフを回収する。このスカーフはハルが季節問わず首に巻いている。

 そういえば、彼女はいつからこの青赤スカーフを見に付けているのだろうか――唯心は彼女と出会ったときから、このスカーフは彼女のアイデンティティーの一部として添えられていたのを覚えている。


 昨日訪れた大学病院。自転車で30分という距離、とても長く感く感じる。

 一階で面会受付を済ませ、その奥にあるエレベータの8階のボタンを押した。

 購買て前の病院内は病気だとは思えない人々が散々する。エレベータの扉が閉まると、異空間のように今までの暖かい空気も入れ替わって冷えた冷気に変わっていった。


 扉の数字が8を示すと、唯心はこの階へ降りる。とても静かだった。壁についた地図を参照し、ハルがいる場所がどこかを把握した。

 行き先は壁に埋め込まれた文字に間違えがなければ『血液循環器』と書かれたエリア。ハルはそこに入院している。


 病院内、鏡ハルと記載された一画の部屋、恭二が人見知りの娘を気遣い一人部屋にしてくれたらしい。閉じていたドアを開くと、ハルはベットの頭の部分を持ち上げて、滅多に見ることのできない病院からの絶景を眺めていた。

 傾く日は、既にこの街を暗くしようとしている。


「今日も綺麗な夕日ですね……」

 静かな二人だけの病室に響き合う。

「あのね、シンくん……」

 来客が訪れる前から、赤く腫れていた大きな目。


「わたし、当分ここに居なくちゃいけないんだって……」


 それが、どういう意味か、唯心は真剣に考えた。病名なんて聞けるはずがなかった。

 ただ、泣いてしまったハルの元へ寄り添い、彼女の涙を受け取めることしかできない。何故かいつも見ている夕日の中のハルが、どこかに連れていかれてしまうのではないかと怖かった。


 不思議なほど不気味なこの感覚が、背後から訪れる死神の鎌のような刃から、彼女をこの場から解き放ちたい気持ちでいっぱいになった。

 それは、以前ハルが言った――『逃げちゃいましょう!』というフレーズにどこか似ている行動を唯心は実行したくて、どうしようもなく感傷に浸るしかなかった。


 そのことが彼女が楽しみにしていた修学旅行へと行けないことを表していた。

 唯心は悍ましいほどの恐怖でベットで泣くハルの肩も、顔も胸も抱くことができないでいた。



 期末テストが終わってからも、ハルは入院し続けた。

 気が抜けて安心した生徒たちと同じ表情をしていた唯心は、購買でハルが好きな和菓子を選んでいた。


 その日々は短くも長く続けられる。

 夏休みという長くも短い期間、何日も見舞に訪ねては唯心は無理に笑顔を作って彼女を慰めた。


 見る限りではハルはそこまで体調が悪いようには見えない。

 もしかしたら、その時からだいぶ彼女に気を遣わせていたのかも知れないと唯心は勘違いしていた。


 恭二やハルからも病名に対して、聞くことはなかった。そのことで、唯心は自身やハル、恭二との家族関係を壊れてしまうのが怖かった。

 今思うと、それは自身に正当な理由をつけて逃げているに等しい考えだったと思う。

 どんな理由であれ、彼女の病状を受け入れる覚悟をすべきなんだ。そのことが、あとから彼女を悩ませる理由や家族としての心構えではないかと、今更ながら思う。


 その反面、いつものようにハルを喜ばせることだけを考えた。

 なにも判らない、でもハルと共にいることだけが唯一できることのような気がした。


 夏休みが訪れた頃、八月が修学旅行に行くか行かないかさえ悩むほどに、唯心は彼女の傍に誰かがいるべきだと考えた。


 太陽が熱い季節になっていた。


 コンクリートジャングルのこの街じゃセミの声ひとつも聞こえはしなかったが、街中でかき氷屋を見掛けると嫌でも季節を考える。


「入院してると嫌でもオリンピックが目に止まっちゃうのよね……」

「あぁ、そういやオリンピックやってんだったな……」


 言われるまでまったく気づかなかったが、今年はオリンピックの年で日本を代表する選手たちが大勢活躍しているらしい。

 教会の手伝いやら、期末テストで全くもって興味がこちらへ向かなかったのも確か。


 ちなみち甲子園もこのようなミッションスクールに通う二人はあまり興味が無い。


「でもいいな……。シンくん修学旅行、明後日でしょ?」

「え……まぁ、そうだけど」


 唯心の言葉は止まった。

 その微妙なニュアンスをハルは見逃さなかった。


「もしかして、行かないとか言い出さないよね…?」

 よく考えろよ? 家族が入院しているのに、おずおずと楽しんでられないだろ? ……なんて言えるはずがなかった。

 逆に気を遣わせる。それだけはしたくない。

「あのね、シンくん…わたしに気にせずに楽しんできてください? わたし、生八つ橋が食べたいんです……。これを買ってきてくれないと、わたしが悲しむんじゃありませんか?」

「……こういう手を遣うか?」

「だって、お兄ちゃんは優しいって知ってますから?」

「そういえば、シンくんの班はどこ回るんですか…?」

「ぁ……俺の班は、西田幾多郎先生の哲学の道と……」


 ――という感じで、修学旅行の1週間を満喫してしまった。

 ハルは当然ながら修学旅行に行くことができず入院生活を送っていた。

 ハルとの約束通りに清水寺に向かう途中にある出店通りで生八つ橋をお土産で買った。

 バスの中で、終わってしまった旅行の感傷に浸っていた

 もし、隣にハルがいたらどうなんだろうか、そればかりが頭に浮かんでいた。

 それで、病院で待つハルへの言葉を考えていた。

 それと同時に自分が見てきたこと、思い出すべてを彼女と分かち合えたら、どんなに嬉しい事か唯心は考えていた。

 でも、できれば彼女と一緒にあの景色を見たかった。


 スクールへ到着すると、唯心は一目散にバスを降りた。

 途中にある自宅の鏡教会に荷物を置いて、猛ダッシュで自転車を漕いで大学病院へ向かった。

 この時間ならお見舞いの面会時間にぎりぎり間に合うはずだ。

 自転車を飛ばして向かった甲斐があり、ハルと話せる時間もちょっぴり長くなった。

 学ランを着たまま、着いた頃には汗だくになってしまった。


「シンくん?」

 そんな唯心を見て、ハルはお道化た表情を見せた。ベットを立てて、読書をしていた。

 学生カバンに京都のお土産で買ったお土産を取り出すと、唯心は急な運動で震える手でそれを彼女に渡す。

 パッケージに描かれた女の子のイラストを見て、たいそう嬉しそうにソレを手にした。

「夕子ちゃんだ! コレ食べたかったのね!」

 彼女はこどものように燥ぎながらそれを胸元へと寄せて抱き寄せる。

「――おいおい、食べ物がかたよっちゃうだろ?」

 それでも、目を輝かせて興奮した彼女を眺めた。

 それだけ喜んでくれるとは思わなかった。唯心はなんだか久しぶりに笑みが零れた。

 パッケージが破けないように剥がすと、箱の中に入っている三角形の和菓子をひとつ摘まむ。

 お構いなく、唯心もひとつ摘まむ。

 口の中に餡子の甘みと、微妙の塩味が広がっていく。

 ハルは、吐息を吐いて、冷たい食べ物を食べたみたいに肩を持ち上げ、ほっぺに手をあてる。

 わざとらしく感じるくらい激しい喜怒哀楽を見せつける。


「おいしいか?」

「おいしい。食べるのが勿体ないぐらいに美味しいよ!」

「あーでも、京都かー私も行きたかったなー」

「――もしさ…」

 唯心は一度息を呑んだ。

「いや、ハルが退院したら、一緒に旅行に行かないか?」


 その言葉に、ハルの睫に陰りができたが、更に言葉を繋げた。


「金銭的に京都は無理だけど、近くだったら俺が連れていくぞ?」


 しばし経って口角をあげたハル――二人の顔を合う。


「ん……こういうときはさ? 無理でも京都でも良いじゃない?」

「いや、現実的に考えて、絶対にいつか退院するんだから、無理な約束はできないからさ」

「――あ、そうだったね。じゃあ、どこにしよう……」

「まぁ、考えとけって」

「いや、忘れると嫌だから今考える……あ、うん、そうだ! わたし、海が見てみたい!」


 そうすると、ハルの妄想は湧き溢れてくる。


「だって、わたしは一度も海を見たことない! 恭二は忙しくて、連れていけないのは知っていたから……。あの、テレビでしか見ない、あの水たまりがどうなっているのか、見てみたいの!」

「――よし分かった。じゃあさ、約束しよう」


 ハルの前に、唯心は小指を向けた。


「え……」

「これがどういう意味か忘れたんじゃないよな……」

「大丈夫、分かるよ? それぐらい……」


    ――それぐらい

 それぐらいだと思うことで何もかもあやふやにしていた。

 現実から逃げる言葉なのかもしれなかった。


 だけど、ハルがどうであれこの約束だけは守ってもらうつもりだった。

 それが、修学旅行に行けなくてショックを受けている彼女に対しての慰めの言葉で唯心自身の欲望の他なかった。


 この時、彼女へとちゃんとした告白をもう一度しようと唯心は考えていた。

 だけど、この日は来ないかもしれない。

 そんなことが胸を締め付けるたびに独り言のように大丈夫、大丈夫と言い聞かせる癖ができていた。


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