第16話 懐妊

 男は頻繁に姫の元へ通ってきた。お渡りのある日は、神社の姫の冠に杉が一枝置かれているので、酒や食べ物を用意し、部屋を整えて待った。

 貴人と過ごす時間は、霊力を失った不安や大田田根子おおたたねこへの劣等感、何もかもを忘れさせてくれる。夜の間だけの逢瀬だったが、不満はなかった。ただ、男の顔を陽の光の下ではっきりと見たい、とは思った。


 この妻問いは大王おおきみも知るところとなり、「国が安泰であり続けるためにも、しっかりお仕えするように」と言われた。やさしげな貴人からは想像できないが、大物主神おおものぬしのかみ疫病えやみをはやらせた祟り神でもあるのだ。


 年が改まるころ、姫は体の異変に気づいた。晦日になると月のものが来るはずなのに、ついたちを過ぎてもしるしは下りなかった。体がだるく、熱っぽさも続いている。


 もしや、子ができたのかも。


 姫は腹に手を当て、そこにあるかもしれない命を感じ取ろうと意識を集中させた。薄暗い胎内に、白い光がかすかに見える。貴人と自分との子が宿っていると思うと、胸の奥が熱くなり、まだ薄い腹を何度もなでさすった。


 新年の行事は滞りなく終わった。休まずに出仕していた百襲姫ももそひめに、大田田根子おおたたねこが「もしや御懐妊ですか」と鎌をかけてくる。探るような目つきに気分が悪くなり、姫は視線をそらせて答えた。

「それは、神が御存知のはずでしょう」


 彼は目を見開き、うやうやしく礼をした。

「おめでとうございます。……神社への出仕はしばらくお控えなさいませ。ここは冷えるので体に障ります。温かくして食べ物にも気を遣われますように。後で、毛皮や滋養のある物を届けさせましょう」

 お詳しいのですね、と嫌味を言うと、大田田根子おおたたねこは意に介さないように笑った。夫である大物主神おおものぬしのかみの子孫とはいえ、やはり苦手だ。ほんの少し、目つきが貴人に似ていることも、腹が立つ。


 満月の夜、姫の棟の戸を叩く音がした。しばらくお渡りはなかったので、まだ子が出来たことは伝えていない。はやる気持ちを抑えて、姫は扉を開けた。


 月明かりに、貴人の顔が青白く照らし出される。切れ長の目を細めてほほえむ表情や、立っているだけで余裕を感じさせる身のこなしが、はっとするほど美しい。ひざまずこうとすると、男は姫を抱き上げ、毛皮を敷いた褥に寝かせた。


「温かくして安静になさい。お腹の子に障る」

 男は扉を閉めて灯を消し、姫の隣に滑り込んできた。腹に置かれた手のぬくもりが心地いい。

「姫との間に子をなせるとは、嬉しい限りだ。体に気をつけて、丈夫な子を産んで欲しい」


 はい、と答えて、姫はふと思った。この方が本当に大物主神おおものぬしのかみであるなら、過去に何人もの女性との間に子をもうけているのだ。大田田根子おおたたねこの先祖や、丹塗にぬりに化けて忍んでいった乙女との間に。

 もやもやとした気持ちを振り払うように、姫は男の肩に頬を寄せ、その肌のにおいで胸の中を満たした。


 気になることは、もう一つある。大物主神おおものぬしのかみは、蛇神なのだ。生まれてくる子は人間の姿だろうか、それとも神本来の姿だろうか。過去の神妻が生んだ子供は、みな人間だったが、今回もそうだろうか。


「どうした、何か不安なのか」

 男に言われて、姫はその腕にしがみついていることに気づいた。

「言ってごらん。不安なままでは、体に障りが出てしまう」

 頬をなでながら、男が耳元でささやく。姫はおずおずと口を開いた。


「畏れながら、貴方様のお姿をはっきりと見てみたく存じます。生まれてくる子の父親のお姿を」


 男の手が止まり、沈黙が流れる。怒らせてしまったのかと身がすくむ思いでいると、静かな声が響いた。

「では、翌朝、貴女の櫛箱の中に入っていよう。どうか驚かないように」


 もうお眠りなさい、と貴人が姫の髪をなでる。久しぶりに男の隣で寝る嬉しさと、さまざまな不安がない交ぜなままで、百襲姫ももそひめは眠りについた。

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