第13話 貴人

 月が満ち、新嘗祭にいなめのまつりが行われた。

 大王おおきみが神社に新米を奉納し、神々に感謝を述べる。その後は、身分に関係なく、食物や酒がふるまわれ、夜通し歌い踊るのだ。

 巫女は神事にのみ参加し、宴会は大田田根子おおたたねこだけが出席した。


 百襲姫ももそひめは、居住棟の窓を押し開け、支え棒をかませた。月明かりの中、遠くから楽しそうな歌声が聞こえてくる。巫女である自分はその輪に入れないと思うと、取り残された気分になる。

 今までそんなことは考えなかったのに、大田田根子おおたたねこという男性祭主が現れたことで、我身の不自由さが際立って見えてしまう。


 やっと疫病えやみがやみ、実りに恵まれ、民が心から笑える日が来たのだから、喜ばなくては。

 そう思うのに、あの髭面の男への嫉妬を抑えきれない。彼は疫病えやみを鎮めた褒美として、河内国から妻子を呼び寄せて共に暮らすことを、大王おおきみから認められた。祭主としての栄誉、民からの称賛、霊力、家族、何もかもが手中にある。


──それに比べて、自分は。


 自虐的な考えが頭をよぎり、百襲姫ももそひめは激しく頭を振った。何があろうと、愚直に神にお仕えする。それが巫女の役割ではないか。

 姫は涙をふき、窓を閉めた。神々へ感謝の祈りを念入りに捧げてから、姫は灯を消して、寝床についた。


 夢の中で、誰かが呼んでいる。

 目を開くと、いつか神床かむどこで見た貴人の姿があった。

 白い衣がぼんやりと闇に浮かびあがっている。顔は見えなくても、無駄のない堂々とした身のこなしだけで、あのときの男性だとわかる。


百襲姫ももそひめ

 深みのある声が、耳から聞こえた。

 夢ではない。


 姫は慌てて起き上がろうとしたが、体が思うように動かない。部屋の中に、どこかで嗅いだ甘い香りが漂っている。

倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ

 もう一度名を呼ばれて、姫は声のする方を見た。消したはずなのに、灯明がともっている。その火を背に、貴人が立っていた。


 以前は気づかなかったが、目の前の男性は、生身の体を持っている。呼吸や皮膚の温度が、空気を伝って感じられる。

「怪しいものではない。名は明かせないが、姫を慕い、妻問いに来た」

 なめらかな口調はあくまでもやさしく、威圧的な感じはない。


「……吾は、神にお仕えする身……」

 やっとのことで、それだけ答える。貴人はかすかに笑い声をたてた。床がきしむ音がして、姫の枕元まで歩み寄ってくる。

「だから、来たのだ」


 薄明かりで、男の顔がわずかに見える。目を細めて微笑する泰然とした感じ、筋の通った鼻、薄い唇。髭のない顎は無駄な肉がついておらず、見かけの年齢は自分と同じ二十歳くらいだろう。

 男は枕元に座り、ゆっくりと口を開いた。


「昔、よその一族が大和を平定し、この三輪の地にやってきた。きっと田畑は荒らされ、民はひどい目に遭うだろう。皆怯え、女子供は山に身を隠した。……しかし、征服者の列の中から一人の女童めのわらわが進み出て、凛とした声で言った。『民に手を出さぬよう。田畑や川を荒らさぬよう』と」


 男の手が伸びてきて、姫の頬に触れた。冷たい指先だ。

「この地と民を助けてくれたことを、感謝する。……ずっと、それを伝えたかった」

 幼いころ、確かにそのような託宣をした。やはりこの貴人は、大物主神おおものぬしのかみではないか。

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