2 味噌カツ食べに行くだけだもん


   2


 出発して三十分ほどたった頃だろうか、ケータイを操作していた英美里が顔をあげて振り返った。

「せーいち、私のカバン取って。ケータイのバッテリーだすから」

「もう充電なくなったの? まだ先は長いよ」

 星一は苦笑いしつつ、大きなカバンを抱えて前の座席に渡す。荷物の多い英美里はカバンを二つ持ってきている。小さい方は膝の上に抱えて座っていたが、もうひとつは三列目の座席の後ろに積まれていた。

「せっかくの旅行なんだから、景色とか楽しまないと」

「景色って言っても、まだ都内だし、面白いものもないじゃん」

 英美里が取り出した携帯バッテリーのケーブルをつなぎながら、不満そうに頬を膨らませた。バッテリー以外にも必要なものがあるのか、そのままごそごそとカバンの中を探っている。

「そういえば、今さらだけどみんな忘れ物とかないよね?」

 星一の問いかけに、英美里が即答する。

「ある!」

「あるんだ」

「どうしよう? あれがないと困るの。戻れる?」

「いや、戻るってここ高速だし……」

「着いてから買えばいいんじゃないの?」

「それじゃだめなの。ああ、ごめん!」

 何を忘れたのかも分からないが、必死さだけは伝わってきた。小柄で小動物のような英美里が目に涙を浮かべていると、なんだかこっちが悪いことをしている気分になってくる。

 葉子は無言で前を向いて運転しているが、心なしか少しだけ車のスピードが緩まったような気がした。

「エミリの家って、横浜だったよね」

 地図を取り出しながら、後ろに向かって問いかける。カーナビを見つつ、「まだ間に合うんじゃないかな」

「えっ、間に合うって、どういうこと?」

「エミリの家って、詳しく言うと、どのへん?」

 地図を座席越しに渡しつつ尋ねる。英美里が指した場所は、ルートからそれほど離れていなかった。

「次の出口で降りれば近いから、一回エミリの家に寄って、忘れ物を取ってくればいいんじゃないかな」

 みんなに確認するが、同意を得られたようだ。葉子の横顔からは何も読み取れなかったけれど、黙ったまま出口に近い左車線に変更してくれた。

「一度降りるから、少し余計に料金かかっちゃうけど、いいよね」

「まあ、旅行にトラブルはつきものだしね」

 星一が笑顔のまま言う。

「でも、エミリの家がこっち側で良かったよね。もし千葉方面だったら、さすがに戻れないから」

 身体が横に引っ張られるような感覚があった。いつの間にか高速道路独特のカーブに乗って、出口へ向かっている。料金所が目前に迫る。時間帯のせいもあってか、特に混んでいる様子はなく、スムーズに出られた。英美里に渡していた地図を返してもらって、現在地を確認する。ナビの目的地を再設定する時間がなかったので、ここから先は地図を頼りに進まなければならないのだ。今までのように壁を見て過ごすわけにはいかない。

「分かるとこまで行ったら、あとは案内してくれ」

 英美里におおまかな方向だけ聞いて、あとは地図を見つつ指示を出す。幸いに大きな通りに沿って行けば、近くまで行けるようなので、それほど難しくなかった。

「横浜って言ってたけど、川崎じゃん」

「都築区はぎりぎり横浜だもん。あっ、そこ、右に行って!」

 ケータイを見ながらエミリが言う。自分の家の近所だというのに、地図でも見ているのだろうか。普段の徒歩移動と、車に乗っているのでは、見える景色もずいぶん違うし、しかたないのかもしれない。

「ここ!」

 英美里の大きな声がして、ブレーキが踏まれる。エミリの家は、星一の家ほどではないが、ずいぶんと立派なマンションだ。「そこにとめといて」と言われるがままマンション前のスペースに停車する。

「せっかくだからさ、あがってってよ」

 突然の提案に面食らってしまう。忘れ物を取りに来ただけだから、このまま車内で英美里を待つつもりだったのだ。みんなも同じように思っていたらしく、愛希など「えっ」と口に出して驚いていた。

「まあ、ずっと座りっぱなしも身体に悪いし、せっかくだから行ってみようか」

 別に急ぐ旅でもないし、と星一が続けて言うと、みんなもぞろぞろと車を降りる。

「もともと味噌カツ食べに行くだけだもんな。朝も早かったし、確かに、今日中に名古屋に着ければいいかもね」

「でもさ、結局エミリの家に来るんなら、初めから迎えにくれば良かったな」

「はいはい、そういうこと言わないの。みんなで集まって出発するから、旅行って気分になるんじゃない」

 英美里を先頭に、暗証番号式のオートロックの自動ドアを開けてもらい、エントランスへ入る。エミリの部屋は、マンションの八階にあるそうで、ぞろぞろと連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの定員は八人で、多少の余裕はあるが、車で隣に座っているよりも、ずっと近く感じる。

「こっちね」

 ドアが開いて、英美里が振り返りつつ歩き始めた。

「私ね、家に友達が遊びに来てくれるって、すっごく久しぶりで嬉しいの」

「大学からは遠いもんね」

 ぴょこぴょこ跳ねるようにして、英美里が廊下を進んでいく。

「はしゃいでるなあ」

「さあ、いらっしゃい」

 英美里に促されて、ぞろぞろと彼女の部屋へお邪魔する。

「今家族は誰もいないから。まあ、てきとうにくつろいでよ」

「もうここで一泊してこうぜ」

「名古屋はどうするんだよ」

「明日行けばいいじゃん」

「いやいや、まだ午前中だから。普通に走れば十分間に合うって。あ、そうだトイレ借りていい?」

「あ、私も」

 玄関を入ってすぐ右のドアを指して英美里は、「トイレはここね。次の休憩までまだかかるし、済ませておいた方がいい人はどうぞ」と笑顔で言う。案内に従ってトイレに入った星一を置いて、俺たちは先に部屋に通された。

 英美里の家のリビングは、暗めの茶色を基調としたデザインで、家具の色調も統一されている。英美里に勧められるままに、リビングの机を囲むように座った。エミリは一人っ子で、両親と暮らしているはずだが、三人で暮らすには広すぎるくらいだ。僕ら五人がいても、ちっとも窮屈さを感じない。エミリはお茶を出してから、自分の部屋で忘れ物を探しに行ってしまった。出された飲み物も、いい香りのする紅茶で、生活レベルの差を感じる。俺の六畳ワンルームで出せるお茶といったら麦茶だけだ。

 そんなことを考えていると、星一が戻ってきた。入れ違いで愛希が席を外す。そのままなんとなく順番に用を済ませる。

「小一時間乗ってただけなのに、結構疲れるね」

「葉子は大丈夫? 運転あんまり慣れてないんでしょ」

「ん、いや、まだ大丈夫。まあ、疲れたら進に代わってもらうから」

「だってさ。ちゃんと私たちの命を預かるんだから、ちゃんと準備してくれないと困るよー」

「準備って、いったい何すればいいのさ」

「柔軟体操とか?」

「車の中じゃ無理だな」

「でも村田も馬鹿だねえ。何の用事か知らないけど、ちゃんと今日来てればエミリの家に来れたのにさあ」

 俺の軽口に星一が応じる。

「いやいや、ただ家に来ても意味がないでしょ。ちゃんと手順を踏んでからじゃないと」

「手順って、なんかやだ」

「でも、狭くなっちゃったけど、一台の車でみんなで行く方が、なんか旅行っぽくて楽しいかも。私、村田ってちょっと何考えてるかわかんなくて苦手だし」

 愛希がぼやく。今回の旅行を企画したのは愛希なのだが、村田を誘ったのは星一だ。星一と愛希はよく一緒に遊んでいるが、村田と愛希はあまり一緒にいるところを見ない。愛希にとって村田は、友達の友達程度の関係でしかないのだ。そもそも、俺たちと村田が遊ぶようになったのも割と最近で、星一が連れてこなければ、一言も会話することなく卒業していただろう。「車泥棒を捕まえた」などと笑って紹介されたときは何事かと思ったが、聞けば、大学近くの駐車場で、星一の車のドアをこじ開けようとしているところを、不審に思って声をかけたそうだ。村田も星一と同じ種類の同じ色の車に乗っていて、自分の車と間違えて鍵を開けようとしていたらしい。話を聞いた星一は「こんな偶然なかなかないぞ」とそのまま飲みに行ったそうだ。同じ車を選んだだけあって、趣味が合うらしく、今では星一の一番の親友といってもいいくらい仲が良い。

「でもあいつ、あとから来るんでしょ?」

「そうだっけ」

「用事が終わったら名古屋で合流するから、宿はキャンセルしてないよ。あっ、そういえば、村田とどこで合流するか決めてないや」

 そう言って星一は、ケータイを取り出した。

「運転中だから、とりあえずメールでいいか」

「そういや俺、村田の電話番号もメルアドも知らないや」

 星一の言葉で思い出す。普段は星一がいるからいいが、旅先ではぐれたりしたらやっかいだ。今のうちに連絡先を聞いておこうとケータイを取り出そうとすると、ちょうど英美里が部屋から戻ってきたようで、足音が近づいてきた。

「お待たせ!」

「いや、こんなおいしいお茶を飲ませてくれるなら、これくらい待ったうちには入らないよ」

 星一が爽やかに笑う。

「じゃあ、行こっか」

 葉子が立ち上がるのに続いて、愛希がガタガタと音を立てて席を立つ。こういうときに育ちの差が出るのだな、と俺も音を立てたので、反省しつつ玄関へ向かった。いくら広い家とはいえ、五人が一斉に外に出られるわけもなく、廊下に列をつくって順に靴を履く。

「星一もそうだけどさ、うちの学校って、お金持ちが多いよね」

 エレベーターに乗り込みつつ、愛希がため息交じりに言う。

「私の家とはぜんぜん違うもん」

「エミリは一生、もったいないからって腐った肉を無理して食べて、具合悪くなったりしないんだろうなあ」

「そりゃ、普通ないだろ」

「いやいや、星一はないだろうけど、普通の学生ならみんなやってるって」

「それは進だけだと思う」

 話をしつつ、車へ乗り込む。席順は前と変わらず、運転手は葉子で、俺は助手席に座った。ほんの十数分しかたっていないはずだが、シートがひんやりしていて気持ちいい。長時間座っていると、熱がこもって居心地が悪くなるので、こまめに休憩を挟むのはいいかもしれない。葉子だって俺だって、運転に慣れているわけではないのだ。

 予定外の寄り道になってしまったが、友達の家に遊びにいくなんて久しぶりで、楽しかった。これも、何年後かには旅行の思い出の一部になっていると思うと、悪い気はしない。

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