恋人

「うわっ」

 情報端末をいじっていた男が声を上げた。

 彼の名前はブイ。二十代前半。着信に驚いている。

 手を顔の近くへ持っていって、通話を始めた。

「もしもし? かけようと思ってた」

 ブイは部屋の中をうろうろしている。綺麗に片付いていて、少し狭い。

 表情が百面相のように変わった。椅子に座って、立ち上がる。

「そうだ。いま、用事ある?」

 相手の言葉を聞いて、ブイの表情が明るくなった。

 自室を出たブイは廊下を歩く。

 玄関の扉を開くと、誰かが立っていた。

 東から差し込む光に照らされ、輝いて見える。吐く息は、まだ白くない。

「ごめん、来ちゃった」

 彼女の名前はティー。二十代前半。男女は同い年。笑顔だった。

 上品そうな顔は薄化粧。清楚な装い。柔らかな雰囲気に包まれている。

 玄関に上がって、ミドルヘアが揺れた。

「ぼくが、向かおうと、思ってた」

 ブイは慌てていた。部屋着のまま。外出用のお洒落な服を持っていなかった。

 髪もお洒落ではない。理髪店で切って少し伸びていた。

 ティーは笑顔を絶やさない。

「わたしたち、心が通じ合っているから」

 ブイも満面の笑みを見せた。

 彼と彼女は、廊下を歩いていった。


「どこか、行きたい場所ある?」

「ブイと一緒にいられる。それだけでいいの」

「ぼくは全然わからないから。なんでも言ってほしい」

 彼女を家まで送って、彼は手を振った。

 日が沈み、気温が下がっている。ブイは、ポケットに手を突っ込んだ。

「待って」

 玄関が開いて、ティーが出てきた。

 手に何かを持っている。

「大事に使ってね」

「手袋。手編みの?」

「寒いと思って、こっそり編んでいたの」

 ティーは、屈託のない笑顔を見せた。


「財布がない」

 食堂で、ブイが気付いた。家に置いたままにしていた。

 学校の食堂では、食券を買って料理と交換する。

 通学には定期券を使う。途中で忘れたことに気付けなかった。

「貸しだからね」

 ティーがお金を入れて、券売機のボタンが押された。

「助かった。ティー、ぼくがここにいるって……どうやって?」

「心が通じ合っているから」

 普段、二人は別々に食堂へ入って、決まった場所で合流していた。

 彼と彼女は、いつもの席に向かう。

 ブイが券売機を見る。すぐ視線を前に戻した。


「わかんねえ」

 ブイは悩んでいた。部屋の外は暗い。

 見つめたノートの文字は、突然途切れている。授業内容を全て書き写していなかった。

「最後の肝心なところがない。夜更かしのせいか」

 チャイムが鳴った。誰とも約束をしていない。すでに夜も更けている。

 ブイは、首を傾げながら玄関へ向かった。

「はい。ノート」

「えっ」

「明日、返してね」

 笑顔のティーは、白い息を吐きながら去っていった。

 ブイは、ノートを持ったまま固まっていた。白い息が漏れ、手が震えた。


「おかしい」

 ブイが呟いた。

 学生食堂で、独りで食事をしている。

 窓の外に少女の姿がある。二十代ではない。明らかに部外者。

 ちらりと見ただけ。それ以上気にする様子もなく、ブイは食事を終えた。

「なんで、連絡しようと思っても何も起きない?」

 授業のあと。ブイは連絡をせず、ティーの家へ向かった。

 玄関の前に立っても、何も起こらない。

「いないのか?」

 チャイムを鳴らしても反応がない。ブイは扉に手をかけた。

 鍵が開いている。

 中へ入ると、誰もいなかった。

 散らかった部屋。ついさっきまで人がいたかのように、生活感がある。

 床の上には、情報端末が転がっていた。

「意外と、大ざっぱなんだよな。このまえ片づけたのに」

 ぬいぐるみに手を伸ばして、触れずに手が戻された。

「どうなってるんだ。わからないだろ」

 目が閉じられる。

「心が読まれていてもいいから、戻ってきてくれ」

 玄関で物音がした。

 驚いたような表情のブイが、ゆっくりと部屋の扉を開ける。

 女が立っていた。

「ブイ? あ。鍵忘れていたね、わたし」

 上着を脱ぎながら、マスク姿のティーが言った。手には袋を持っている。

 マスクが外された。

「何かあったかと思っただろ」

「今朝、体調が悪くて。来てほしいなって思ったけど」

「それで?」

「少し落ち着いたから、買い出しに行ってきたよ」

 ティーは、少しやつれていた。

 ブイは何も言わず、彼女の背中に手を回した。たくましい腕が優しく包み込む。

 身体が離れて、ブイが笑顔を見せる。

「言わないとわからないから、言ってくれ」

 ティーは少し眉を下げたあと、微笑みをたたえて頷いた。

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