もったいない

 日が顔を出す前。集合住宅に爆音が響いた。

 何かのエンジン音が、部屋の中まで聞こえてくる。

 薄暗い中、腕がのびた。枕元のケースからメガネを取り出す。顔に装着された。

 ベッドの下の情報端末が覗き込まれる。

「30分早い」

 長髪の青年は、情報端末を操作する。アラームを解除した。

 鳴り続けるエンジン音。

「睡眠時間がもったいない」

 薄い掛け布団がたたまれる。着替えが終わると、外の音は遠ざかっていった。

 メガネの青年は表情を変えない。

 狭い部屋には、物がほとんど置かれていない。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、閑散としていた。

 部屋の主、ゼットが鉄の扉を開ける。普段より三十分早く外へ出た。空は少し明るい。

 鍵がかかる。

 コンクリート製の建物の四階。朝日に照らされてはいない。蝉もまだ鳴いていない。

 廊下に立つのは一人。

 顔に近い位置まで柵がある。荷物を手に、歩き始めるゼット。

 スーツ姿の青年は、エレベーターの扉を通り過ぎた。

 隣にある階段を下り始める。

 右手に持っていた鞄を左手に持ち替える。右手でメガネの位置を直した。

 長髪は後ろで結ばれている。歩行の邪魔にはなっていない。

 誰にも会うことなく、集合住宅の外へ出た。


 コンビニエンスストアから出てきた、細身の青年。

 大きな建物へ向かって歩いていく。

 入り口で情報端末を取り出し、機械にかざす。扉が開いた。

 振り返らず歩き続ける青年。

 扉が自動で閉まる。

 スーツ姿の青年は、研究室のような部屋に入った。

 照明のスイッチを入れる。メガネの位置を直した。他に人はいない。

 鞄から、栄養補助食品とサラダが取り出された。

 ゼットは、席に着いて朝食を食べ始める。いつものことだった。

 無表情で食べ終わると、PC(パーソナルコンピュータ)の電源を入れた。

「やはり、思考の再現には全く新しい技術の確立が不可欠」

 ときおり呟きながら30分が経過。

 突然立ち上がったゼットは部屋を出た。

 洗面所で歯磨きを済ませて、部屋へと戻る。

 まだ、ほかの人はいない。

 ゼットが話しかけられたのは、30分後のことだった。


「システムの構築は順調かね?」

「終わりました」

 青年の言葉に、中年男性は目を丸くしている。

「データを持ち出しているわけではないだろうな」

「電気代がもったいないので、家には冷蔵庫もありません」

 長髪を後ろで結んでいる青年は、PCを操作しながら返事をしている。

 机の上には、食事の空容器が残っていた。

「本来、ここでの飲食は禁止だ。君が優秀だから容認しているが」

「変革のときが訪れている。そうは思いませんか?」

「わしが決められることではない」

 部長が自分の席に戻る。

 ほかの席でPCに向かっている社員は苦戦していた。

 外とは違い、部屋は冷房のおかげで涼しい。ゼットが呟く。

「リソースがもったいない」

 仕事中、急に立ち上がって運動を始める青年。

 誰も気にしている様子はない。いつもの光景だった。

 再び席に着き、PCを見る。


 昼休憩になった。

 社員食堂に向かう者、外食に向かう者、コンビニエンスストアへ行く者もいた。

 ゼットは、社員食堂で定食を食べた。栄養のバランスがとれている料理。

 食べ終わると屋上へ向かった。

 強い日差しを浴びているのは一人だけ。灰色の街を見下ろす。緑は少ない。

 わずかにある緑の部分。公園で、誰かが弁当を食べ終わった。

 捨てられる割り箸。

「無駄が多すぎる」

 風が吹いて、結ばれた長髪は揺れなかった。情報端末の画面には、科学雑誌の電子版。

 振り返ると少女が立っていた。

 表情を変えずに、青年は建物の中へ入っていく。


 仕事が終わり、ゼットは会社を出た。

 傾いた日は涼しさを運んでこない。気温を上げている。

 橋の近くで人だかりができていた。荷物を片手に歩いていく青年。

 隙間から、人の形をした何かが転がっているのが見えた。

「まだ肉がついているのに、もったいない」

 メガネの位置を直して、青年は家路を急いだ。


 翌日。

「本気かね?」

「はい。この場にふさわしくないのは、私のほうですから」

 会社の部屋。メガネの青年は辞表を提出していた。

 部長は無言を返す。

 ほかの席の社員から反応はない。机の上は雑然としていた。

「次の仕事が見つかるまで」

 そう言って、1ヶ月、ゼットは自分の仕事をこなし続けた。


「完璧じゃよ。計算上は、な」

 白衣の人物が告げた。頭も白い。丸いメガネをかけていた。

 部屋は薄い灰色。何に使うのか分からない機械が、整然と並んでいる。

「これだけのものを、趣味で作ったのですか? 博士」

 長髪を後ろで結んだ青年は、少しだけ表情を緩める。すぐに、少し悲しそうな顔になった。

「倫理観だのなんだのと、制約が付きまとうから困ったものじゃ」

「人間は資源を有効活用できていない」

「すり寄ってくる者は大勢いたが、対等に話ができたのは君が初めてじゃよ」

 博士はにやりと笑う。すぐに表情を戻した。

 青年の表情は変わらない。メガネの位置を直す。

「肉体などというものがあるから、無駄が繰り返されるのです」

「うむ。評価される研究を行い、資金を稼がねばならん」

「プログラムは任せてください。この装置を完璧なものにしましょう」

 目を合わせることなく、二人は作業を続けた。

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