恐怖
青年は暇だった。
やりたいこと、やるべきことがあるわけでもない。
社会に漂う閉塞感から逃れるため、原動機を搭載した二輪車を走らせた。
風が冷たいものの、舗装された路面に影響なし。日差しが上から降り注ぐ。
山の斜面に巻き付いているような道を、二台のモーターサイクルが猛スピードで駆け抜ける。
友人と競争していた。
ヘルメットをかぶり、革のレーシングスーツを着た二人。
何かから逃げるように速度を上げる。
最初に山を下りた大型のモーターサイクルが、徐々に速度を落とす。
すぐに、もう一台のモーターサイクルがやってきた。
二人は並んで会話しながら走る。
もちろん、迷惑行為なのでやってはいけない。事故のもと。
交通量の少ない山道では、運よく事故は起こらなかった。
二台の二輪車は、峠の茶店に停まった。
内燃機関の消音機は改造されていないため、あまりうるさくない。
とはいえ、大型のモーターサイクル。エンジン音は小さくない。
ヘルメットを脱いだ二人は、音を鳴らしたまま雑談していた。
分かっていてやっているので、たちが悪い。
「飯にするか」
「そうだな」
長話を終えた青年と友人は、エンジンを切った。
「このまえ、出たんだってさ、刀男」
「月夜のアレ? マジ?」
店の中で、男女が話し始めた。笑っている。
すでに食事を済ませている青年と友人は、代金を払って店を出た。
「山奥でも、刀はないだろ」
「なんだ、知らないのか?」
「え? 知ってるのかよ」
交友関係の狭い青年は、噂話に疎かった。
芝居がかった口調で伝える友人。
「刀で斬られた者に怪我はない。斬られた者は、そのあと幸運が舞い降りたと言う」
「意味不明すぎだろ」
青年の表情は変わらなかった。
「言うと思った。あの山道を、ほとんど減速せずに抜けるくらいだし」
「ああ。オレには物足りなかったな」
モーターサイクルにまたがった二人は、手を振る。
ヘルメットをかぶると、別々の方向へ走っていった。
青年は不真面目だった。
望むもの、目指す場所があるわけでもない。
現れ続ける刀男の噂をものともせず、原動機を搭載した二輪車を走らせた。
木々が色付く季節。傾いた日差しがヘルメットに反射する。
直線で風になる、二台のモーターサイクル。
サーキットに人が立っていた。
ぶつかる位置ではない。青年はブレーキを使わない。
オートレースの競走路に人が入ることはないはず。レースが終わると、少女の姿はなかった。
「オレの気のせいか」
「そこは、速度を落とすべきじゃないか?」
友人の指摘を受け、青年は表情を変えなかった。
二人は別々の道を帰る。
大型のモーターサイクルのエンジンが切られる。すっかり暗くなった街。
自宅の駐車場で、ヘルメットを脱ぐ青年。
月が出ていた。丸い。
革のレーシングスーツ姿の青年は、天を仰いだ。
空以外に闇は少ない。街の灯りが漏れていて、星はあまり見えない。
月に気付いていなかったのも、そのせいかもしれない。
四角い建物が立ち並ぶ灰色の街。
街灯の下に、妙な格好の人物が立っていた。
腰に何かを下げている。手に持った。刀だった。
「刀男?」
青年のつぶやきに、相手は反応しない。
ゆっくりと歩いてくる。
何百年か前の時代から現代にタイムトラベルしたような、時代錯誤の格好。
それでいて、ふざけている様子はない。
確固たる信念をもって、歩みを進めている。
青年は理解した。
「目的は、オレか?」
返事はない。
一歩、また一歩と進む、刀男。
その表情は、穏やかな水面のように澄んでいた。
人を斬ることに何の抵抗もない。感情のいらない、ただの作業。
前に構えられた日本刀が、光を反射している。
一歩踏み出した。握られた右手の動きは、歩く動作と比べて異質。それから目が離せない。
青年には、辺りの雰囲気が変わったように感じられた。
足が動かない。
大声を出すこともできない。
ただ、刀が近付くのを見ていることしかできない。流れる、ひとすじの汗。
多くの灯りであふれているのに、誰も近くにいなかった。
感情を表していないはずの相手から、とてつもない殺気が感じられる。
威圧感に圧倒されて、青年は震えていた。
ごくりと飲み込まれる唾。
運動神経には自信があるはずだった。なのに、何もできなかった。
心臓が早鐘のように鳴る。青年は音を聞いていた。目が大きく開いている。
刀男が、目の前までやってきた。
「た、たすけ……」
両手で構えた刀が、ゆっくりと振り上げられる。
一秒が、一分のごとく長く感じられた。
振り下ろされた刀。身体を、斜めに通り抜けた。
胸が、燃えるように熱い。
青年の意識は薄れていった。
寒さで目が覚めた。
辺りは暗い。青年は恐る恐る胸を見た。革のレーシングスーツに傷はない。
「生きてる?」
喜びを噛み締めて、青年は泣いた。
斬られた者に怪我はないという噂は、すっかり忘れていた。
ただ生きている。それが幸せだと初めて思った。
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