末広がり
末広が売られている。
「下に広がっていて縁起のいい、福を呼ぶ逸品だ」
「なるほど」
中年男性は無表情。
どう見ても普通の傘だ。
「売らないと帰れない。家では病気の子どもが待っている――」
「わかりました」
続けて何か言おうとしていた相手を制して、男が告げた。普通の傘を、普通より高値で買う。
エヌ氏は、困っている人を放っておけなかった。
露店からすこし歩くと、雨が降ってきた。
夕立だった。いきなり本降りになる。
「扇子だったら、こうはいかなかったなあ」
傘を差しているスーツ姿の男。辺りには、古い木造家屋が立ち並んでいる。あまり広くない道。
旧国道を歩いていた。自宅は、さらに奥まった場所にある。
エヌ氏は、足を止めた。
軒下で雨宿りをしている人がいる。ふたたび歩き出す。
「こんにちは」
「ん? ああ、こんにちは」
「いきなり降ってきましたね」
「うむ。早く止んでほしいのだが」
年配の男性が、表情を曇らせた。
傘を畳み、一緒に雨宿りするエヌ氏。
「連絡できないのですか?」
「持っていない。機械はよく分からなくてね」
男性は、腕時計を見た。お洒落とは言えない服を着ている。顔には刻まれたシワ。頑固さを感じさせる。
雨は止む気配がなかった。
エヌ氏が、相手に傘を手渡す。
「使ってください」
「しかし、君は」
年配の男性が言う前に、鞄から何かが取り出された。雨合羽だった。慣れた様子で着ていく。
「お礼を、させてほしい」
「急ぎの用事ですよね? 行ってください」
「せめて、名前だけでも」
何も言わず去っていく、雨合羽姿のエヌ氏。
傘を差した人物は、後ろ姿をすこし見つめる。すぐに、別方向へと歩いていった。
日が昇る。
人々の動きが慌ただしくなった。
すこし早く家を出たエヌ氏は、近くの公園にいた。木の枝に挟まったボールを取っている。
「学校で遊んだほうが、いいと思う」
「ありがとう。おじちゃん」
ボールを受け取った子どもが、笑顔で手を振った。
会社に向かう中年男性。そのあいだも、困っている人に声をかけていた。
到着時間はギリギリだった。
エヌ氏の会社における評価は、イマイチ。自分の仕事より、誰かを優先している。
「損をする生き方だぞ」
「分かっているのですが、やめられません」
上司は心配していた。数字では測れない能力に気付いている。
「ありがとうございます」
お礼を言ったエヌ氏。
心配してくれた相手に、感謝していた。
露店は見当たらない。
「末広、全部売れたのかなあ」
スーツ姿の男が呟いた。家路についている。雨は降っていない。
雨宿りをした場所の近くまでくると、人影が見えた。
十代半ばの少女だった。まるで雨宿りをしているように、立っている。
躊躇うことなく近づく男。
「なにかあった?」
エヌ氏が聞いた。何も答えない相手。
「困っているの?」
「……」
「困ったなあ」
中年男性は、なぜか難しい顔になった。さらに話しかけようとすると、後ろから声が聞こえてきた。
「詐欺だって? 知らないぞ」
「いいから。話は向こうで聞かせてもらう」
末広売りが捕まっていた。
見ていたエヌ氏が振り返る。
すでに、少女の姿はなかった。
歩いて帰ってきたエヌ氏。
自宅の前に、見慣れない姿がある。
「探し物ですか?」
「はい。あなたを探していました」
黒い服の人物が断言した。サングラスをしていて、目つきが分からない。
「荷物を置いてきても、いいですか?」
「いえ。すぐに同行してもらいます」
古い木造家屋を見つめる、家の主。自宅に入ることはできなかった。黒い服の人物に従う。
二人は、黒い自動車に乗り込んだ。
着いたのは、駐車場だった。
駅前でも一頭地を抜く場所の、大きなビルへと歩く。
中に入った二人。エレベーターに乗る。扉の開いた先は最上階。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋へ入るように言われ、エヌ氏は扉を開けた。たくさんの大きな窓。外の景色が見える。絶景だ。
「気を遣わせてしまいましたね」
景色の感想も言わず、相手を気遣った。
笑う相手。
「お招きが遅れて、申し訳ない」
年配の男性は席を立ち、傘を差し出した。手が伸ばされる。
「末広がりですね」
受け取った傘を差すエヌ氏。
「ああ。助かった。お返しする」
「差し上げましたから、使ってください」
中年男性は傘を畳んで、ごく自然に言った。
相手は驚いている。
「お礼をさせてもらう。嫌とは言わせんぞ」
「はい。あのとき、名刺を渡しておくべきでしたね」
鞄から名刺が取り出される。受け取った年配の男性に、傘も渡された。
年配の男性は大金持ちだった。
エヌ氏は、夕食をごちそうになる。食事のあと、話を続ける二人。
「どうだ。私の会社で働いてみないか?」
「よく調べてからのほうが、いいと思いますよ」
「分かった」
「あまり、評価は高くないと思いますけど」
「数字では測れないこともある。また連絡しよう」
「はい」
二人が席を立った。
エヌ氏に右手が差し出される。すぐに手を伸ばし、二人は握手した。
次の日。
スーツ姿の男は、普段どおりだった。
困っている年配の女性に声をかけ、力になっている。
「お礼ですか? 気にしないでください」
気が済まない様子の相手に、何かを渡した。
この日も、すでに多くの人に声をかけている。
去っていく相手。
それが、この日お礼を言われた、八人目だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます